オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

伝統儀式の本当の意味を語るべき

2019-11-15 10:34:55 | 歴史に埋もれた真実

 

 歴史では決して触れてない、そういう事実はたくさんある。

 わざと触れてない、明るみになれば愕然とされ、支配・統治が行き届かなくなり、恐怖政治と看做される惧れもあることから、闇に葬って未来に遺さない、そういう歴史は多い。

 そのひとつ、幼い子の人肉を喰らう、戦っていた憎き相手を滅ぼした後に、その敵だった者の中で幼児を切り刻んで、鍋に入れて皆で喰らって歓声を上げていた時代もある。

 大人の男女は祟るし、不味い。

 我が国では、その不味い大人の敵の首領をわざわざ切り刻んで、喰らっていた時代もある。

 皆さんが子羊や子牛やの肉を好んで喰らってるのと、大差のないことだ。

 これを現代でも秘して行っているのが、他ならぬ世界の統治者たちではある。

 統治するとは、支配・管理するとは、その相手を喰らうことでもある。

 こういう野蛮なことが、本当に行われている現場に、心の弱いのほほんと生きてる現代人が立ち会わされるとどうなるか? 腰を抜かして嘔吐して、その後の人生は大きく変わってしまう。

 不肖な我が子を殺させてしまった元総理なんてのは、その後の人生がすべて歯車が狂ったまんまだ。

 アメリカやイギリスの統治では、こういうおぞましい秘密の儀式のような、そんなことが今も行われており、そこに呼ばれた日本の政治家や官僚・大企業の経営者なぞは、その強烈な現場に身を置いて狂い果てる、そういうことは昔からあったことだ。

 太平洋戦争の末期には、日本の戦意をそぐ方法として、富士山を真っ赤に塗りたくってしまうという方法も、アメリカの軍部では真剣に議題に上がっていた。

 笑える話ばかりだが、そこに生きて居た人間にとっては真剣そのもの、これが現代でも、高度な文明を手に入れてるという人類の世界でも、相変わらず続いている。

 アメリカの大統領らは、たいがいの者がそんな儀式に臨んでいる。

 そこで微動だにせず、誰よりもムシャムシャ人肉を喰らうものでなければ、世界の覇権国家の棟梁にはなれない。

 30年以上も前の、訪問販売の営業の世界でも、似たようなことは多かった。

 そこでもっと怖ろしい男となり、皆が驚愕するようなことを平然と行える、そういう行動を若気の俺はいつも独りでやっていたもんだった。

 日本の歴代の総理はみなそういう儀式に呼ばれ、忠誠を誓わされている。

 死ぬまで口外できないことを、皆で行う、これが集団統制の昔からある愚行になってる。

 政治とは、そういうものだ。

 山の獣たちの間では、そういうことが普通に行われている。

 山賊や海賊たちは、喰うものがないときは人肉を喰らって生きておった。

 日本の歴史にもたくさん書き遺さなければいけない真実はある。

 俺はそんなことも、近い子供たちにはキチンと話してやっている。

 知って居れば、そこからどう生きるか? 真剣に考えるようになる。

 隠しておれば、それを知った時の衝撃で身がすくみ、狂い果てるのがオチだ。

 5Gの時代に、農業・漁業にはあえて目を向けることもなくなってる時代に、我が皇室の行事は原住民のシャーマニズムの抜け殻、余裕のある時間に誰にも迷惑をかけずに行うのであればまだしも、義務のように強制的に行う、この姿は異様な集団としか見られない。

 伝統を守るのであれば、隠しておくものばかりであっては形骸化する。

 その儀式の本当の意味を、まず話すことから始めて欲しいとは想うね。

 人類の歴史と、人身御供の歴史、これはどこにでもある話だ。

 

 さ、今週の山の天気図はどうだろうかね?

 その前にいろんな仕事が入ってきておって、それをこなしてからだな~。 

 東京タワーの近所のビル貸主婆さんのとこまで、とりあえずは歩いてゆくわさ。
 
 往復で15000歩くらいか、ま~ま~平地の移動だから、両腕に500gの重りを付けていってくるべか・・・。
 

座禅草、秩父往還を行く、謎の謎

2019-03-18 10:59:35 | 歴史に埋もれた真実

 

 座禅草が、真っ盛りにパックリひらいていると聞き・・・そうだそうだ、真田の昌幸が夢枕に立ち、栃木は佐野の薬師堂に呼びだされてひそひそ話をしてきたのが先週末だったけんども、そのときに中津川渓谷と金山沢についての話がヒョイとあった。

 奥秩父は小鹿野の両神山の西側、岩場・鎖場好きにはたまらないエリア、中津川の源流にあるニッチツ鉱山はすでに閉鎖になっているが、ここには武田の時代に開発した金・銅・ナニやらの採掘場がもともとあった。

 廃村好きのモノ好きがヨダレを垂らす原風景が、そのまんま残っている。

 沢登り好きの変態でも、よく知っているエリアだろう。

 

 塩山市から大菩薩嶺の登山口を抜け、柳沢峠を越えると、黒川金山跡に辿り着く。

 武田の財政を支えたと言われる、大変に賑わった金山があった。

 哀しい遊女の伝説も残っている。

 その先を下りて行けば奥多摩湖・青梅へと道は繋がっている。

 青梅街道のことだ。

 そのもう一つ北側を登り進む古い道が秩父往還、雁坂みちとも呼ばれ、笛吹川の源流を辿るように甲府盆地から西沢渓谷を抜けて雁坂嶺の登山口を過ぎて行けば、大変な険しい山々が聳え連なっている奥秩父の山塊の主脈だ。

 まんずは塩山市から大菩薩の西側の尾根を歩いてみるか・・・ということで、座禅草の見ごろになっている玉宮から小倉山・高芝山方面へと登ってきた。

 あいにくの重い天気で、小雨もパラパラ、富士山も見えず、座禅草だけ見て雁坂峠まで行くか・・・とも想ったが、仕事が忙しくてこの頃はたいして歩いてないから、まだまだ生きていたいと思えばこそと、トボトボと歩き出した。

 

 座禅草とは、雪が溶けない時分に、自分の体温を25度くらいまでに上げて邪魔な雪を溶かし、そうして開花して見せるという高度な生態を持つ山岳に咲く花だけんども、綺麗とか可愛いという高山植物とはチョイと違ってる。

 体温を上げるとどうじに、独特な悪臭を周辺に放つ。

 そうして雪の残る山でウロウロしている昆虫類を呼び集め、受粉を行ってしまう。

 人間の女性の陰部の酸っぱい臭いもおなじ意味がある。

 人生60年、それに惹きよせられてる俺は、可愛い昆虫か・・・な訳はない。

 その座禅草の細胞にはミトコンドリアが大量に集まっているとは言うが、不思議な生態については現代でもなんら解明は出来てはいない。

 

 さて、信州から秩父へ抜けて関東平野に出る道は十石峠を越える難路だけんども、秩父から甲州へと抜ける秩父往還は、いまでは140号線が雁坂トンネルを通って一気に走り行けるけんども、当時でも相当な健脚でなければ通れる道ではなかった。

 昨日も、まだまだ樹氷やら雪がたくさん残っておったが、標高で2000m近い峠と険しい原生の森、登山者には優しくない山々が連なっておって、だからこそ俺なんかは大好きな山塊になってるんだが、戦国時代にここを2万の武田軍が進んだとかいう寝言が歴史書なんかで出て来ると、阿呆か? と笑うしかない。

 細い曲がりくねった道と、延々と続く急な登り道、獣道とさして変わらない道だったろう。

 江戸時代に出女・入り鉄砲を厳しく取り締まるために主要な往還には関所が作られたが、この秩父往還の山岳地帯、大滝村にも栃本の関所があった。

 とは言っても、秩父往還とは先に書いた通りの険し過ぎる長い道のりだった。

 にも関わらず、徳川の時代を迎える以前から、栃本には関所はあった。

 これは武田信玄が発掘させた金山が、この奥秩父にもあり、関東平野からやってくる北条家の軍勢を防ぐための関所であって、雁坂峠を越える旅人を取り締まるためのものではなかった。

 まったく逆の意味を持っていた。

 栃本の関所は、いまの140号線が通る場所よりももっと上の、眺めの良い場所にある。

 歩き疲れて、重い荷物をおろし、ひと息ついて、握り飯でも喰うには最高の景色が広がってる。

 

 武田信玄はあちこちに多くの金山を発掘して管理・運営させて資金作りを行っていたが、その金山発掘の余禄として、温泉もまた発掘している。

 戦い小競り合いの多かった戦国時代、傷を癒し半農半士で疲れはてた兵士の憩いの場としても、役に立っていた。

 奥多摩の奥にも、奥秩父のエリアにも、その当時に栄えた金山はあった。

 錬金術師というものは山を歩き見て、砂を手にして岩に触れ、湧く水を口に含み鉱脈を当てたとも言われているが、原生の山々を常に歩いておったから、獣道ですら迷うこともなく、伝って行きかっておった。

 その山々では近隣の山師や猟師や炭焼きの民を連れて歩き、山勘というものを身に付けていた。

 俺の古い知り合いの山好きには、偉そうな顔して山岳ガイドやらやってるチンチクリンがおるが、そんなスケベ根性が抜けない半端者とは違って、ホンモノの山の民が、常に一緒に歩いておった。

 天目山で討ち果てたという武田勝頼らを先導して、ここらの山塊を逃がすことは朝飯前だったろう。

 そうして徳川の時代になっても、奥秩父、秩父往還の大滝にある栃本の関所を守っていたのは、ほかならぬ武田勝頼の家臣だった。

 天目山で自害し果てたと言われておる勝頼の家臣が、徳川の時代になってもその関所を任されており、その大村家は明治維新までそこに代々棲み続けている。

 家康は敵対した武将であっても、後の憂いを考えて無闇に殺すことは憚った。

 弔いをして、死んだことにして、逃がしてやっていた・・・俺はそう考えている。

 その後の江戸時代が長く泰平の世を続けた意味は、その辺の統治の熟練にあるのだろうと思っている。

 終わらない戦乱の時代に、みな戦には飽いてしまってた。

 何年も奥秩父の山々を歩き登っているうちに、勝頼は死んではいない、そこから始まっている武田家のその後、南房総にある里見の菩提寺に武田信勝が建てたと密かに言われている里寺があり、そこの今の和尚に信勝の位牌を見せてもらい話をしたことでまた火がついてしまい、えらいこっちゃがな、忙しい毎日でもずっといろいろと調べている。

 二ホンオオカミが棲みついていた山々でもある。

 この辺の神社には狛犬ではなく、狛狼が鎮座ましましている。

 そうして奥秩父山塊の向こう側、川上村は柴犬の発祥の地でもある。

 興味は、尽きない。

 行きは中央道、帰りは圏央道から関越、結局は秩父往還をぜんぶ走って、ついでに武州街道も走ってきたがな。

 野猿や鹿が、のんきに飯を喰って居った。

 このくらいは、まだまだ日帰りで平気のさっさ。

 

 さ、仕事すっぺかや。


勝頼は大峠越えて秩父へ向かった

2019-03-11 11:06:47 | 歴史に埋もれた真実

 

 週末は天気が悪かったから、俺が武田勝頼だったら・・・と考えて、天目山で死んだことにして、その後をどう生きるか? とりあえず甲陽軍鑑には素敵な物語を書かしておいて・・・真田の領内に入って行くだろう・・・。

 そこから南房総へと旧武田領を進むだろう。

 そんなことを考えておったら、真田昌幸が夢枕に立って、犬伏の薬師堂で待つ・・・そういうことになった。

 仕事の疲れがずいぶんと溜まっておるのに、仕方なく佐野まで車を走らせた。

 土曜日はミニバスの試合でガキどもをさんざんに怒鳴ってやって、日曜日も応援のお母さんたちは楽しみにしてたらしいが、真田昌幸が老いた姿で現れては、さすがにそっちが優先となる。

 佐野の田舎にある犬伏の薬師堂は小さなお寺だ。

 古墳の外れにポツンと建っている。

 どんよりとした天気で、閑散としておった。

 風は冷たくなっておったから、3~4時間で雨になろうかと感じた。

 400年もむかし、当時はまわりは藪と畑があるくらいだったろう。

 8畳くらいの畳敷きの和室だけ。

 そこに座って開け放した入り口から赤い梅の木に咲く花を眺めて居った。

 ・・・来たぞ!

 昌幸が岩櫃の城へと誘ったが、勝頼は岩殿の城へと歩を進めた、史実ではそうなってる。

 どちらも良く登り歩き知ってる山だけんども、岩殿には向かわなかっただろう。

 戦国時代のツワモノが、二つの山城を比べた時、どうして岩殿を選ぶ? それこそ愚将と呼ばれる。

 山城のまわりを歩いて登ってみれば解る。

 山好き砦好きならばみな想うことがある。

 ・・・嘘だろう?

 机上の歴史を弄る学者、机上の物語に酔う作家、どうでも良いお子ちゃま遊び。

 人間の生き様とは、もっと奇想天外、オモシロイもんだ。

 俺ですら、すでに普通の大人社会では理解されない存在になってることを想えば、なんでもありの戦国時代だ。

 名を遺すことなどは、チンケな私利私欲に走り、権力に尻尾をふる後世の作家や学者に任せておけばエエ。

 男は、自分の生を謳歌する、これしかない。

 それが徹底しておった戦国時代には、武士道やキレイゴトなど、ただの口説き文句の類だったろう。

 お薬師様で、いろいろ考えたがな。

 考えてるうちに、せっかくだから足利学校と鑁阿寺に寄ろうと想った。

 戦国時代にすでに足利にあったものを観る。

 孔子廟は修復中だった。

 鑁阿寺も歩き、大イチョウの木を見上げてると・・・山の上から見下ろすか・・・で、織姫神社に登った。

 両崖山と言うハイキングコースがあるが、その途中まで行き、坂東平野を見下ろしたが、煙っておったから引き返した。

 今日は登山の準備をしてなかったし、近所を歩く格好だった。

 会津征伐に向かう途中に、真田軍はここに逗留した。

 徳川方ということでやってきたところへ、石田方から反徳川の旗を上げたとの密使がやってきて、犬伏の薬師堂で父昌幸、子の信幸・幸村が会談したとなっておる。

 実際は陣を張った近くの大庵寺だとも言うが・・・たいした問題ではない。

 キレイゴトよりも御家の存続。

 俺の好きな話だ。

 人間は、生きていてこそ花にもなれる。

 死に方がどうたらこうたらなんて無意味なキレイゴト。

 死には意味などない。

 死に意味を語るのは、人類の統治の手口と言っても良い。

 世界中、そんな宗教で賑やかなもんだ。

 統治する者が勝手に言ってる戯言だ。

 生き延びることにこそ、人類の進化は在る。

 まるで解ってない現代の大人社会には辟易する。

 薬師堂で昌幸が囁いた・・・勝頼は甲斐の国から、秩父へと入っておりそうだ。

 俺の好きな奥秩父の山々が、そう、俺を呼んでいる。

 今週末は、そっちだな。


山寺に、埋もれることなく咲く花

2019-01-14 10:19:57 | 歴史に埋もれた真実

 

 なんで美味い醤油ラーメンが東京にはないのか? については、昔から想ってることだ。

 30数年前の不動産バブルの前後ですら、そんなことを想っていた。

 ま~ま~美味い醤油ラーメン屋はあっても、これは力も入らず素直に喰える・・そんな醤油ラーメンがない。

 もともと環境の変化は激しくとも戦後の高度経済成長ゴッコのド真ん中、裕福な銀行屋の家で育ったから、盆・暮れには貢物でいっぱいになる専用の和室があったりするモノ溢れの時代を俺は経験して居った。

 その後そんな家には拠りつかずに、日本中のあちこちで仕事をしておったから、美味いモノも色々と食べて来た。

 そんな美味いモノを喰って生きて来た周旋屋には、東京も銀座というところは仕事の拠点を置いておくだけのことで、とてもじゃ~ないが喰いモノを喰うところではない。

 こんなもんで美味いと言ってるようじゃ~日本は語れない、昔からそう想っている。

 当社の顧客には銀座や青山で行列の出来る人気の店も多いけんども、俺自身は喰いたいとも想わない。

 ナントカと言う店で食べた!! その状況や行動に意味があるんだろうと想ってる。

 美味いという・・・知識が無い、経験が無い、だからこそ舌まで洗脳され果てて百円均一、哀れな現代人だとは想ってる。

 なんでも人それぞれ、生き方や価値観だって他人とおなじである必要はない。

 模範となる先人なんていやしない、みな死を悟ってハッとして、惑い果てて居るではないか?

 世界ではなく日本中を歩き回っておれば、美味いモノはいくらでもある。

 名も無い店でもとびきりの美味いモノを喰わせる店だっていくらでもある。

 要は、自分自身でそんな冒険を犯してまでして美味いモノを喰わせる店を探せない、行動力の欠如と、単に話のタネに、そんなことで行列が出来て居ったりするわけだ。

 日常の会話を楽しむための、人気の店に人気のショップ、価値の共用で安心感を得るだけのことさ。

 日本人らしいと言えば言える。

 

 千葉の勝浦と言えば最近は勝浦タンタンメンで有名になっておるが、そこに昔から美味いと言える醤油ラーメンを喰わせる中華屋がある。

 かれこれ30年以上も前から、外房でさんざんに遠泳したあとに、冷えた身体を温めるためにいつも立ち寄っている。

 

 内房から勝浦に抜ける国道297号を行けば、じきに大多喜の街に出る。

 大多喜城といえば本田忠勝で有名だが、もともとは真里谷氏の居城で、のちに房総里見家に奪われたが没収され徳川家康傘下に入り、それから本田忠勝の居城となった。

 そこからほど近い山里に、波の伊八の彫刻の中でも有名な『波と宝珠』の欄間が残る古刹がある。

 開山して1200年くらいになるという古い里寺だ。

 まえまえから気になっておったお寺で、幻の名工と呼ばれて現存する作品がほとんどなくなってしまってる高松又八の彫刻とともに、拝見してきた。

 波と宝珠の欄間よりも、隣の入り口に近い部屋の欄間の『波と鶴』のほうが、柔らかく繊細で目を奪われた。

 欄間の彫刻は部屋の明かりを消して、座敷に座ってから眺めるものだ。

 自然の光が作る陰影で欄間彫刻は生き還る。

 季節や時刻、その時の天候によっても彫刻は七変化する。

 本堂には高松又八の彫刻が見事に再生しておったけんども、俺はその伊八の彫ったという『波と鶴』の欄間が素晴らしく想えて再度見に行ったくらいだ。

 葛飾北斎の代表作でもある『神奈川沖浪裏』とそっくりの構図は、『波と宝珠』の欄間を裏から見た構図で、だから葛飾北斎はわざわざ浪裏と題して発表したのではないかという解釈はオモシロイ。

 であれば葛飾北斎もなかなかの器量だろう。

 師の等琳を継いだ点描法で真似て描いた北斎も斬新だが、それ以前に波を立体的に彫った伊八の観察眼には恐れ入る。

 豪華絢爛な大きな現代風の大寺院よりも、藁ぶき屋根のそんな里寺のほうが真実は多いのとおなじで、この日本には埋もれてしまっている歴史の真実はたくさんある。

 ワザと封印し、隠してしまってる歴史の方が多いだろうし、それを知ることがまず第一歩でもある。

 なんの第一歩か? 

 そう、日本人として故郷の島国を理解する第一歩だ。

 又聞き・覗き見メディアが、いかにも自分の話のように語るのとおなじで、言ったもん勝ち、真似たもん勝ちの時代には、とくにそんな行動が必要になる。

 パクリがホンモノを発掘するとは言うが、なんだかね~、それに甘んじる安易な安売り時代は気にいらない。

 いつも想うことだが、その時代を理解し、その環境と境遇を理解し、そうしてその人を理解する、山や海で遊び呆けていると、こういう愉しいことはいくらでもある。

 

 そうして帰りに美味い醤油ラーメンまで喰って、仕事の合間とはいえ、良い一日だったことには違いない。