続強子の部屋

思いつくまま、気の向くまま、書いています。

東京大空襲

2019-03-09 19:22:43 | 怖かった
74年前の東京大空襲は忘れることができません

防空壕で寝ていたら、母に起こされて防空頭巾をかぶって、

外を見たら家の前の通りを大きな火の粉がどんどん飛んで

行きます、父はリヤカーに荷物を積み、姉が自転車に荷物を

積んで、外に出ました。私は母に背負われました。

姉たち両親、隣の母子4人、お父さんが出征中で我が家が

お世話していました。

総勢10人近くの神社の防空壕に入っていました。両親は

私たちをおいて、家に何かを取りに戻りました。

私は大声で、行っちゃだめだ~と大声で叫びました。

私だけが大声を出したのでしょうか。

姉たちの声は聞こえません、すぐに両親は戻ってきて

もうだめだと言いました。防空壕は熱くなってきました

熱い熱い私が大騒ぎをしました。そして総勢10人は

そばの橋を渡りました。渡りきったところで、こちらに

大勢の人が向かってきました。両親はどんな気持ちだった

のでしょうか。

そこへ馬がパカパカと駆けてきます。みんなで建物の

陰に隠れて馬が通り過ぎるのを待ちました。 

そして川沿いの堤防を走りました。木の橋をみんなで

渡りました。風が轟々と鳴っています。

橋の欄干が燃えています。父が何か言っていますが。

母には聞こえなかったそうです。

橋を渡ったところで、警防団の人がみんなを小学校に

案内してくれました。

そこで母が渡った橋が船堀橋だと気がついて、母の従姉妹の

ことを思い出し、警防団の人に話したら、その中に従姉妹の

ご主人が居て総勢10人がお世話になりました。

私たちが渡ってまもなく、船堀橋は焼け落ちたそうです。

お隣のさだおちゃん、りょうこちゃん、とし坊はまもなく

房総のおばさんの実家に帰ったそうです。

どうしたかしら可愛い三人兄妹弟、今でも忘れられません。

私は今でも、両親が家に戻るとき行っちゃだめだと叫んだこと

熱い熱いと騒いだことがみんなを救ったと思っています。

姉はおんぶされた強子が何を言うのと馬鹿にします。

近所でも速く学校に避難した人が亡くなりました。

今でも大きな火の粉が飛んでるのを思い出します。







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2 コメント

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東京大空襲 (onecat01)
2019-03-14 21:59:37
続強子様

 このブログを読み、あなたが私の大先輩と知りました。これまでの失礼を、ご容赦ください。

 本などに知識を求めるより、貴方にお話を伺った方が、ずっと正しい正確なのだと分かりました。

 これからも、どうか、よろしくお願いいたします。
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お恥ずかしい限りです (続強子の部屋)
2019-03-15 12:00:46
コメント有り難うございます。徒に年を取りました。
父や母に昔の話をもっと聞いておけばと
後悔しています。
二人とも関東大震災の生き残り、東京大空襲にも
生き残って。戦後の食料難の時子どもを守り。
おまけにキティ台風で水害に遭い。
凄いと思いますが、国民はみんなこのようなことを乗り越えて、頑張ってきました。
今生きていられてありがたいです。





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