夏の終わりに、本州最東端の太平洋で、黒潮をまたたっぷりと体感して来た。
もう海水浴客などはおらず、いつものサーファーがポツポツといるくらい。
この夏もたっぷりと海で泳いでいるから、そろそろ山に戻るか? と思ってはいたが、前日から俺の描く天気図では山はどのエリアもジトジト雨模様で、こういう時は無駄な時間は過ごさない。
命の残り時間が少なくなって来たジジィは、いつも笑って生きて居たい。
午後から高速の混み具合を眺めて、ではではと前々から気になっていた場所へとスイスイ向かう。
房総に遺るアイヌの話から、甲斐武田家から分かれている房総武田家の古い寺社も巡って、のんびりと住職やらと笑い合って来た。
この夏は源泉は諦めて、泳いだ後の魚料理も毎週のことで飽いていたから、土鍋で熱々の麻婆茄子を喰らって、辛いタンタンメンも喰らって、米がズンズン進んでしまい大盛り2杯もペロッと食べてしまった。
真っ黒に日焼けしているから地元の漁師やサーファーが食べに来る店でも違和感がなく、妙に馴染んで久しぶりによく喰ったが、美味かった。
ヒステリックに興奮状態のキョロキョロ猿な観光客などいない、静かな店が良い。
どこの田舎でも、稲は実り、都会の愚かな米騒動を笑い飛ばしてやってる。
仲買人を通さずに、地産地消のモノを直に頂く生活をしておれば、経済は解る。
帰路は海辺を避けて房総の台地の上を北上して帰って来たが、猪・猿しかいないような真っ暗闇の山道は、満腹になって眠くなるのを止めるのにはちょうど良かった。
房総武田家は里見家に滅ぼされて・・・というのも嘘だろうな。
この国の戦国時代以前の話は、江戸時代以降に作られた妄想にも似た脚色ばかりで彩られているが、これは日本中の歴史でもおなじだろう。
嘘ばかり、江戸時代以降の平和ボケな時代が、そんなキレイゴトをたくさん遺している。
明治維新なんざ、教科書で習う登場人物らはみな英・米のスパイ・子飼いとなって動いていた猿の演者ばかり、恥ずかしい話だったと言っておこうか。
学問だとか、専門家や教授だとか、とにかく現代の日本人は下らんよ。
温泉を運んで来て、温泉気分を手軽に味合うとは言うが、確かに皮膚の病などには効能がある湯もあるが、身体の内部に効能を求めるのならば、源泉の湧く場所で、その場所の自然の空気とともに放射能も頂く、これが本当のことだ。
湯の温もりで血行を良くするのは一時的な効能で、長くは続かない。
皮膚がツルツルになっても、翌日には戻っている。
放射能を肺や腹から吸い込んだ効能は、ジワジワと身体の免疫を対放射能で甦らし、バランスの良い免疫抗体を作り治す。
人間は微量の放射能が無い場所では生きていられない。
それを逆手にとって、毒をもって毒を制すように源泉にゆっくり浸かる訳だ。
標高1000m以上の場所でなければ、ダメだろうな。
俺の長年の経験だけで言っている。
金儲けのための人脈や、仕事や趣味のための人脈や、根も葉もない風習や宗教による人脈は、生きて行く上ではなんの意味もない。
同志だの同僚だの親友に幼馴染、これはむしろ害にすらなっている。
自分や大事な人たちを守るためには、互いの生き様を晒し合って、その日常を独りで何十年も隠さずに貫いて見せ、それで惹かれ合うナニかを身に付けてこそ、手に入るものだ。
困った、行き詰まった、では相談して、良いトコだけを楽して貰おうとしても、結果は聞いた情報のように同じにはなる訳もない。
言葉や文字だけではない、その日常の細やかな機微の積み重ねを持たない守銭奴には、期待してる結果は夢と終わるだけ。
本当の人脈や壊れない関わり合いは、そんな安易な猿には手に入らないさ。
大笑いしてやるさ。
日本のメディアや、文化人・芸能人・専門家にMC等の立位置を見るのは簡単だ。
日常の報道を眺めながら、アメリカ絡みの話になると公平さを失い、駐日米国大使館の指図通りに動いている猿の衆は、日本を玩具にしてきた輩だと解る。
地球温暖化や中露に対する偏向報道、特にコロナ騒動からワクチン接種、アメリカ大統領選挙の報道の偏った内容などを見ていると馬脚を顕しているだろうよ。
どんなに真面目そうで、まともそうな演者であっても、その魂胆が丸見えなお笑いのカテゴリーに入る猿芝居なんざ、真剣に見ている視聴者の方がどうかしてるぜ。
人間の敵となる生き物はすべてが悪で、絶滅まで追い込むのが正義だというような、ふざけた価値観が社会には浸透している。
人間に害となる生き物はすべて抹殺しろ! と、ヒステリックに叫ぶメディアがある。
宇宙や地球は、人間だけのモノではなく、人間なんざ地球の瞬きの時間くらいしか生きていない小虫のくせに、よくもま~我欲に駆られて偉そうなもんだと俺は想っている。
気に入らなければ、殺せ、怖ければ、除外しろ、興味がなければ、消去しろ、こんな安易で短絡的な人間社会では、じきに人間自身が自爆して地球上から消されてしまうさ。
アレルギーだから避けろ、タイプではないから視界に入らないで、皆さん常に自分が中心で欲望のおもむくまんまに生きることが、良いことだと考えている。
随分と、弱っちく堕ちるに堕ちたもんだと、笑うしかない。
小さく神経質に生きる人間は、もはや生きる場所など無いと気が付かないのか?
偉そうな人間にはそれが解ってない。
人間の世界で、誰にも負けない中身とはナニなのか? ガキの時分によく考えていた。
家は、貧しくはなかったし、高学歴ばかりが揃っていたし、大企業に入っている者ばかりだったが、どれもこれも俺から見れば半端者ばかり、弱い本音は見え透いていた。
敗戦後の情けの無い身売り社会は問題外で参考にはならず、頑張って認めて評価してもらうことが目的の努力や苦労なんざ、見ていて哀れさしか感情は湧かなかった。
自分の評価は自分でするもんだろう。
自分の評価こそが一番に手厳しいものだし、一番に優しいものでもある。
どう生きれば、どういう立ち位置で生きていれば、人間の社会では悠々と生きて行けるのか? そういうことばかり大人社会を見渡しながら考えていた。
生きるって、ナニ?
どう生きて行けば、良いの?
世界中の哲学書や宗教の本を貪り読んだのも、10代の頃に家に寄り付かなくなって広島の街で悪さの限りを尽くしていた時分だった。
そのまんまヤクザな世界には入らず、高校を留年し卒業し、東京に出て来て、まずは自分で好きなことをやりながら食べて行こうと考えて詩や小説を書き始め、自費出版の文芸誌を発行することを始めた。
とうぜんに喰えるものではなかったから、あらゆるバイトを掛け持ちしながらだった。
本はジャンルを問わず、怖ろしいくらいに貪り読んでいた。
質屋やエロ本屋や大人の玩具屋くらいしかスポンサーはおらず、それでも自費で出版した本をバイクに乗せては紀伊国屋やらの本屋の店先に並べさせてもらった。
流通を通すことはしなかった。
その頃はまだ、そんなことが出来ていたが、今は流通からして管理されて、権力社会・官僚社会に盾突く出版物は仲間外れにされて、庶民の手には届かない。
携帯やネットメディアが栄えて来て、これはどこまで自由に出来るのか? と眺めていたが、この頃は興味も失せて来た。
俺は周旋屋が天職だったんだろうとは思っているが、これはガキの時分に転園3回、小学校を6回転校して家や引っ越しには詳しくなっていたせいでもある。
だから今でも、もっとナンか自分に出来る愉快な仕事があれば、変えてみたいという気持ちはある。
生きる場所は地球の上、住まいも地球、それで充分だろう。
短期の金(ゴールド)は円高に喰われて下がっている円建てのおかげで、そろそろ喰って置いても良い時期になったが、気温は下がらないが吹く風は秋を感じるようになったので、どうすんべ~かな。
ドル建ては静かに静かに最高値を更新しては売りを吸収している繰り返し。
台風10号は太平洋高気圧が発達して強い勢力になって来ているから、メディアのお祭り騒ぎのコースは通らないだろう。