この週末は、どこの山の神も・・・さすがにこの天気では、愉しい神々の話は出来そうにないわい・・・と、そんな感じだったから、やめといた。
おかげで都内あちこちを高齢者の世話で、走り回っていたような、とんでもなく忙しい週末となっておった。
俺も62になる、昔で言えば立派な高齢者だが、いまやまだまだ歳上の世代の世話をして回らなきゃ~ならんような、そんな立場であちこちから声がかかってくる。
身内の爺様が急に倒れて救急車を呼んで付き添ってたり、痩せ細ってフラフラしてる婆様の散歩に付き合ってやったり、身寄りのいない80歳代の多くの爺様たちに最期の始末を頼まれたり、ずっと笑い飛ばしておった。
人間の生死は、別に特別なことでもない。
いらん宗教や哲学ゴッコが、そこに意味を持たせてゼニカネ儲けの場を作っておるだけだ。
古代からの、この国の本来の現生の神々は、そんなもな~必要としない。
そこで悠々と笑っておることで、みな消化してしまう。
あとはまた、人の寄り付かない高い奥山の頂に、生きて死んだ魂を運んでやるだけのことだ。
偉そうな頭デッカチなAIロボット小僧たちは、1たす1が2にならないと駄目だと信じてるが、1たす1を2にすることを生きることだと妄信しているが、身内の近い親族が死んだら、古風な仕草で泣いておる。
これこそ間抜けな馬鹿のやることであって、1たす1が500になったり、1たす1が8になったり、だからこそ生きていて愉しいのであって、それを愉しむのが生きるということでもある。
計算式や公式に頼るのは逃避でしかなく、弱い自分を曝け出してるだけの猿だ。
俺は人間の世界のことは、もうナニが起きても驚くこともなくなってる。
誰が生まれようが、誰が死のうが、淡々と、笑って始末をしてやるだけのことだ。
そんな毒しか吐かないオヤジでも、それが良いと声がかかってくるから困ったもんだ。
平日の仕事よりも疲れた週末になった。
どこでも深刻な話の最後は、笑い飛ばして終わりにしてきた。
神々の会話では、いつものことだ。
退屈な、世の中社会に成り果てて居る。
生きてる者こそ、もっと日常に、関わり合ってゆくこと、これ以外に愛なんてものは、無い。
あとは自慰とおなじ、妄想の話になる。
俺はその性癖と仕事柄、いろんな最期を迎えた現場に立ち会うことも、多い。
多くの身近な人間の死にも立ち会ったりしてきてるが、いつの頃からか、哀しいとか泣くとか、なくなって、いつも頬を緩ませて微笑しているようになった。
他人の何倍もの人を、その場で送ってきているが、静かに逝ったものや、凄惨な現場で逝ったものや、いろいろ。
葬式や面倒なことはせずに、焼き場で簡素な別れをして骨を拾う、ごく僅かの骨で良い、そういう送別も増えた。
魂の抜けた遺体は、すでに使い物にはならないモノでしかない、地球の石ころでいい。
人生80年と言えば、その80年間、心臓は延々と血を運び続けて動いていたということだ。
そんな自分の身体を愛するのならば、もっと余暇の使い方はあるだろうにと、ガキの頃から想っておった。
肉体は仮の宿、これは身体に障害を負ってますます想うことだが、仮の宿であっても、それを利用して生きている以上は、メンテナンスは死ぬまで欠かしてはいけない。
現代社会では、70代はまだ鍛えることは出来るが、さすがに長寿の現代でも、80歳過ぎると鍛えることは出来なくなって、誤魔化し誤魔化し、用心して、自分のペースで生きることを愉しむのが本当だ。
そんなことなのに、子や孫の前で心配かけたくないとか、みっともない姿は見せられないとは、エエ歳こいてま~だ恰好をつけることに奔る年寄りは、逆に哀れにも自滅する。
いつもその時の自分に正直に生きる。
群れから離れて60年近く生きて居ると、その方が自由自在で、愉しいことが解る。
さ、梅雨の合間の良い天気、早朝から忙しい。
身寄りのない高齢者たちの今日を笑って過ごせるようにと、一緒に大笑いしてゆくぜよ。
なんの仕事をやっておるのか解らなくなることも多いが、それはそれでエエことや。