コタラの社長日記

スリランカ産ハーブ「コタラヒムブツ」(学術名サラシア・レティキュラータ)を紹介され、世界初のサプリメントを製造!

大天丸etc

2005-06-30 09:47:48 | Weblog
etcは車のETCでは無く、エトセトラです。

大天丸ではシャリ炊き係でした。
それも寿司シャリを炊くのが一番上手だと言われ寿司シャリも担当しました。
寿司シャリは普通のご飯より少し硬めに炊きます、後で酢を合わせるからです。
水加減と火加減が大事でした。
始めの頃、普通のご飯を炊いたら芯が残ってしまった事が有りました、お昼時の忙しい時です。
『すいません、芯が残ってしまいました』と僕。
『あわてるな、大丈夫だよ』と親父や先輩から落ち着いた声。
『煮酒を全体に振り掛けてから細火でゆっくりと蒸らせば良いよ』と言われ、その通りに。
5分位蒸らして蓋を開けると何とも言えない酒の良い香り、シャリを摘んで指でつぶし口の中に、
酒のほのかな香りとシャリの甘味が堪りません、当然オコゲが出来てます、良い事を教わりました。
失敗は得る事が有りますね!

親父は当時34~35才位だったと思います、
開店資金をどうやって作ったか知りませんが、今風の考えを持った経営者でした。
原価の事、作業の事、売上と色々考え直ぐに実行するタイプでした。
板前達に材料の無駄を何回も怒っているのを聞きました。
『職人は良い仕事をしようと思う、親父は半端に分るから計算が出来るんだ』と板前2人は話していました。
職人は綺麗な仕事、納得する仕事をしたいと思います、これが経営者とぶつかるの原因だと思いました。
出来れば自分自身が欲しい商品を作りたいですね、問題は原価と売値です。

全体の感じですが、男としては小柄ですがデブでした、今活躍中の俳優に似ている方が居ますが名前を知りません。
ふくらんだフグの顔を奴凧の奴さんの顔に置き換え、トックリをぶら下げたタヌキの置物の顔と取り替えた様な感じでした。
弱い立場の人には居丈高で強い人にはバッタでした。
ある時お客さんとモメタ事が有ります、親父が悪かった事は事実です。
直ぐに謝れば良い物を相手の所為にしようとしました。
シマちゃんから耳打ちされ、お客さんが空手5段だと分ると急に態度が変り謝りだしました。
僕達はただ呆れて見ていました、親父が帰った後で大笑いです。

もう一つ、シマちゃんから聞いた話が有ります。
『親父、奥さんが夜強くて困っているとこぼしてた』
『は~、夜が強いって、夜更かしなんですか?』と僕。
『あははは違うよ、夜のアレだよアレ!』とシマちゃん。
カズに教えて貰い理解出来ました、この後奥さんの顔をマジマジと見たのは言うまでも有りません。

女将さんは親父と同じ位の背の高さで痩せ型、猫背、目は大きめでした。
和服をちょくちょく着ていましたが、和服を着た時はガニ股で歩かないで欲しいですね。
1本の線を内股で歩かないと裾が乱れます、裾の乱れを観たい人も居ますが見たくない人もいます!
以前シャキシャキした人と書きましたが、書き様言い様です。
「1を聴いて10を知る」と思い、本人は行動していると思いますが、実際は3位でした。
目はパッチリと大きめでしたが、『それが何ですか?』と言う感じでした。

寿司板前シマちゃんは、結婚ホヤホヤでしたが結婚した事を悔やんでいました。
身長175Cm、体重65㎏位だったと思います、奥さんは150Cm有るか無いかの小柄でした。
結婚を悔やんでいる割に奥さんは妊娠していました。
入店、退店はネクタイにジャケット姿でしたが、僕と一緒に働いていた期間、毎日同じネクタイで、それも紐が付いていて結ばなくて済むネクタイでした。

テンプラ板前タカちゃんは、ムッツリしていて話難いタイプで、
仕込みの事も余り教える方では有りませんでした。
タカちゃんは新婚旅行で熱海に行ったそうです。
宿に着き初めての夜です、
彼は新婦を1人部屋に残し、『男の遊びが有る』と言い出かけたそうです。
自慢していましたが、神経を疑われている事に気付いていませんでした。

あの時の事は何がどうなってドライブに行く事に成ったのか思い出しませんが、箱根にドライブに行きました。
2台で行ったのか、2人で行ったのかも思い出されませんが、兎に角2人でタカちゃんの車に乗り込み箱根に行きました。
車はマツダのファミリア・2ドア・ライトバン、マフラーは流行のスポーツ2本出しでした。
音は良いのですが前に進みません、飛行機だったら打ち落とされていた事でしょう。
この車は河岸で親父が仕入れした材料を運ぶために援助して貰い買った車だそうです。

『君は後ろの席に座って』とタカちゃん。
『え~、何故ですか?』と僕。
『走っていて可愛い女の子が歩いていたら声を掛けて乗せるんだよ、だから邪魔だから後ろに座って』とタカちゃん。
『は~・・・』と言いながら助手席に座り込む僕。
『何で前に座るの?君は後ろの席だよ、そこは女の子が座るの!』とタカちゃん。
『・・・』動かない僕。
『あのね~、あんたが声を掛けても乗るような女の子はいないよ、顔を鏡で見た事ある?』と心の中でつぶやき、シカトしました。
シブシブと車は動き出し、一路箱根へ、
多分、土曜日の仕事が終わり、朝方まで起きていて日曜日の早朝で出かけたのだと思います。
箱根に着き、お腹が空いたのでご飯でも食べようと店に入りました。
これも多分ですが、冬だと思います、僕はラーメンを頼みました。
出てきたラーメンを見て驚きました!
インスタント・ラーメンにナルト、海苔、シナ竹などの具がノッカッテイルんです、値段は同じ、50円・・・考えたモノです。
普通でしたら先輩が奢ると思うでしょ?彼は出しません。

今も箱根のその場所に店は在りますが、入った事は有りません。





昨日は東京に行ってきました

2005-06-29 16:43:25 | Weblog
プルデンシャルの工藤さんが、先日お会いした時、
『良い会社が有りますが、東京まで来る事が出来ますか?』と訊ねられましたので、
『大丈夫です』と答えました。
仕事が決まる決まらないは、時の運もありますし、お互いの波長が合う、合わないも有ります。
『駄目で元々、行けば行ったで何か感じる事も有るだろう、感じ無くてもそれはそれ』というのが僕の考えです。

東名の海老名を過ぎた辺りで『車の外気温度計が38℃を差している』と鶴田君。
『本当だ、嘘のような温度だ』と僕。
中野では42℃を差していた、東南アジアだ~と、思う2人。
昨日は本当に暑かったですね、でも湿気が有るので日本人の肌は綺麗なのだそうです。

中野サンプラザの近くの会社と言う事で待ち合わせました。
十数年振りに行った中野は、懐かしくも有り、分らなくも有りで戸惑ってしまいました。

大通りの向かい側のアーケード街を横切り、路地裏に、
こんな場所が中野に在るのか?と言う様な東南アジアを思わせるような細い路地と店。
混沌の中には、活気、エネルギーが満ちています、雅に混沌!
混沌は嫌いではなく好きです。
秩序が出来ると混沌が死んでしまう、混沌は必要だと思っています。
人に活気やエネルギーを与えます、そして人の幅を広げる役目も持っていると思っています。

連れて行って頂いた会社は、都内に28店舗を持つ健食の会社でした。
社長と責任者の女性が対応して下さいました。
『店舗責任者と彼女が購入や販売を担当しますので口を挟みません』と社長。
『私が良いと言っても販売する彼女達がソッポを向けば売れません』と女性。
『私が飲んで良いと思ったので是非社長にご紹介したくて』と工藤さん。
『本当に良い商品です、製造業ですから良い商品を作りたいし、自分が欲しい物を創りたいと思っています、でも販売が得意で無くて・・・』と苦笑いの鶴田君と僕。
『毎晩酒を1升位飲みます、いや3升かな?』と社長。
『酒を飲む前に「コタラ」を飲むと悪酔いしません、僕が経験しています』と鶴田君。
『では今度試してみようかな』と社長。
おそらく社交辞令でしょうが・・・
『飲めば分ります』と鶴田君。

話を進めていきますと、アメリカで流行っている商品やTVなどマスコミで取り上げた商品を売っているようでした。
『「コタラ」の事は学会や業界で知らない人は居ないようです』と説明しましたが、
「コタラ」の事は全然知りませんでした。
少しガッカリの鶴田、僕組。
でもこれからは「コタラ」の事が気になると思います、
それ位『コタラ」は今までの商品とは違います!
ジシン度9です、津波に気を付けて下さい、と叫びたい位です!
帰り掛けに『あの社長はお父さんが居なくて苦労してここまで来たようです、苦労人です』と工藤さん。

仕入れ担当の女性が最初から最後までジットこちらを見ていました。
こちらが嘘を付くのではないかと心配だったのではと思います。
嘘を付いて仕事をしても何時かは分かってしまいます。
分かる事は分かる、分からない事は分からないと正直に話す方が楽ですね。
人を騙して得たモノは、必ず失うと思います、それにこれからの人生で得られるモノの方が大きいはずです。
子供にお金を残すより、汚名を残したくないですね。

工藤さん、双方に気を使わせてごめんなさいね。

その後3人で笹塚へ、
今度は工藤さんにスリランカの女性を紹介して頂きました。
彼女の事は詳しく説明致しません、今まで会ったスリランカの方々とは違うタイプでした。
1時間半位4人で和気藹々とくつろいで話が出来ました。

『私も人に会える材料をもてるのが、何よりもうれしいです。
健康は必ず皆さん関心がございますので。』工藤さんからのメールです、
粋だね~、でも帰りは送っていきました!

工藤さんの家は東名の入り口付近です、
この辺りは懐かしい、22~23年振りです。
昔のままの場所も有りタイムスリップしたようでした。
あの頃は休日になると妻の母、妻と3人でよく豪邸廻りをしました。
田園調布、尾山台、上野毛、成城、九品仏、柿の木坂、昨日の事のように思い出されます。

時間は通り過ぎてしまったが、僕の気持ちは昨日の続きだ!
石原 裕次郎さんの「勇者たち」の歌詞と同じです。
「♪捨てるなよ、戦いを~男~なら~、
♪最後に~勝つ者に~成ろう~じゃないか~」です!
最後に勝つものとは自分自身の弱腰、言い訳だと思っています。


裕ちゃん・・・戦う女性達も大勢に成りましたけど、、、






光と影の綺麗なコブラ

2005-06-28 09:47:41 | Weblog
毎朝ラジオを聞きながら仕事をするのが楽しみに成りました。
或る日、
ラジオから交通機関のストが有るから通勤の足が乱れ大混雑になるだろう、と流れてきました。
『大手の会社では通勤の混雑を避けるため泊まり込みをするらしい、布団を運び込んでいる』と親父が笑いながら話していました。

僕は中学2年、3年と同じ先生が担任、高校の時は3年間同じ先生が担任でした。
この先生2人は熱心な共産主義者で日教組に属していました。
ですからソビエトの事を良く言い、自由主義経済の事は否定的でした。
僕は先生達の影響を受けていました、「国民全員が平等!」なんて素晴らしいんだろう、と思っていました。

このラジオ放送を聴き、『おや?』と思いました。
『自分達の権利、要求をするために他の人に迷惑を掛けるのは可笑しい』と思いました。
それも会社、仕事は違くても同じ様に働いているんです。
逆の立場に成れば分るだろうに、と思いました。

その後で、『私鉄西武鉄道は労使の話し合いでストはしません』と流れてきました。
『そうだよね~、これが本当だよね~』とカズと話しました。
自分達の権利、要求しても他の人の迷惑に成らない様にしなければいけないと思いませんか?
会社、仕事、立場は違くても、同じ働く仲間では有りませんか!
この事が有ってから先生達が言っていた事に疑問を持つように成りました。

ランチタイムの戦争が終わると自分達の昼食です、以前朝食の事は書きました。
僕達の昼食はコロッケ2個が多かったと思います。
コロッケ2個に朝漬けたキャベツ、赤出汁、、、
夕食は閉店後の10時頃に成ります。
僕が居た期間、毎日ゲソ天丼かゲソちらし、シメサバちらしでした。
ちらしは人気が無く、食べる人は殆ど居ませんでした、
しょうがないので付き合いで食べる事は有っても進んで食べたいとは思いませんでした。
働いているのが若者でしたのでゲソ天丼に人気が集まりました、
それに僕に取ってはゲソを揚げる事が出来ますのでテンプラの練習にも成ったんです!
親父が言っていた『若者は油物が好きだ』が頷けます。

親父だけは別メニューでシマちゃんにマグロやイカの刺身を作らせ食べていました。
全員が食べたいと思っている物を自分だけ食べる神経が分かりませんでした。
『自分が食べるのなら他の人にも上げなさい』と僕の母なら言ったと思います。
子供の時、
『他の人が居る前で自分だけ食べてはいけない、食べるのなら分けて上げなさい、分けるほど無ければ家で食べなさい』とよく言われたものです。

大天丸では食べ物の好き嫌いが出来ませんので、シメサバやコハダなど光り物が食べられるようになりましたし、コハダは好物になりました。
でも依然として生卵と赤出汁は食べられませんでした、赤出汁が飲めるように成ったのは大分後の事です。

寿司の安くて粋な食べ方はシマちゃんに教わりました。
『カウンタで食べたいだろ?
そうしたら、カウンターに座り、1人前の握り寿司を食べてからお好みで食べるんだ、勘定の時驚かなくて済む』納得です。

板前2人、見習4人の体制が出来てからも新人が来、そして辞めて行きました。
早い人だと3日、大体1週間、1ヶ月持てば良い方でした、
何人の人が出入りをしたか覚えていません、又覚えられない位の人数でした。

この頃夜出前に行くのが楽しみでした、あの車を観る事が出来るからです。
あの車が止まっている方向の出前は進んで行きました。
今でもあのワクワクした気持ちを忘れてはいません。

2年後位に買った本にあの車の写真が出ていました。
世界オートレビューと言う本で「コブラ」の写真が出ていました。









去る人、来る人

2005-06-27 09:38:57 | Weblog
ラジオから『15才山本リンダさんで~す!』と紹介され、
「こまっちゃうな~デイトに誘われて~」と流れてきたのは、この頃の事でした。

コ~ちゃんの後釜に又コ~ちゃんが来ました、
辞めたコ~ちゃんは20才、今度のコ~ちゃんは30才だと言っていました。
テンプラ板前タカちゃん28才位、寿司板前シマちゃん26才位だったと思います。
新コ~ちゃんは親の遺産を1000万円貰い、
将来店を出すために色々な店で修行をしていると話していました。
寿司の方にもシマちゃんと同じ年の職人が入りました、よっちゃんです。
当時仕事着は、上下の白衣に白の前掛け、肌着はTシャツに草履、冬は黒い足袋でした。
よっちゃんは高下駄を履きカラコロカラコロ歩いています、歩き難くないかと心配しました。
2人の板前は同年代の人が来た事で仕事が遣り難かったと思います。

マ~も僕も後から来た人達が年上でしかも経験者だと言う事で、
又下積みに戻らなくてはなりません、正直2人ともガッカリしました。
2人で出前に出かけるとマ~は落ち込んだ話ばかりするようになりました。
マ~は寿司の仕込みが出来なくなり、雑用と洗い物係りに成り、更に落ち込んでいきました。
マ~が辞めるまでそう時間は掛かりませんでした。

当時板前に成ろうと思う人は、中学を出て直ぐに修行するというのが一般的でした。
ですからシマちゃんとよっちゃんが同じ年という事は、同じ年月だけ修行しています。
仕込みの事でお互いにぶつかり合いが有ったようです。
でも後から来たよっちゃんは折れなければ成りません、
修復不能になり、よっちゃんは直ぐに辞めていきました。
よっちゃんが辞めた事でシマちゃんに元の様な明るさが戻りました。

又新人が入ってきました。
今度はテンプラに1人、寿司に1人でした。
テンプラの方は、25才だと言うヒロちゃん、寿司はカズと言いました。
ヒロちゃんはお姉さんが八王子で喫茶店を経営しているので、
将来自分で店を持てるように成るんだと話していました。

カズは新宿の車屋と言う割烹の店で修行していましたが、
歌手に成るんだと決め、レッスンに通わせて貰える店を探し大天丸に入ったそうです。
カズは週1回、作曲家の船村徹さんの所にレッスンで通っていました。
『今レッスンを受けている先輩2人がデビューしたら自分の番だ!』と張り切っていました。
カズは東北大を受験し、試験問題が分らず白紙で出てきたと言っていました。
宇都宮の高校では、相当勉強が出来たようです、最初の挫折なのでしょうね。

同じ年のカズが入った事と同じ高卒という事で僕達は直ぐ仲良くなりました。
カズは要領が良く人に好かれる明るさを持っていました、
それに初めての事に物怖じしませんでした。
割烹に居たので包丁さばきも上手いものです、
カズには料理の事を色々教えて貰え感謝しました。

出前用の自転車が2台有り、閉店後2人で毎日のように散歩に出かけました。
皇居、東京駅、銀座、東京タワー辺りまで走り回りました。
途中でアベックを見つけるとカズは必ずからかい、
僕も真似をするようになり、2人で笑い転げたものです。
或る時いつもの様に2人で自転車で皇居の辺りを走り回っていました、
アベックを見付けいつもの様にからかい、走り去りました。
信号が赤になり2人で休んでいると先程のアベックが歩いて追い着き、
4人で顔を見合わせ大笑いになった事も有りました。

週末の閉店後銭湯から帰ると、
時々テンプラのコ~ちゃんヒロちゃんに、カズと一緒にバーに連れて入って貰いました。
酒を飲まない僕を3人がかりで色々考え、
ビールをサイダーで割ったり、オレンジジュースで割ったりと何とか飲める様にしようと思ったようです。
最初は口を付けていましたが、美味い物だとは思えず、無理に覚える事をしませんでした。

この頃だったと思います。
出前の途中の大きなレストランの前に1台の車が止まっていました。
緑色のオープンカーで、
『こんなに綺麗な車が在るんだ!』と衝撃を受けました。
生まれてから初めてこんな綺麗な車を見ました!
店のイルミネーションの灯を受け、見事な曲線を映し出しています。
ただ溜め息が出るだけで、たたずんで見ていました・・・
この車がコブラだと知ったのは、2年後位の事でした。








入店から2ヵ月後位だったと思います

2005-06-26 12:31:20 | Weblog
マ~と喧嘩した日の閉店後、
親父はコ~ちゃん、マ~と僕の3人をタクシーに乗せビヤホール連れて行ってくれました。
うろ覚えですが日劇の前に在る大きなビヤホールだったと思います。
僕はこれまで酒を飲みませんでしたが盛んに勧められました、でも飲みませんでした。
ソーセージとチーズを食べながらコーラとオレンジジュースを飲んでいました。

『君達が一生懸命働けば、ノレン分けをするつもりだから頑張って仕事を覚えてくれ』という様な事を親父は話しました。
この話は、僕が入店する時にも聞きました。

僕が中学生の時まで住んでいた近くに当時大きなお店が在りました。
そのお店には使用人が大勢働いていました、それも一生懸命にです。
そのお店に入ると将来ノレン分けをして貰えると言う話でした。
でもノレン分けは有りませんでした、この事で揉めたようです。

この話を聞いていたので親父のノレン分けの話を鵜呑みにはしていませんでした。

次の日の朝、仕込みのためにキャベツをコ~ちゃんと取りに行きました。
『コ~ちゃん、喧嘩が強いのか?今遣ろうか!』と僕。
『・・・・・』コ~ちゃん、これで決まりました。
コ~ちゃんは自分の好きな靴をくれました、
何故靴なのか、何故自分の持ち物をクレタのかは分りません。
でも茶色の紐が付いた履き心地の良い靴をくれたんです、
当時流行っていたIVが履く様な靴で、この靴は僕のお気に入りに成りました。
コ~ちゃんは、板橋の生まれでIVの格好をしていました、それが又似合うんです。
マ~は茨城出身で言葉にナマリが有りました。

この事が有ってから僕達3人は仲良しになり、
お互いを認め合い、カバイ有って仕事を覚えました。
コ~ちゃんかマ~と一緒に全日空ビルまで、
上天重60人前、ナメコ汁60人前をオカモチに入れ自転車で運んだのも良い思いでです。
1人が30人前、2段のオカモチを肩に担ぎ、
自転車のハンドルに15人前のナメコ汁をぶら下げ、片手ハンドルで車の渋滞している所を縫うように走るんですから命懸けでした。
何度も転びそうになったのを必死で堪えたのを覚えています、転んだらどうなっていたのでしょうか?

閉店後3人で銭湯に行き、11PMを観るのが楽しみでした。

又育ち盛りの僕達3人は、シャリを炊く時目で合図をしてワザとオコゲを作り、
醤油をかけておにぎりを作り板前にも分けて食べたものです。

コ~ちゃんは酒好きで出前の途中で酒を飲む事が度々有ったようです。
ある日コ~ちゃんは寒いからと言って新橋の駅前に在る養老の滝で出前途中で酒を飲み、
酔っ払ってしまい寝込んだようです。
店に電話があり親父が迎えに行きました、
酩酊して謝っているコ~ちゃんを何回も親父は殴ったと後からマ~に聞きました。
これが原因でコ~ちゃんは店を辞めました。

コ~ちゃん、マ~と仲良しになり仕事が楽しくなり始めた、入店2ヵ月後位の事でした。



初めてコブラを見て衝撃を受けました

2005-06-25 12:49:04 | Weblog
仕込みが終わると出前先の器の回収です、
場所を覚えるためにアッチコッチ連れまわされましたが、1度で覚えられ訳が有りません。
東京タワーの近くや銀座の全日空ビルまでが配達範囲でした。

客席は、4人テーブル2、テンプラ・カウンター8、
寿司カウンター4、座敷テーブル8人X2合計36席だったと思います。
昼の12時少し前からお客さんが入りだし、1時少し過ぎまでの間に150~200人の人が入るんです。
今でしたら行列が出来る店でTVに取り上げられると思います。
前日4~5名辞めてしまったので人員は、テンプラ職人1、見習1、寿司職人1、見習1、配膳係りのお姉さん1、親父、女将さん、そして僕、計8名です、もう戦場でしたし入ったその日に戦士でした。
慣れない僕は言われるままに動くしか有りません、分かる事は下げられてくる器を洗う事位でした。
今で言うランチです、天丼150円、ちらし寿司150円、「決定版」と呼んでいました。

どうやら見習の2人も入ったばかりらしく、手馴れていません。
テンプラ見習は1才年上でコ~ちゃん、寿司見習は1才年下でマ~ちゃんと呼ばれていました。
1時過ぎにお客さんがいなくなり店に余裕が出来てきた所で2人の僕に対するイジメが始まりました。
どうやらコ~ちゃんが指示してマ~が乗っかっている感じです、
でもマ~の中にも要素が有ったかもしれません。

毎日少し暇に成ると始まります、
それが朝から閉店まで続き、彼らと一緒に寝るんです。
職人達も親父も分っているだろうから間に入ってくれるものと思っていました。
彼らは黙って成るままにしています、この店の習慣なのでしょう。

入店から7~10日位経った頃でしょうか、
いつもの様に山積みの器を洗っていますとマ~が何かを言ってきました。
『お兄さん、何か文句が有るのかよ~』とマ~。
いつもの事なので黙ってモクモクと器洗いをしていました。
『お兄さん、何か文句が有るのかよ~、と言ってるんだよ~!』とマ~。
まだ黙って器を洗っていました。
『何とか言ったらど~なんだよ~!』と居丈高になるマ~。
『お前口がでかいな~』と静かに話す僕。
『何を~この野郎~!』と言いながら殴りかかってきました。
腕を伸ばしマ~の胸倉を掴み左手を伸ばしたら相手のコブシが届きません、
今度は足で蹴ろうとしてきます、面倒クサイのでケリを入れました。
ここでようやく親父や職人が間に入ってきました。

マ~を呼んで何やら聴いています、
僕の所には誰も来ません、何となく僕が悪いような嫌な感じです。
僕は何事も無かったように器洗いをしていました。



美しい車の名前は、コブラでした

2005-06-24 10:01:43 | Weblog
大天丸が在ったのは、烏森通りのハズレでした、
斜め右前に八州電機と言う大きな会社が在り目印に成りました。
1階が大天丸、地下がバー、2階に堀部美容室、3階は堀部美容室の女子寮と言う雑居ビルです。

大天丸の1日は、朝8時に起こされ米磨ぎから始まります。
米は4トウ(この字が出ません)磨ぎます、精米で4トウですから凄い量です、60kg!
1回5升で2人ですから、1人で4回、もうクタクタです。
それからキャベツを20個位きざんでお新香作り、
大きな寸胴2個に水を入れ赤出汁作りの準備と大忙しです。

米は磨ぎ終えるとザルに入れ水切りをします、母がご飯を炊くのと違っていたので驚きました。
米がフヤケルのを防ぐためだそうです。
キャベツ20個は4つ切りにし、大きな包丁で芯だけ残すように細かく切り、荒塩で強く揉みます。
寸胴のお湯が湧いた所で、
朝砂吐きをさせたシジミかアサリをステンレスのカゴに入れ出汁を取り、ザルを上げる。
当然出汁だけになった所で味噌を入れ出来上がりです。
カゴの貝はお椀に3個位入れて山済みにし、赤出汁を入れてお客さんに出します。
今で言う流れ作業です、中々考えたものです。

これが終わると朝ご飯です。
朝ご飯は毎日同じオカズでした、
今作ったキャベツのお新香に貝が入っていない赤出汁、ご飯に生卵です。
高校生の時、生卵で呼吸困難になった事が2度有りますので生卵は食べられません・・・困りました。
赤出汁も臭いが強くて飲めません、、、ご飯に醤油をかけて食べていました・・・

食事が終わると今度は魚やエビの仕込みです。
生まれて初めて出刃包丁を握ります、使い方も分りません。
慣れるまでエビの皮むきと背のワタ取りをしました。
家庭でテンプラを揚げるとエビが丸まってしまいますが、
プロのテンプラが丸まらないのがこの時分りました。

小エビは皮をムキ、背ワタを楊枝で出してから、指で腹の筋肉を押し出すのです、
そうするとエビは大きく成るし、丸まらないしで一石二鳥です。
大きなエビは皮をムキ、包丁で背中に切れ込みを入れワタを出し、
お腹にも包丁を入れ筋肉を切ってから小エビと同じ様に指で筋肉を出すのです。
手馴れた人達の作業は見ていて気持ちが良い位スムーズにこなして行きます、
早く覚えたいと思いました。

この作業はカウンターに新聞紙を敷き行われます、
作業が終わるとカウンターにクレンザーを撒きタワシで磨き上げるのです。
全部の仕込みが終わり、お客さんを迎える準備が出来るのが11時頃です。
お客さんの来店までの約1時間は、出前の器の回収でした。

起きてから仕込みが終わるまでの間は、ラジオが点けられ聞きながら作業が出来ます。
毎朝流れていたのは、
「すがきや提供、1丁目1番地」でした、
今でも「すがきや」の看板を見ると懐かしく思い出されます。
確か主人公が「タ~坊」と呼ばれていて僕の子供の頃の愛称と同じだったと思います。





ニューウェイズや他のMLM

2005-06-23 10:42:13 | Weblog
母は、他のグルコサミンより良いと話しています。

2日前、以前知り合いの精密板金・秋山機器の社長から紹介して頂いた方に沼津の女性経営者をご紹介して頂きました。
秋山さんに紹介して頂いた方は、この地域の銀行の子会社の社長だったそうです。
子会社の社長だった時は、親会社で土日会議で休みが取れなかったと話していました。
そこで自営者として仕事を始めたそうです。
名刺には「プルデンシャル工藤」と書いて有りますので、
外資系保険会社の歩合外務員なのでしょうか?
以前より身体は大変だけど遣り甲斐が有ると話しています、仕事は遣り甲斐が必要ですね。
お金のためだけに働くと疲れます、好きな事をしてお金に成らない場合は許せる所が有ると思います。
当然好きな事をしてお金に成れば最高です。

『私は保険に入ってくれと言いません』と彼は言いました。
これは中々良い営業の仕方です、塗装に付いては、僕も10年位前から行っています。
相手が喜ぶ事をすれば必ず自分に返って来ると思います、
又返って来なくても人の役に立った事で自分自身に喜びと言うか満足感が得られます。

彼は何日か前から「コタラ」を飲んでいますので、
自分の打ち解けた知り合いに紹介しようと思ってくれたのだと思います。

待ち合わせ場所に到着し彼を待ちました。
今日はE500では無く、VWの黄色のポロでした。
『お客さんの所に行くのはこの車です、ベンツでは行けませんね』と苦笑いの彼。

女性経営者の方は屈託がなく明るい方です、きっと仕事と自分に自信を持っているだと分ります。
一通り彼が説明して下さり、僕が足りない所ともう少し詳しい説明をしました。
彼女は興味を持って下さり、
『私色々なモノを飲んでいるんです、それと人と会う機会が多いので色々な商品を紹介されるんです、
ニューウェイズ、ルクソール、エンリッチ、ニュースキン、ハバーライフなど全部会員には成っているんですよ』と言われました。
『ニューウェイズは僕もやっていました、製品が良くても日本ではMLMは難しいですね、それとこの地域は新しいモノを受け付けない気質ですから余計です』と僕。

「コタラヒムブツ」の説明で在る本を出しましたら、
『その方は一度講演に来て頂いた事が有りますし、TVにも出演しているし高名な方ですから診療所は何時も満員のようです』と女性。
1ヶ月飲んで下さると言い買って下さいました。
『他のモノを飲むのを止めて、「コタラ」だけ飲んで下さい、
「コタラ」を飲んで調子が良くなった方々の中には、これの性か分らない?と言い出す事が多いからです』と僕。
『では他のモノを飲むのを止めて、これだけ飲んでみます』と潔い女性。
一ヵ月経たなくても分って下さると思います。
それと驚いた事には、研究者の弟さんが彼女の会社で働いている事です。
偶然でしょうか、必然でしょうか?

この商品もMLMで如何かと言う話は有りました。
MLMの長所は、売る側に取って資本金が少なくて済む事です。
それと誰にでも同じチャンスが有る事です。
普通の商品と違い問屋さんなどの中間マージンが省かれる事により、
売り手側がそのマージンを分けられる事です。

ニューウェイズを遣って思った事は、今までの生き方が問われると感じた事です。
今大手の会社の部品の塗装をしています、
間違いの無い品質の部品を納めていますので、そこそこ信用が有ると思っています、でも難しかったですね。

『他の人に出来て自分に出来ない事は無いだろう』と僕は思っています。
日本でMLMで大成功している方は、年収何億円も収入が有るそうです、普通の人と何かが違うのでしょうね、
「その何か?」とは何何でしょうか?
自分自身の可能性を探すのにはMLMは「持って来い」かも知れません。

聞いた話ですが、ダイヤと言われる方々の中には、組織が出来上がり安定した収入が出来ると、
その権利を自分の家族に譲り、自分は他の新しいMLMに入るのだそうです。
番号が新しい程、収入に有利な事は有りませんからね。
僕の上の人もそのようです、後から色々勧められました。

エジソンが電球で失敗を繰り返している時、友人が言ったそうです、
『もうこれだけ失敗したんだから止めたらどうか?』
『今までの失敗で駄目な方法が分かった』とエジソン。
失敗は学ぶ事が多い、そう思います。
エジソンの言葉を『天才とは1%のヒラメキと99%の努力だ』と教えて貰いました。
これは間違いだと書いたいる本が有りました、
『1%のヒラメキも無ければ99%の努力が無駄に成る』と言ったのを記者が書き換えたのだそうです。
これを読んで思いました、
『1%のヒラメキが有るという事は可能性が有るという事だ、進めの合図だ!』
当然「コタラ」にはヒラメキました!

MLMでもそうですが、商品を好きに成れる、惚れられるかだと思います。
お金から入る人は長続きしません、そして被害者の顔に成ります。
被害者に成るのでも無く、加害者にも成らない、共存する事が必要です。
たとえ知人友人の勧めが有っても、
遣る遣らないを決めるのは、あなた自身です、誰の責任でも有りません。

最後は自分自身で責任を取れるか、です。




初めての日の出来事

2005-06-22 11:29:36 | Weblog
大天丸は寿司とテンプラを食べさせる店でした。
寿司職人になりたいと言いましたら、
『東京に寿司屋が何件有ると思う?石を投げれば当たる位多い、
そこにいくとテンプラ屋の数はまだまだ少ない、
若い人達は油っこい物が好きだ、これからはテンプラだよ』と親父。
『は~、そう言われればそうかも知れませんね』と僕。
宗旨替えをしてテンプラを覚える事にしました。

住み込みで働きますのでボストンバッグに荷物を入れ、朝8時頃出かけました。
店の中には大勢の同世代の若者がいました、始めに教えて貰ったのが器の洗い方でした。
夜10時に閉店です、慣れない仕事でクタクタに疲れました。

その夜の事です、今まで一緒に働いていた同世代の人達が、
『今日で全員辞めるんだ』と言い出したのです。
『え~・・・全員が今日で辞めるんですか?』と僕。
『ここの親父が気に入らないから辞めるんだよ、頑張ってね!』と笑顔で答えます。
『親父!人の使い方が悪過ぎる、今まで色々な所で働いてきたけれど、ここは最低だ!』と同世代の親分格。
『辞めたいなら辞めれば良い、今日までの給料を計算するから持っていけ!』と親父。

寿司職人とテンプラ職人が間に入って考え直すように説得しましたが、彼らの怒りは収まりません。
今日働き始めて、この事件、明日からどうなるのか不安で一杯に成りました。

その中で2人だけ留まる事になりました、寿司の見習とテンプラの見習です。
テンプラの見習は今まで一番下っ端でしたが上が全員いなくなる事で僕の先輩に成れるのです。
そして寿司屋見習の先輩でした、ですからこの店の見習の親分に成れるのです。

この世界では年が関係無く、早く入った方が先輩に成れるのだと分りました。

二人に銭湯に連れてって貰い帰って来ると11時過ぎでした。
この店の座敷に布団を敷いて寝るのだとこの時に知りました。
先程まで居た4~5人はここで一緒に寝ていたんだ~、、、驚く僕。
だって12畳位の部屋ですよ、足の踏み場も無かった事でしょう。

Cobraってご存知ですか?

2005-06-21 10:00:34 | Weblog
蛇ではなくてコブラと言う名前の車です。
僕が初めてこの車を見たのは19才の頃だったと思います。
当時新橋の烏森通りに在った大天丸と言う名前のテンプラ屋で働いていました。
今は昔の場所に在りませんので何処かに移転したのでしょうか?

何故テンプラ屋で働いたかと言いますと、
高校を出て横浜の会社に住み込みで働きに行きました、
この会社は電電公社に収める機械を製作していました。
工業高校出の新卒は7人、
毎日朝の2時間近く会社の製品を覚えるために授業を受け、
それから色々な課を回り機械作りの工程を覚えるのです。

ある時、製品の最終検査を担当していました。
そこに電電公社の役人が抜き打ちで検査に来ました。
2種類の機械が山積に成っています、
『これとこれ』山積みの品物から2個づつ、2種類4個選びました。
不思議な話ですが、2種類4個全て不良品でした。
先輩と2人顔を見合わせ驚きました、
昨日2人で外観検査をし袋詰めをした製品なのです!

驚いてばかりは要られません、
2人で汗だくになりながら全部の梱包を外し、検査のし直しをしました。
今度も2人で驚きました、不良品は役人が指定した品物だけだったんです。
再び先輩と顔を見合わせ『う~ん、、、何でだろ~』と言い合います。
『アハハハ偶然に当ててしまったね~』この様な事を役人は言いました。
検査の課長が来て上着の内ポケットから新聞紙に包んだ長細い物を渡しました。
『これは何ですか?』と役人。
『唯の新聞紙です』と課長。
『あ~、そうですか、唯の新聞紙ですか』と新聞紙の包みを懐にしまう役人。
家政婦では有りませんが、僕は見てしまったんです。
あの厚みですと100万円位だと思います、僕の税込み給料が1万5千円の時代です。
『サラリーマンってこんな事もしなければならないのか、僕には絶対に出来ない』その時に思いました。

それと生れ付きの負けず嫌いで身体を壊してしまいました。
同期で入った仲間の仕事振りを聞くと、負けまいとして頑張り過ぎる変な性格が裏目に出たのです。
3月から働き始め10月までいました、会社の寮で皆とビートルズ日本公演を見たのを覚えています。
ドリフターズが前座で出ていました、仲間達と大騒ぎしたものです。

家に帰り身体を治しながら将来の事を考えました。
僕にサラリーマンは向きません、手に職を付けようと考えました。
食べ物屋が良いかも?と思い寿司職人になりたいと思い始めました。
偶然父から電話があり、相談しました所、新橋の大天丸を紹介されました。
大天丸は寿司とテンプラを食べさせる店だったのです。