奇妙な日本語を耳にすることが多い。
「僕的には、難易度が高いかなあとは思います。」
これでコミュニケーションができているところが怖い。
「僕的には」=「僕には、ぼくとしては」
「難易度」=「難度」
「かなあ」=「不要」
「とは」=「と」(「は」は不要)
これを見ると、無駄が多い。こういう日本語を用いていると、日本語のよさを失うばかりか、ものの見方・考え方、感じ方にもよからぬ影響が出てくるのではないかと心配である。上記の例を、少しばかり掘りさげてみよう。
1 ○○的……初めて耳にしたときには、違和感とともに新鮮さもあったが、聞き慣れると、ただただ耳障り。省エネのためにも、「的」は、削除しよう。
2 「難易度」とは、「難度」か「易度」か。「易度」という言葉は、手元の中型国語辞典にも掲載がない。なぜ「難度」と言い切らないのか。ちなみに、和英辞典で「難易度」に対応する英語を探すと、difficultyが見つかる。まさしく「難度」である。「難易度が高い」では、意味不明である。
3 「かなあ」は、若者の間では、日常的に使用されている。自分の考え方、感じ方を表明するのに、断定せずに、「かなあ」とは何事かと思うのだが、婉曲に(遠回しに)表明するというエチケットなのであろうか。無用のことであるあ。
4 「とは思う」は、スポーツ選手などへのインタビューの折に必ず耳にする。スポーツマンらしく「と思う」と言い切って欲しいと願って、頭の中で、「は」を消去している。
「あえて言うなら(特に言うほどのことではないが)」というニュアンスがあって、歯切れ(思い切り)が悪いのである。
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上記の例文を、「私的に」言い換えれば、以下のようになろう。
「私には難しいと思います。」
(「とても」「かなり」を「難しいの前に置くこともあろうが)
なんとすっきり分かりやすいことか。
他にも、「見れる」などの、「ら抜き」の表現に出会うことが多い。これも若者に多い。言語は、省エネの方向に変化するとも言われるが、上記の事例のように、省エネとは逆の方向に進むこともある。
おもしろいことに、「ら抜き」表現は、テロップ、スーパー・インポーズを伴う場合、ほとんどが「ら抜き」を修正しているのがおもしろい.世代間のせめぎ合いか。