75年前の空襲を思い出します。
夜中に起こされて、外を見たら、大きな火の粉が
家の前の通りを凄い勢いで飛んでいます。
防空頭巾、小さな袋を斜めがけにして、火の粉を
見ていました。次姉と父がいません、
近所の火を消していると母が言いました。母は
リヤカーに荷物を積んでいます。お米屋さんが
空気入れを貸してと言って空気入れを持って
行きました。
次姉と父がもう駄目だ逃げよう空気入れは?
お米屋さんが・・・お米屋さんはもう避難して
お店の前に空気入れが投げ出されてあったそうです。
それを持ってきて、空気を入れて避難しました。
ご主人が戦地にいる隣の家の小母さんと小さな
三人も一緒に総勢10人が連れ立って避難です。
お隣の6歳の貞雄ちゃんは、しっかり荷物を
背負っていました。真ん中の良子ちゃんは4歳、
姉が背負いました。一番小さいとし坊は小母さん
私はその前に足を挫いてよろよろしとしてい
ました。恥ずかしながら母に背負われました。
強風と、火の粉の中全員助かりました。
私たちが船堀橋を渡りきったところで、
橋は燃えてしまったそうです。
その後は親戚に助けられて無事いままで
生かされて来ました。
お隣の小母さん可愛い三兄妹も無事に小母さんの
実家に戻れましたが、小父さんはハルピンで戦死
しました。有名なお店のコックさんでした。
前線には行かないだろうと父は言っていましたが
残念でした。長兄も3月ニューギニアで戦死。
色々な事を思い出す三月です。
沢山の人が焼死したのに、政府はその後も初期の
消火を勧めていたそうです。正直に消火していて
もう少しで全員死ぬところでした。
リヤカーの空気入れを放り出した、お米さん
は戦後派手に仕事をしていたそうですが、
父はあんな奴がね~と言っていました。
すぐ上の姉には、強子は腰が抜けたんだね、と
いつまでもからかわれていました。
橋のたもとで私たちを、出迎えてくれた、警防団の
人たち、親戚、みんな有り難かったです。
私は、終戦記念日にはまだ四ヶ月一寸、覚えてるはずはないのですが、
子供の頃は飛行機の音がとても怖かったのを思い出します。
凄い田舎なので、戦禍は逃れられても。山の向こうが真っ赤に燃えてたのを見たと、母が話してました。
おそらく母のお腹のなかで爆音を聞いてたのが残ってたのでしょうね?
二度と起こしてはならない事です。
父や母はどんな気持ちだったのかしら。
詳しく聞こうともせず、いまになってあの時の事を
もっと聞いておけば良かったと思います。
いまは無事ですが、これからはどうなるのでしょう。
巨象が倒れるときが来たら、私たちはひとたまりも
ありません。
厳しい世の中になりました。
お袋は長女でやはり末っ子の綾ちゃんを背負って防空壕に逃げたという話ぐらいであまり話してはくれませんでしたね
親父も同様当時の人々は語らない方が多いと感じます
やはりあまり思い出したくないのでしょうかね
戦争は絶対いけません
国民と国民の戦争は宗教戦争ならあるでしょうが
政治家や一国のトップは戦争を避けなければなりません
国民が犠牲になるだけですからね
いつもコメント有難うございます
戦争はいけませんね。
でも仕掛けられたら、勝たねばなりません。
そのためには強い国にならければなりません。
国が無くなってしまいます。
平和平和と叫んでいたら、いつの間にか、強い国から
日本語は喋っていけない我が国の言葉を喋ろと
言うような事になります。
貴方の思い出を読む時、私は、戦後に亡くなった父や叔父たちのことを思い出します。
戦争のことを、口にしませんでしたが、簡単に、「戦争はダメだ」とも、言いませんでした。
外国から仕掛けられたら、家族や故郷を守ろうと、そんな気持ちがあったからだろうと、思ったりします。
「戦争を好きな人はいません。」・・・私は、反日・左翼の平和愛好家たちに、心の中で言います。
いつまでも、元気で、優しいブログを書き続けてください。
戦争とは、国を守るための戦いでしょう。
平和平和と言っていても、国を守れません。
それには力が必要です。力が無くては
流浪の民になってしまいます。
自国の言葉を禁止され、自国を貶める事を
強制されている国が現実にあります。
そのようにならないために、私たちは頑張らなくては
なりません。
生意気言ってごめんなさい。