ミクロもマクロも

心理カウンセラーが気ままに書き続ける当たり前

とうちゃんと呼ばせる父親と雨

2007-05-17 09:00:47 | Weblog
 いつものように、父親は幼い息子を抱いて、道路よりかなり低い所を流れる川の
流れをフェンス越しに見せている。
毎週土曜日の朝に見られる光景。男の子は4才。
若い父親は、息子に「とうちゃん」て、呼ばせている。
時に遭遇するその場面の息子は、いつも驚くほど大きくなってきている。
しかし、全身から溢れる父親に寄せる信頼感は変わらず。
掛け算的語彙増幅を駆使して、彼は父親に様々な質問と感想を述べているようだ。
溢れる思いは言葉となって、父と息子をつなぐ。
サラリーマンの父親と過ごす土曜日の貴重な親子の朝の時間。

仕事帰りの父親とたまに話すことがあるが、いつだったか思わず
「あなたは大事に育てられてきたでしょう?」
って、言ってしまった事があるそんな男児である父親。
自分の考えを、近所のオバサンとも話せる、世間話にも付き合うそこには拒否も
おもねもない。
話し方、考え方などなどから、思わず出てしまった賞賛。
「奥さんもお子さんも、なんて幸せなことでしょう」

大事に育てられた人は、他者を大切にする。いつも「私」に囚われない余裕がある。
「私」は大事だが、同じくらい「私以外の人」にも、熱い思いが持てる。
「私が!」を強調しなくても、充分に認められてきた自分を知っている。
それが生きて行くための基礎栄養だということを、それが血肉になっていることが
うかがえる父親。無意識の化学変化が精神の血肉形成になっていると思われる父親。

滅多に会う事もない親子だが、思わず頬がゆるむ光景に出会う土曜日は、私にとっ
ても嬉しいシーンである。
しかし、いつかその息子も大きくなって、
「行く川の流れは絶えずして・・・・・・」
鴨長明だったか、川の流れに人生をたとえた、やや無常観が漂う有名な出だし。
私たちが学生時代に暗記させられた古典のひとつにその息子が出会う時、彼は過ぎ
去りし日にとうちゃんと見た川の流れを、どのような感慨を持って追憶するのだ
ろう。

どのように便利なモノに囲まれていても、抱えきれないモノを持っていても、彼等
親子の間にあるような、見えない絆と愛にかなうものはない。
次の土曜日は雨の予報。
雨の土曜日の朝は、彼等親子は何で絆を紡ぐのだろう。

♪あ~めが降ります、あ~めが降る~~。い~やでもおうちで遊びましょう~~~
       お~りがみ折りましょう、畳みましょう~~~~♪  (二番)

こんな歌を歌った時代があった。一番は、

 ♪あ~めがふ降~ります、あ~めがふる~~~。
         あ~そびに行きたし 傘はなし~~~~、・・・・・・

今は100円で傘も買え、使い捨てのような貧しさの中に生きている。

とうちゃん と呼ばせる父親は、ほとんどがアメリカ人達の職場で働く。

外は雨。腹這っての行儀悪い読書に最適な、雨垂れの音を聞きながら、
読むは中原中也の本か。ウチの宇宙人がテーブルに置いていった中也の本4冊。
詩を読むなぞ、何年ぶりか。
「檸檬哀歌」が懐かしい。智恵子抄の中に香気を放つ一篇。トッパーズ色の香気が
漂うと歌われた檸檬。雨の日は、詩が似合うかも知れない。