コタラの社長日記

スリランカ産ハーブ「コタラヒムブツ」(学術名サラシア・レティキュラータ)を紹介され、世界初のサプリメントを製造!

カラオケが普通に歌えれば・・・ね~・・・

2005-12-12 09:32:36 | Weblog
カラオケと付き合わなければ成らないのなら、と決心しました!
歌っている人を他の人が如何見ているか?をウォッチングしました。
殆んどの人は、他の人の歌など聴いていません!
何と無く聞こえてくる程度の感じで、
拍手する時だけ聞いていた振りをするだけだと気が付きました。

そこで誰かが歌っている時、
画面を見ながら口づさみ自分が歌える曲を探す事にしました。
この時は、上手く出来るのですが・・・
マイクを持つと歌おうとする気持ちが前に出過ぎ、
声が上ずってしまいます・・・

TVで歌手が歌っている時、同じ歌手でも売れている人と、
そうでもない人はどこが違うかもウォッチングしました。
売れている人は、歌に感情移行が出来ていて、
1曲1曲が1つのストーリーとして聴く側に訴えかけていると感じます、
ですから歌から情景や場面が浮かんできます。

そこで素人のカラオケ上手の歌に聞き耳を立てました。
素人のカラオケ上手も情景や場面が浮かんでくる人もいます。

自分が歌の主人公に成り切れば良いのかな?と思う、この頃ですが・・・
でもクサイ奴っているんですよね~、そうは成りたく有りません!

マイクがいらない位大声で歌う人もいますが、あれはちょっとね~・・・
そこで気張らず、普通に話す様に声を出すと、
何と無く曲に乗れるような感じがしてきました。

三島の「古里」でお客さんが居ない時間に練習させて貰い、
3人のお姉様方に批評して頂きます、早く普通になりたい!


1番最初に相手に成ってくれた、
住田さんと「銀座の恋の物語」

忘年会とカラオケ

2005-12-11 12:04:28 | Weblog
忘年会の費用は大体会費制が多いですが、
酒を飲む、飲まないに係わらず同じ会費です。
酒を飲まない人に取って、これって少し不公平だと思いますが、
ま~仲間内の事ですから、しょうが無いですね。

この様な席にカラオケが必需品です。
昔は、歌わないと言い断り続けてきました。
歌が上手くないのに恥はかきたく無いですものね。

家で、『酒も飲まないで歌えないよね~』と妻に話しました。
『恥をかく事を知らないと男として大きくなれないよ』と、妻に言われました。
『う~ん・・・』とウナル僕。
『恥をかく事で恥をかいている人の気持ちも分かるし、
かかない様にしようと思う事が必要だと思わない?』と妻。
『う~ん・・・』もう1度ウナル僕。

今までは、他の人が下手に歌っていると笑い者に出来ましたが、
自分が歌うのですから、ね~・・・出来る訳はありません・・・

清水の舞台から落ちた気持ちでマイクを握って、
歌える人に傍に付いていて貰いました。
声がウワズッテ出ません・・・上手な人って何所が違うのでしょう・・・

『最初は簡単なデュエット曲が良いですよ』と、鶴田君。
『そ~・・・何が良い?』と、僕。
『「石原裕次郎の銀座の恋の物語」なんて簡単で覚え易いですよ』と、鶴田君。
『歌える人に取っては、そりゃ~何だって簡単だろうよ』と思いましたが、
従う以外に有りません、なんったって教えて貰う立場です・・・
そこで住田さんに相手に成って貰い、歌い始めました。
いや~難しいですね~・・・

もう12~13年前の話です。


異業種交流のメンバー達と富士で、

'05会社忘年会

2005-12-10 15:29:49 | Weblog
毎年この季節は忘年会が行われます、今週は3回有りました。
異業種交流会、工業団地、と会社でした。

会社の忘年会は、以前三島のホテルで行っていましたが、
何度も同じ場所で行ったためか如何かは判りませんが、
緊張感が無くなったようで、
お粗末な料理を出されたため、他のレストランに変えました。

一昨年の3月決算前に何時ものごとく、
このホテルでご苦労さん会を行いました。
何年も同じホテルで忘年会とご苦労さん会を行ってきましたので、
何時もと同じように気安く頼みました。

このホテルの社長とは、
県の研修旅行で2週間近く一緒に過した事が有り、
馴染んで居た様に感じましたが・・・

そしたら何時もと違い料理が足りません、
終わった後、殆んど全員でファミレスで食事のし直しでした・・・

それで去年の11月頃、
『今年は、他の場所を探さないといけないね~』と成りました所へ、
今お気に入りのレストランが営業に現れました!
偶然でしょうか、必然だったのでしょうか?

場所を聴きましたら、柿田川湧水に在り、
以前フランス料理の店だった場所でした。
家族で広告を見て食べに行った事が有りましたが、以前の店は・・・でした。

今度の店はイタリア料理だと云う事でした。
店の名前は「バッカスのへそ」変わった名前です、
他に姉妹店が2店舗在るそうですが、2店舗共変わった名前です。

義父と娘

2005-12-08 08:48:21 | Weblog
後に義父が話してくれたのですが、
この1年前の2003年正月、
娘は当時付き合っていた男の子と一緒にジ~ジのマンションを訪れ、
『ジ~ジ、一緒に食事をしよう』と誘い出したそうです。
義父が支払おうとしましたら『私が払う』と言い支払い、
そして『これ、お小遣い』と、1万円差し出したそうです。
『有り難う、でもジ~ジがお前に遣らなければ』と笑いながら義父が言いましたら、
『私は働いて給料を貰っているから大丈夫、ジ~ジは働いていないのだから受け取って』と差し出したそうです。

義父は、孫からのお年玉を受け取らなかったそうですが、
この事が嬉しく、娘が居ない時、何度も何度も繰り返し話していました。
この話を聴く度に娘の成長が誇らしく思えた僕と妻でした。
娘の成長の証のお年玉を受け取って欲しかったと思いました。
きっとバ~バに得意になって話していると思います。

義父は、この病院に来る時、介護の車で、去る時は霊柩車でした。
葬儀は家族だけで、お坊さんも呼ばずひっそりと行いました。

帰りたがっていた我が家にやっと帰ってきましたが、
もうジ~ジの笑顔を見る事は出来ません。

49日まで我が家で過ごし、バ~バが待つ浅草のお寺に連れて行きました。
今生では逢えませんが、来世では又逢えると思います。
それまで家族や娘を護ってくれる事でしょう。

僕が義父と初めて会ったのは23才の時でしたから、
33年間の付き合いでした。
長くもあり、短くもあり・・・
2人だけの時間、話も少なかったのですが、
男同士、お互いに通じ合えるモノは有ったと思っています。

時が過ぎるのは早いもので、来年の2月22日は3回忌です。


メルは正面から突進して、
身体を90°回転させ僕の右ひざに顔が来るように座ります。

義父の旅立ち

2005-12-07 09:00:43 | Weblog
義父は早稲田の学生で出陣し、シベリア抑留を経験、
ノミとシラミをお土産に帰ってきたそうです。

株屋に就職し、75才で辞めるまで株屋一筋で50年以上働きました。

良くここまで頑張って生きてきたと感心させられる事もシバシバでした。
当時は、株券と現金と引き換えだったそうで、
ジュラルミン・ケースにお金を詰めてガラガラ引張って歩いたそうです。
よく事故にも遭わず無事にこれたものです。

でも1度大きな詐欺に遭いました、
もう30年以上前ですが、¥3000万―、の被害でした。
当然警察が加害者を見付けましたが、
部屋にはハズレ馬券が散乱していただけで一銭も戻りませんでした。


旅立ちの早朝、
何日か前から義父の部屋で寝泊りしていた、
妻の兄から電話が有りました。

娘が最初に飛び出して行き、その前に予兆が有った事を彼が娘に話すと、
『何故、もっと早く教えてくれなかった!』と詰め寄ったそうです。

娘はジ~ジとバ~バに生まれた時から物凄く可愛がって貰いました、
その2人が居なくなってしまいました・・・

義父の顔を舐めたメル


義父の経過

2005-12-06 09:48:05 | Weblog
東京ジ~ジは『良くしてくれるよ』と僕の事を妻に話していたそうです、
この位の事をしなければバチが当たります。

話し掛けると、返ってくる返事が、
日に日に力が無くなっていくのが分かりました。
それが眼だけの合図になり、眼さえ開けなく成っていきました・・・

ガンセンターのホスピスの周りには、早咲きの桜が植えられています。
2月の10日頃には、二つ花が開いて、
何度も取って見せたい衝動にかられました。

義父には、余命の事は話しませんでしたが、
ここ居る方達は本人が納得して入院している方達もいます。
喫煙室に居ますと、
患者さん達も来ましたので何人の方達と会話もしました。
今、こんなに元気なのに!と思う方達も居ます。
毎日家族が弁当を持ってきて、
一緒に食事をしている光景を何度も見掛けました。

毎日が貴重です、
義父の顔に笑顔が出るとこちらの方が癒される感じがしました、
きっと他の患者さんのご家族も同じだったと思います。
少しでも良い思い出を作って欲しいと願っていました。

ジ~ジの痛みが増すごとに楽になる薬が増え、
前の病院の時の様に夢と現実の狭間にいる事が多くなり、
2月22日に旅立ちました。


ガムを咥えるメル、
木枯らし紋次郎のようでしょ?

義父の言葉

2005-12-05 09:51:39 | Weblog
ホスピスに移り、ベッドに寝ている東京ジ~ジの所に、
娘がメルと名付けられたミニチュアダックスを連れてきてベッドの上に置きました。
メルは東京ジ~ジの足元から顔に向かって走り出し、ペロペロ舐め出しました。
ジ~ジは嬉しいのと迷惑なのが入り混じった笑い声を出していました。
毎日の様にメルは、病室に連れてこられ、
愛嬌を振りまいて帰って行きます、看護婦さんにも人気でした。

娘、妻、僕の3人は、
それぞれ時間が取れれば病室に行き、そばで見守る様にしました。
新幹線で出掛けた時は、
夜の10時過ぎでも寄り、寝顔を見て帰るようにしました。
時たま眼を開け『来たの?』と声を掛けてきました。
行って来た場所を言い『調子は、如何ですか?』と、
この様な会話が何日も続きました。

妻には『お前の家に帰るから仕度してくれ』と何回も言ったそうです。
『点滴の管が付いていては駄目でしょ』と答えると、
『あっ、そうか』と笑いながら話したそうです。

この様な会話も有ったそうです、
『パパが新しい仕事を始めたので心配』と妻。
『お前の旦那の事だから大丈夫、心配する必要は無いよ』と、
義父は言ってくれたそうです。

塗装の仕事を始めた時も心配してくれました。
始めたばかりで銀行が相手をしてくれませんでしたので、
貰った手形を何回も買い取って貰い助けて頂きました、
つい昨日の様に思い出されます。
あの頃は、東京バ~バも健在でした・・・


庭でたたずむメル

義父の病室

2005-12-04 10:23:42 | Weblog
末期の胃ガンだとお医者さんに言われた後、
『手術をして半年間苦しみながら命を永らえるより、
今のまま自然に任せたい、苦しみは少ない方が良いと思う』と妻、僕も同意しました。
意識が無くただ息をして、生きながらされて居る人達を何人も見ていますので、
そのようにしたく有りませんでした。
僕の父もそうでした。

義父も他の方の見舞いに行き、
その光景を見て『嫌だね~、部屋に死臭が漂っていた』と話していました。
若い時は人一倍お洒落に気を使っていたそうですから、
自分の無様な姿を他の人に見られるのは辛いだろうと思いました。

個室に入れて貰えたのですが、
義母が入っていた東京の他の病院とは、
部屋の広さ、設備、看護婦さんや先生の対応が、
「今までの病院は何だったの?」と思える位、格段に違いました。

東京から籍を移したのが2月2日でした。

義父は自分では歩けず、車椅子に乗せられ、ホスピスへ移動でした。
その時の事を妻は、
『車椅子に乗せられ、ホスピスと書かれた入り口を見た時、
ジ~ジの顔がハットしたのが分かったわ』と話していました。
何年か前からTVでホスピスの事が放映されていましたので、
『TVで見て知っていたのだろうね』と話し合いました・・・

写真、
静岡県立ガンセンター

義父は末期ガンでした・・・

2005-12-03 09:19:12 | Weblog
電話の相手は、
異業種交流と産学連携でお付き合いしている方で、
僕をこの世界に引きずり込んだ張本人です!
ま~楽しんでいますが・・・

彼は兎に角顔が広い、そして逃げません、
そこが誰からも信頼されるゆえんでしょうね。
異業種交流、産学連携のパイプ役にはピッタリの存在です、
パイプと云うより接着剤でしょうか?

直ぐガンセンターに連絡をして下さり、返事も直ぐ来ました。
ガンセンターでは、
産学連携の勉強会を行っていますので馴染みは有ります。

健康食品は疑われているようですが、
「無知の知」を知って欲しいものです、書いてしまった!

今の病院から「静岡県立ガンセンター」にレントゲン写真を持ち込み、
お医者さんに診て頂きました。
『直ぐに本人を連れて来なさい』とお医者さんが指示して下さり、
介護用の車を手配し、今まで入院していた病院を退院させ、運び込みました。

ガン・センターの結果は「末期の胃ガン」でした。
痛いはずです、よく今まで我慢したものだと思いました。
『体力が付かないよ』とか『自分を甘やかしては駄目』とか、
家族に怒られながら、よく我慢して食べたり、歩行訓練をしたものです。

その場で入院を指示して下さり、有り難い事でした。
妻と2人でお医者さんと面談しました、
『胃を取っても半年の命です』と言われました。
『は~・・・家で相談させて下さい』と答え帰って来ました。


メルとオモチャ


義父の病状

2005-12-02 10:31:12 | Weblog
クッキ~を部屋に放すと、
『クッキ~ちゃん、クッキ~ちゃん』と喜んで眼で探していました。
娘と3人麻雀をしたり、
トランプ遊びをして気を紛らわす事や頭のボケ防止に努めました。
僕が知っている昔の義父は、麻雀の天才でしたから、
信じられないようなチョンボを何度も繰り返しました。
名前は書けばご存知の、
俳優や相撲取りとも賭け麻雀をしていたそうです。

クッキ~・フェレットが旅立った日、
『クッキ~が身代わりになってくれたのかな?』とも考えました。

それから2~3日後、
僕の母が通っている病院に妻が義父も連れて行きました。
レントゲンや他の検査もしたようです、
それで精密検査をするようお医者さんに言われました。
お医者さんから他の病院を紹介され、
検査の結果、「胃ガン」と診断されました。
4~5ヶ月前に、「胃炎」だと世田谷の病院で云われたのにです!

ジ~ジが辛そうにしていると、
『怠け心で駄目だから歩く練習!』、
などと言っていたのが申し訳ない気持ちでした。

家で看る事は出来ませんので、
母のお医者さんの紹介で病院に入院させました。

この病院は、痛いだろうからと心配してくれ、
点滴にモルヒネを入れてくれたそうです。
今度はモルヒネの影響で訳が分からない事を言い出し、
夢と現実の狭間を彷徨い出しました。

妻、娘と3人で毎日病室を覗きに行きました、
日を追う毎に眠る時間が長くなっていきます。

このままだと、寝たきりになってしまい、
動く事も出来なくなるだろうと心配し、或る方に電話で相談しました。