都会ではこの異常に気温が上がってる夏の初めに、今年の冬も大雪だろうと皆に言っておったが、すでに高い山では冬の装備も必要になりつつある。
太陽や地球が活発に活動を始めてるようにも思えるが、単に人間の生活の上で、困ったことになってる話でしかなく、太陽や地球にとってはなんてこた~ないお話だ。
わが国は農業や漁業で生きて来た国だが、それも過去の話になりつつある。
緊張感の無い、ダラダラと風習や過去にしがみついて生きてる従事者が多くなってるから、今とこれからの地球の活動期には、喰いはぐれてしまう連中も多いだろう。
自然の中で鍛えて適応しようとしない人間には、消去法で生存が厳しくなることもある。
あんたら個々の生き方の問題だから、俺の知ったこっちゃない。
常に緊張感を持って自然と対峙してる者もいるが、すでに心身ともにその準備は終わってる。
今からじゃ~、遅いんじゃない?
哀れ提灯な高齢化社会は、中途半端に生きた人間の老いの醜さだけを社会で顕わにしつつある。
だからかどうか、今の10代から20代前半の子たちは、その必要・不必要の取り捨てを上手に操って、笑って生きてるのが増えて来た、良いことだよ。
年齢だけは高齢でも、古臭い幽霊話を真に受けて、ネット社会に翻弄されて自画自賛してるオツムデッカチな大人社会を、現実をキチンと生きながら掌で転がして生きて居る。
団塊の世代の高齢化が、それをやり易くしている。
少なくとも、俺の子供らはそんなことになっている。
調子が良いとか、要領が良いとか、現実的だとかという話ではなく、それが正しい、そういうことだ。
まだまだ甘ったれた自惚れの中に居っても、そういう生き方が正しい。
自分が生き抜くためや、自分に役に立たないモノは、親や爺婆でも捨てて良い。
たかだか先祖の墓守のために、人間は生きて行くものではない。
ゼニカネを交換条件にして、老後の世話を頼むような哀れな高齢化社会もまた、行き詰まる。
現実を知らない、逃げてばかりいる、そうしてナニも出来ない、ナニも知らない、そんな大人たちは、姥捨て山に捨てられる守銭奴になる。
冷酷な話ではなく、それを冷酷と感じるあんたが甘ちゃんなだけだ。
愉しく笑いながら生きて居る者のところに、生き物は集まる、これは大昔からの道理でもある。
俺は40歳前に家の2軒くらい失ってたギャンブルをすべて止めてしまった。
たまたま仕事で大儲けしたおかげで、借金漬け、自転車操業も終わりにした。
そうして想ったものだ。
・・・生きてること自体が、本当のギャンブルだった・・・と。
気が付くのが遅かったようでもあるが、以降は、そのギャンブルを目いっぱい愉しんでやろうと生きて来た。
だからこそ、後悔なぞまるでない、素敵な今を過ごしている。
そんなもんさ。