このほど文部科学省が、全国の高等学校における生徒の携帯電話の持ち込みを許可するという方針を決定したという。教育委員会も、その線で、持ち込み、使用法の検討に入っているようだが、携帯電話の持ち込みの可否まで、国の機関で決定することに違和感がある。そういえば、かつて、学校の給食に、カレーを出す日を決定しかけたこともある。実際はどうなったのか記憶にないが、北海道から沖縄までの全国の学校で、すべての子供がカレーを食べている様子を想像すると、ぞっとする。
日本民族は、みんなで一緒に何か行動をすることを好むのだろうか。同じ思考様式や行動に走るという点では、中国、北朝鮮、韓国などの方が顕著であるから何とも言えない。では、人類特有のものかというと、そうともいえない。群れを作って生活、生存する動物はいくらも存在するからである。一匹狼などというが、オオカミも基本的には群れをなしている。
無論、人間も、完全に一人では生きていけない。鴨長明も兼好法師も、他人と完全に遮断されては生き得なかっただろうし、随想も残せなかったに違いない。実際、かれらの随想の内容は、かなり他者や世俗に関心があったことを示している。
民族性、国民性の特徴や、人類特有の性格でもないとするなら、人々や国によって、全体行動に走るのが好みであったり、そういう機会には積極的に参加したり、逆に、そうした人々や機会に距離を持ったりする人が共存しているということなのであろう。ただ、社会主義国や独裁国家は、国家経営の手法として個性や個人的権利や個性よりも国家、政府、為政者による思想、行動の統制を行っていることは否定できない。前記の文科省の行為にも、このような気配が感じられてならない。社会主義国家、独裁国家の国民として生まれなくてよかったと、しみじみ思うから、文科省の事例に違和感を覚えるのである。
ところで、自由主義国家に生きる私たちが、個々のアイデンティティを放り出して、規模の大きな団体、一斉行動に走るのははぜであろうか。近年の若者は、個々の権利や嗜好を大事にして、ばらばらな存在になっているかに見えるが、実際には、歌手、タレントのコンサートに数え切れないほどの人間が集結して、キャンドルライトを振り回しているし、わが地元では、プロ野球の試合の入場券を求めて、数万人が集結し、暴動寸前の状態になったし、ある歌手は、7,000人のファンが集まったのに、人数が少ないといって、土壇場でコンサートを中止するという行動に出たというような事例を勘案するなら、この国の現在にも、大勢が集結して、同じ行動をとる人達が存在することは分かる。しかし、彼らは、自由意思で動いていることが、私にとっては、わずかな救いである。だが、先日、国内のある町(村?)で、村八分事件が怒り、話題になった。一人の住民を自治会からはじき出し、生活に支障を来す状況になったという。新米の村民が、既存の村の決まり事に異議を唱えたのが発端であるという。こういうことは、日本人特有のこととは思いたくないが、閉鎖的な社会にはありがちなことで、特に、最近流行している移住先の一部の農村や、古い体質の自治会などでは起こりがちなことである。農村の事例は、私自身、身をもって体験している。テレビで、移住受け入れ先の人が、わが村では、移住してきた人も含めて、村中総出の行事がたくさんあると誇らしげに語っていたが、私にとっては、少しも魅力とは思えなかった。自然が美しい、水や空気がきれいというのは、その通りであるが、そこには人や人の集団が存在し、それぞれの流儀で生きてきているということを、よくよく認識した上で移住という、おそらく人生の後半を生きる場の選択に望んで欲しいと願うばかりである。作家の曾野綾子が、都会に住むメリットとして、近隣との付き合いの希薄なことをあげていた。あれだけ精力的に、他者と交わる活動をしている人にして、そう言わしめるものがあったのであろう。
自分の意思で、自分らしく生きる可能性の多い国に生きる者としては、自分の尊厳を大事にし、同じように他者の存在を尊重するような人間関係、集団を築いていきたいと思うし、最低限、そのようなことの出来る環境を選ぶ努力をしたい。