異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

「ピカドンの毒が移る」と言われ、浴場で泣いた。被爆70年の増野幸子さん

2015-08-09 18:24:10 | 福島、原発

http://www.huffingtonpost.jp/2015/08/08/masuno-toyoko_n_7959330.html?utm_hp_ref=japan

安藤健二 Headshot 

「ピカドンの毒が移る」と言われ、浴場で泣いた。被爆70年の増野幸子さん

投稿日: 2015年08月09日 17時15分 JST 更新: 1時間前
 

被爆した路面電車の運転士だった祖母の体験をWeb漫画にした「さすらいのカナブン」さん。彼女が第2弾として取り組んでいるのは、祖母のいとこ、増野幸子(旧姓:小西幸子)さんの体験談の漫画化だ。「ヒロシマを生きた少女の話」というタイトル。現在は下書き段階だが、2016年の完成を目指している。

「広島原爆の日」を翌日に控えた8月5日、モデルになった増野さんにインタビューした。70年前のあの日、15歳だった彼女は、爆心地から約2.1kmの地点で被爆。背中に114個のガラス片が刺さる重傷を負いながらも、九死に一生を得たという。

sachiko14
1944年、広島電鉄家政女学校に入学当時の増野幸子さん(当時14歳)

■「オバケじゃ!」と思いました

高層マンションが林立する広島市営アパートを訪ねた。外はカンカン照りだった。猛烈な暑さのため、外を歩く人も少なく、セミの声だけが響いていた。一室の玄関の前で、ピンポンを鳴らすと「はい、どうぞ」と、上品そうな女性がにこやかに出迎えてくれた。増野幸子さんだ。86歳とは思えないほど元気そうな様子。自宅で話を伺った。

増野さんは広島県粟屋村(現:三次市)出身。原爆が投下された1945年には、広島電鉄家政女学校の生徒だった。男性運転士が次々と出征する中で、広島電鉄が女性運転士を育成するために設立した学校だ。子供の頃から電車の運転士に憧れていた彼女は、いとこの児玉豊子(旧姓:雨田豊子)さんに続いて、この学校に14歳で入学した。

人手不足もあり、車掌業務を経て、翌年には念願の運転士になれた。「自由自在に電車を動かせるのは本当に楽しかった。まるで天下を取ったような気分でした」と、振り返る。男子学生からラブレターをもらったこともあったという。

終戦直前には授業は完全になくなり、昼夜を問わず運転に追われるようになった。運命の8月6日。空襲による停電のため、前日の運転業務が終わって寮にたどり着いたのは未明の午前2時を過ぎていた。寝付けないまま午前5時に起床し、朝の運転に向かおうとしたところ、原因不明の腹痛に襲われた(後に虫垂炎と判明)。初めて欠勤した。

午前8時15分、寮で寝ていた増野さんは、足の甲に猛烈な熱を感じた。途端に寝返りを打ったところ、次々と物が飛んできた。夢うつつで目を開けると、寮の天井はなくなり、真っ黒な空をゴミが飛んでいるのが見えた。下着姿で寮の前の広場に出ると、人々が「爆弾だ!」と叫んでいた。

ふと熱さを感じて、足元を見ると足の甲が火傷で水ぶくれになっていた。慌てて冷やそうと、寮の近くを流れている京橋川に行こうとして道路に出た。そこで彼女が見たのは想像を絶したものだった。

「『オバケじゃ!』と思いました。爆弾で、あんな風になっているとは思いませんでしたね。もう人の形はないんですよ。顔は真っ黒けで、手の皮はずるむけてていて、『熱いよぉ、熱いよぉ』と言いながら、ぞろぞろと歩いているんですね」

驚きながらも川で足を冷やしていると、市内は煙で真っ黒で何も見えなくなっていた。ただ下の方を真っ赤な炎が広がっていくのが分かった。投下地点から近すぎて、キノコ雲は見えなかった。川の中に大やけどをした人が入っていくのが見えたが、ボコボコと泡だけを残して、そのまま出てこなかった。

やがて、背中に生温かい物が流れているのを感じた。近くにいた人に背中を見てもらうと「うわぁ、あんたの背中血だらけよ!」と言われた。背中から流れた血で、足は真っ赤に染まっていた。「お母さん、助けてぇ!」。パニック状態になった増野さんは、郷里にいる母に向かって思わず何度も叫んだ。

このとき背中には寮の窓ガラスが割れたガラス片が114個も刺さっていた。現在でも背中の奥に数片が残っており、寝返りをしたときなどに痛むという。

sachikocomic01
さすらいのカナブンさんのWeb漫画「ヒロシマを生きた少女の話」より

■「私は死んでもいいから、早く逃げて」

倒壊した寮をぼんやりと眺めていると、「小西さん、そのままじゃどこにも行かれないよ!服を着なさい」と先生に注意された。慌ててガレキの中から制服を見つけた。背中が痛くて上着は着れないので、ズボンだけを履いて30〜40人ほどの集団で避難した。途中で、いとこの雨田豊子さんに再会。運転していた電車が被爆し、寮に帰ってきたところだった。彼女も頭に怪我をして、顔は血だらけだったという。

「『幸っちゃん、生きっとたんね。よかったねぇ』。豊子さんが言うてくれて、二人で抱き合って泣いたですよ。『それにしてもあんた、ひどい怪我をしたんじゃね。しっかりしんさいね。私が連れて逃げてあげるから』と言ってくれました。あの人のお陰で現在の私があるんですよ」

途中の共済病院でピンセットで背中のガラス片を取ってもらい、3つの三角巾を体中に巻く応急処置を受けた。広島市南部の神田神社で夕方までいたが「ここは夜が危ない」という教師の指示で、姉妹校の実践女学校まで避難したが、約10kmの道のりは地獄だった。

「豊子さんに肩を支えてもらいながら、片足をつきながら歩いていきました。足が火傷でうずき、背中もチクチクするので5分と歩けないんですよ。『豊ちゃん、もう私は歩けない。私は死んでもいいから、早く逃げて!』。私は何十回も叫んで、街を埋める死体のそばにしゃがみこみました。そのたびに、豊さんは『しっかりしんさい!頑張らないといけん』と私を叱って、引きずるようにして連れていきました。豊子さんがいなかったら、到底生きてここにはいなかったでしょうね。私がしゃがみこむと、まだ生きている人が『お水をください……』と話かけるんですが、『私もないんです』と話したことを覚えています」

通常であれば徒歩で2時間ほどで行ける距離だったが、焼け野原を裸足で歩いたため8時間ほどかかった。実践女学校に着いたときには真夜中になっていた。講堂に寝かされて、生死の境をさまよっていたが、8月14日に家族の迎えで郷里に帰った。玉音放送が流れたのは、翌日のことだった。家族は体を震わして泣いていたが、幸子さんは「これであの苦しい戦争が終わったんだ」と、ホッとする気持ちの方が大きかったという。

sachikofuro
さすらいのカナブンさんのWeb漫画「ヒロシマを生きた少女の話」より

■「ピカドンの毒が移る」と言われて

実家では母の懸命な介護と、医師の治療の甲斐があって、ぐんぐんと回復していった。10月、運転士に復帰しようと広島を訪れたが、車庫で聞かされたのは「家政女学校は9月で廃校になった」という悲しい言葉だった。「働くところはありませんか?」と尋ねた結果、支線の宮島線の車掌として翌日から勤務するようになった。

終戦3年後の1948年には、兵庫県姫路市にあった東洋紡績(現:東洋紡)の工場に就職した。そのときのつらい経験は未だに忘れられないという。女子寮には1000人以上の地方から出てきた女性が集まっていたが、広島の原爆のことを詳しく知っている人はいなかった。

「寮の共同浴場に入っているときに、私の背中の傷が気になったんでしょうね。『あんたの背中、どうしたの…』と聞かれたので、『広島のピカドン(原子爆弾)で怪我をした』と言ったら、側にいた人たちが『ピカドン?早く逃げなさい、毒が移る!』と言って、20人ほどいた同僚が一斉に浴場から出ていってしまいました。一人残された私は泣きました。脱衣所で傷だらけの自分の背中を見ながら、『こうなったのは、私のせいじゃないんよ。原子爆弾のせいで怪我をしたんだから、私が悪いんじゃない』と一生懸命、自分に言い聞かせたのを覚えています」

sachikonow
インタビューに答える増野幸子さん(2015年8月5日撮影)

■「昔のことを話すのは、抵抗ないです」

壮絶な被爆体験を、よどみなく話す増野さん。当時のつらい経験を話すことに抵抗はないのだろうか。そう尋ねると、にっこりと笑いながら、こう言った。

「昔のことを話すのは抵抗ないですよ。大勢の人に知ってもらった方がいいと思うので。豊子さんのお孫さんにも、漫画も上手に描いてもらってうれしいですね。今度、豊子さんが主人公でNHKのドラマになりますが、私の役も出るというので、若い女優さんが挨拶に来たんですよ」

8月10日に放送されるNHKの実写ドラマ「被爆70年 一番電車が走った」には、当時の人物が実名で登場。増野さんの役は、清水くるみが演じる。命の恩人である児玉豊子さんとの交流は、近年まで続いているという。

「去年の11月に主人が亡くなったんですが、それまでは1年に2回は、豊子さんを誘って三次市の君田温泉に一緒に行ってましたね。『命の恩人じゃけえ』と主人が誘ってね。豊子さんとは被爆当時の話はあまりしないですね。いい思い出じゃないから……。久しぶりに会うのでワーワー言って、『あんた元気?』『うちはこうじゃ』といった話ばかりでした」

 

 


長崎原爆70年:被爆者が語る「原爆の恐怖」 (写真作家 廣見恵子)

2015-08-09 18:12:38 | 福島、原発

http://www.huffingtonpost.jp/keiko-hiromi/post_9752_b_7959914.html?utm_hp_ref=japan

廣見恵子 Headshot   写真作家

長崎原爆70年

投稿日: 2015年08月09日 10時18分 JST 更新: 2015年08月09日 10時19分 JST
 

昭和20年8月9日午前11時2分に長崎市浦上地区に原爆が投下された。広島原爆投下から3日後のことだった。当時の長崎市の人口はおよそ24万人。その年の12月末までに73844人が亡くなった。

今年6月17日、飛行機からおりた長崎は小雨が降っていた。雨に濡れた深緑の山々の中をバスがはしり私は長崎市に到着した。 今回の帰国で私が広島と長崎を訪れた理由は被爆者の方とお会いしお話を聞く事だった。

私にとって広島、長崎の原爆は平和教育の中だけに存在していた。日本は唯一の原爆が投下された国で、核の怖さを伝えなくてはいけない、と教わったことがなんとなく頭に残っていた。5年前には日本がこんなににも切実に『核』と『戦争』問題に直面するとは夢にも思っていなかった。

■松尾幸子さんの話

8月9日午前11時2分、原爆が落ちた時は、爆心地から1.3km離れた岩屋山で家族(祖母、母、弟3人、妹、親戚の子ども3人)と共にいた。松尾さんは爆心地から600m離れている長崎市山里小学校5年だったが7月から休校となっていた。
__________
爆心地から700m離れた大橋町の家で松尾さんは 家族親戚(父、祖母、母、叔母2人、姉2人 兄3人 弟3人 妹1人 従兄弟)と暮らしていた。広島に原爆が落ちた後、父が"8月8日長崎灰の街"と書いてあるビラを偶然見て、サツマイモ畑があった岩屋山の中腹に畳2枚の小屋をつくり8月7.8.9日、幼い家族を避難させた。

9日の朝は『アメリカは1日遅れだから、今日も危ない、山にいくように』 と母と祖母にきつく言い渡し私たちはその言葉に従って岩屋山にいった。 その時は爆弾が落ちるかもしれない、という恐怖より行かないと父に怒られるので岩屋山にいった。1番上の婦美子姉が麦がたくさん混じったお結びをつくり、おやつ代わりジャガイモを煮てくれた。それらを母が持ち、祖母、母、私、弟が3人、妹、親戚の子ども3人、合計10人で山に登っていった。

私は11歳。妹は5歳。弟達は小学校3年、1年生、1番下は2歳だった。私はその時はもんぺをはき長袖ブラウス、防空頭巾をかぶり救急鞄をさげていた。小屋に到着し暑いので、私は小屋のなかではスリップ1枚となり畳の上に立って救急鞄の中身を見ていた。その時ピカーと白いような黄色いような光が小屋の中にはいってきた。今のはなんだろうか、と思った。しばらく間があり家族と今の光はなんだったのだろうか、と話していると、自分がたっている地面の下と向こうにみえる遠方の山から同時にドーンとすごい爆音がした。そして真っ暗な闇に包まれた。

どのくらいしてからか、暗闇が上のほうから少しづつ明るくなっていった。『みなどこにおるとね、けがしてないね、だいじょうぶね』 母の声が聞こえたが、姿は見えなかった。 明るくなってみたら小屋は潰れ、サツマイモ畑が消えていて、母は私の前に立っていた。『ああ、かあちゃん』と思った。母は片目が見えなくなっていて、こぶができていてそれがどんどん大きくなっていった。

後から聞いた話では妹はドーンときた時、小屋の下敷きになり気を失ったらしく、 気づいた時には母にだっこされていた、という。私には外傷はなかったが1年生だった弟は首の後ろ側の付け根を大きく切っていた。小さな首に大きな傷がひらいており血は出ていなかったが、傷の奥に白いものがみえていた。弟本人もその時には痛みを感じなかったのか、私と同じようにただ母を見つめていた。親戚の女の子は片方の手と脚に、男の子は体の片側の腰から上にひどい火傷をおっていた。火傷がみるみるうちに大きな水泡にかわっていき、二人はひどく泣いていた。

その時、低空飛行の飛行機がきた。私達はあわてて隠れるところを探したが、何処にもない。 しかたないので学校でならっていたように目と耳をかくして地面に伏せた。私はそっと顔をあげてみたら、飛行機の操縦席がすぐ近くに見えた。外国人の男の人2人が地上をきょろきょろと観察していた。 飛行機が立ち去ると祖母は弟と親戚の男の子4人に怒った。「お前達が(小屋のなかで)騒いでいたから、飛行機にきかれて爆弾を落とされた」。私達は衝撃がとてもすごかったので、最初は自分たちのところに爆弾が落とされたと思っていた。当時は防空壕の中でも、アメリカ軍に声が聞こえるから喋ってはいけない、と信じられていたのだ。

しばらく時が過ぎ長崎の家が心配になったので皆で下の街を見下ろすと真っ黒い雲に覆われていて何も見えなかった。私達は原子雲を上から見たのだと思う。それを見て浦上四番崩れ生き残りの祖母は「下にいた人はみんな死んでしもたとばい。世界の終わたとばい。」といった。町にいた家族を心配した母は、離れようとしない2歳の弟をおぶり、 1年生の弟の手をひいて下を見てくる、と下山していった。外傷のない私が行くべきだったのだと思う。でも私は真っ黒い雲の中におりていくのが怖かった。

母はすぐに戻ってきた。ちょっと下で全身大火傷の親子と出会ったそうだ。 その小母さんは母に名前をつげ、近くに溜まっていた雨水を飲ませてほしい、と頼んだ。隣町の人のようだが火傷が酷くて母には誰だかわからなかった。母は水を飲ませてあげた後、下山するのを諦め戻ってきたそうだ。皆思い思いの場所にいた。私は一人で下から続く道に座っていた。日陰がなく空も土も暑かった。 全身土まみれで洋服がぼろぼろの男の人が登ってきた。その人は体の2カ所を三角巾で縛っていて、棒を杖代わりにしていた。 近くにきてみるとそれは父だった。『母ちゃん、父ちゃんがきたよ』それは嬉しかった。 皆が集まってワーワーと泣いた。下の人は皆死んだと思っていたので、父が現れてとても嬉しかった。

父は警護団に所属していた。原爆が落ちた時、爆心地から800mの大橋町の詰め所(事務所)にいたそうだ。 木造2階建ての事務所が全壊した時、大きな梁の下敷きになり救出してもらった。梁の下から救出され、周りをみてみたら密集していた住宅街がすべて消えて火の手があがりはじめていたという。 見ると近くの魚雷兵器工場のガスタンクが潰れていて、父は苦しく具合が悪かったのでその有毒ガスを吸ったのだろう、と思った。山は空気が綺麗だろうと思い、岩屋山に来たところ私達に再会した。父も私達が死んだ、と思っていたので、再会を喜んだ。父のあと親戚のお兄さん2人がやってきて自宅の事を教えてくれた。

私の大橋町の自宅(爆心地から700m)には1番上の姉婦美子と叔母が二人でいたそうだ。自宅は全壊し叔母は家の下敷きになったところを近所の人に助けられた。叔母はひどい火傷をしていたが全壊した自宅の周りで姉を探したが、見つけることができなかった。婦美子姉はその後燃えた自宅の焼け跡から白い骨となってでてきた。

2番目の姉は当時女学生で近所の兵器工場で勤労奉仕をしていた。原爆で建物がなくなり、家の帰り方がわからなくなってしまったが自宅裏に線路があったことを思い出し線路を辿って帰ってきた。そのころ自宅で被爆した叔母は火傷がひどいので治療をしてもらおうと、自宅裏の線路の救援電車にきていた。そこで2人は再会した。叔母は2番目の姉と会えたことをとても喜び"火傷がひどいから救援電車にのっていく"と姉に伝え、手をにぎり、"治療をうけたらかえってくるから待ってて"といったそうだ。その手にはもう皮がなくてぬるぬるしていたそうだ。叔母は救援列車の輸送先で11日に死んだ。

父と同じ警護団だった兄は数日後、山里小学校(爆心地から600m)の屋上で死体となってみつかった。屋上には警報用の鐘が吊るされてあった。学校はひどく燃えていて、最初は死体を確認だけして運ぶ事ができなかった。翌朝家にいなかったため助かった兄1人と親戚の人たちで遺体を引き取りにくるともうなくなっていて見つける事はできなかった。 私のすぐ上の中学生の兄、 もう1人の叔母は最期までどうなったのかわからない。この3人はお墓の石には8月9日死亡と記してはあるが、お骨はない 。

私たちは9日の夜は岩屋山で過ごした。夜は寒くて怖くて眠る事ができなかった。 照明弾、焼夷弾が街には落ちていて、浦上天主堂がつぶれて燃えていた。翌日私は親戚の兄さん達と街におりた。そこで私は初めて死体をみた。 どこかの工場の作業着をきてあまり外傷のない男の人2人だった。最初見た死体は本当に怖かった。けれども怖かったけれど見たかったので、横目でそっとみながら歩いた。 建物が消え雪のような灰が町中に溢れていた。道はなく防空壕まで燃えている灰の上を歩いた。灰のなかにはお骨がたくさんあった。灰のないところには遺体があった。がれきの中にはまだ生きている人もいただろう。 何ともいえない匂いはおそらく焼けた人の匂いだったのだろう。

防空壕には人が溢れていた。怪我をしたひと、火傷をした人もたくさんいた。 うめき声、匂いがひどく、爆心地1km以内から逃げてきた人はすぐに亡くなった。私たちは1.3kmだった。 そういう人たちは防空壕では治療をうけることもなくかわいそうだった。

防空壕の前を通る人に15日終戦を聞いた。家族で終戦後に時津町にある親戚の家にいった。父の具合は悪くなる一方だった。私は医者の家に往診を頼みに毎日出かけた。熱が出て、下痢をして斑点が出て、髪の毛もぬけて苦しむだけ苦しんで8月23日に父は他界した。父は死ぬまで苦しいのは潰れた兵器工場の有毒ガスのせいだ、と信じていた。父の苦しみ、死をみてはじめてとても悲しかった。 私の家族親戚は21人原爆で死んだ。治療を受けさせてあげる事はできたのは父だけだった。

終戦50周年の時、山里小学校で当時いた1581人生徒のうち1300人死んだ、と聞いた時は涙がとまらなかった。『あの時の体験は2度としたくない、戦争は2度としないでください。そして核を1日でもはやく廃絶してください』生き残った者として一人でも多くの人に伝えていかなくてはいけない、と思った。思い出すのがつらくて2年間はできなかった。62歳で退職をきっかけに語り部をはじめた。語り部をはじめてから中学生に『自殺を考えたことはありますか』と聞かれたことがある。『私たちは父に助けられました。そうやって助けられた命を祖末にすることできませんでした』と答えた。その時は涙がとまらなかった。

あの頃は死体がたくさんあった。その中でも一番おぼえているのは妊婦さんの死体だった。妊婦さんの死体が骨になったら、赤ちゃんの骨も一緒にでてきた。

当時私は兄弟12人いた。戦時中は子だくさんが奨励されていた。"たくさん子どもを産んで兵隊さんにできるように"ということだった。戦争とはそういうものだ。これが私の体験です。

2015-08-08-1439049499-1171880-0V1A0204.JPG
松尾幸子さん山里小学校校庭前にて撮影

■内野節雄さん

1歳9ヶ月で爆心地から1.8km離れた御船蔵町の自宅近くの防空豪で被爆した。
__________
母は塩を買いに外に出ている時に被爆し、兄と妹は自宅で被爆した。母の髪は縮れ、衣服は焼け落ち大火傷をおい、裸同然だったらしい。母は自宅に残してきた兄と妹のところまでなんとかも戻り全壊している自宅跡から 泣いている兄、妹を探し出し、防空豪にいた私を拾い、幼い私たち3人を連れ裏山に逃げた。首のない人、目玉が飛び出している人、黒こげの人、『水を、水を』と母はいわれて、「ごめんなさい、ごめんなさい」といいながら山を登っていったそうだ。登って下をみると、なにも残っていなかったそうだ。ちらほらと火の手がのぼり夕方までには真っ赤に町が燃えはじめた。母は私たちをつれて防空豪に入った。防空豪では私たちが泣く度に、 やかましい、でていけ!と母は罵声を浴びせられ、外にでて子ども達をあやして戻ってくるのだった。

父は爆心地から1.9km離れた五島町で被爆した。材木店に勤務していた父は材木を大八車で曳いている時に被爆した。反射的に耳と目をふさいで地にふせたそうだ。気がついた時には周りにはなになく、一緒に押していた同僚はすごく後ろまでふき飛ばされて黒こげになり死んでいた。父も全身に大火傷をおい、 出血し、皮が体中からたれさがったそうだ。その時の首から肩、背中、両腕のケロイドは88歳で死ぬまで消えることはなかった。

父は家族が心配となり、周りの人にも助けてもらい、棒を杖とし自宅まで戻ってきた。その時私たちはすでに裏山へ避難したあとで、1週間後にやっと私たちは父と防空豪で再会することができた。終戦時は食べ物不足で苦しんだ。防空豪で近所の人がジャガイモをふかした時、母はなぜか私たちに食べさせなかった。しかし食べた人達は10日間ほどでお腹がふくれあがり、紫の反転が体中にでて皆死んだ。放射能の知識などない私の母がなぜ家族に食べさせなかったかはわからない。母は長崎市内の閉鎖している缶詰工場から缶詰を運び、私たちの食料とした。

戦後は親戚の家で養生させてもらいながら、昭和22年に6畳間一間を借りて家族で長崎に戻ってきた。そこで弟が二人生まれた。28年に長崎市内城山に引っ越し、私は城山小学校4年1組に転校した。偶然にもそこは原爆教室だった。 原爆教室とは長崎市内で爆死をのがれた児童が年月をたってから発病するケースが相次いたのをみた教師達が、クラス単位で被爆生徒の健康管理を行う教室だった。 朝登校するとビーカーで尿を採る。教室の隅にある名札つきの試験管にガラス製のストローを使って尿を移す。放課後には長崎大学病院にいき、様々な検査を受けた。

城山小学校の親友は久松誠君だった。スポーツマン、成績優秀で級長だった彼とは登下校はいつも一緒だった。誠君は小学校4年9月に白血病が発病し入院した。私は何度もお見舞いにいったが病状はどんどん悪くなり、10月中旬に亡くなった。その頃小学校生だった私には原爆との関係などわからなずただ大親友を失った悲しさに打ちひしがれ『誠が死んだ、誠が死んだ』と泣き叫んだ。

私が小学校の高学年の頃から母は入退院、大病、手術を繰り返した。妹は小学校の頃から母の代わりに働いた。電化製品のない時代、井戸の水汲み、洗濯、炊事をこなして学校にいき、寒い冬には雪がまじって手を真っ赤していた。妹は昭和46年に結婚をし、幸せに暮らしていたが流産をし、その後は大腸に大量にポリープがみつかり、昭和53年に人口肛門をつけた。結局妹は34歳で翌年昭和54年に亡くなった。母は胃の手術、鼻の手術、最期は肝硬変となり、輸血をたくさんして54歳までなんとか命をつないだ。私は母のために勤務先で献血の協力をお願いし、街頭で献血運動をした。助けられた人々に感謝している。

原爆はわからない。放射能とはわからない。個人差はあるが、爆心地からそばで被爆しても生き残る人、爆心地からはなれていたのに、大きな影響が出て亡くなる人もいる。被爆した時の状況、風向き、障害物があったかなかったかで生死が分かれる。大火傷をおった父は88歳まで生きた。被爆者である兄と私が生き残り、被爆2世の弟たちは私より先に死んだ。一人は59歳の時肺がんで、もう一人は食道がん、胃がん、肝臓がん、前立腺がんが一気に併発して去年死んだ。

10年前に被爆の朗読ボランティアをはじめた。語り部ははじめて3年間、全国の小中高校生に語っている。終わったあと感想文を送ってくれるのがとても嬉しい。今の情勢を見ていると、「この道はいつかきた道」と感じる。私の母、兄弟、友人達はなにもいわずに死んでいった。2度と原爆、戦争がおこらないように、2度と同じことがくりかえされないように、若い人たちに伝えたい。

2015-08-08-1439050195-5959960-0V1A0246.JPG
内野節夫さん被爆した防空豪跡にて撮影

■平野操さん

当時24歳 浦上出身8人兄弟だった。熊本県の天草に夫の仕事の関係で転勤したため原爆の時は長崎に住んではいなかった。長崎に爆弾が落ちたと人から聞き家族が心配となり操さんは被害の規模もわからず、 ともかく当時3歳だった息子征博さんの手を引き8ヶ月の娘を背負い、天草から茂木まで船できて徒歩で長崎に入市した。

『もう、浦上はなんもなくばい(浦上はなくなったよ)』 途中親戚に会うといわれた。 死亡者名簿を探しあててみると、浦上にいた家族はだれも記されていない、助かっている?一瞬希望を持った。しかし現状は全滅でだれも届け出をだすものが残っていなかったのだ。自宅は跡形もなくなっていて浦上にいた家族は3人のぞいて爆死だった。生き残った3人も日を追って死んだ。そのうち妹の一人と会うことができた。 一晩を共に過ごし『またすぐくるけんね』といい天草に帰った。天草に帰ってからはげしい嘔吐にみまわれた、放射能を浴びたのだろう。次に長崎にきたらその妹はすで死んでいた。死ぬなんて思いもしなかった。髪が全部抜けて死んだと聞いている。妹は21歳だった。

2015-08-08-1439050390-5978034-0V1A0235.JPG
平野操さんと征博さん長崎市浦上にて撮影。

操さんは茂木から長崎までおよそ10kmの距離を3歳だった征博さんの手を引いて歩いてきた。操さんはときどきのこのことを思い出すという。

________________

被爆者の写真撮影、体験談をきく、というは何度も新聞、雑誌で企画されてきたことだ。でも私はそれでも自分でやりたかった。『なぜ写真を始めたのか』という原点を私は忘れたくない。

取材にご協力いただいた長崎平和推進教会様、お話を伺わせていただいた松尾幸子さん、内野節夫さん、平野操さん、征博さんどうもありがとうございました。


8/9 安保法案「許せない」=「平和への誓い」谷口さん-長崎平和祈念式典

2015-08-09 16:55:40 | 福島、原発

 

「祈りの長崎」安倍晋三に止めを刺す!    被爆者代表・谷口稜曄さん(86才)は戦争法を痛烈批判。これまた満場の拍手が起こり、安倍の表情は引きつっていた。    その後の安倍の挨拶では、安保法制には一言も言及できなかった。
 
「祈りの長崎」安倍晋三に止めを刺す(その2)
被爆者代表・谷口稜曄さん(86才)は戦争法を痛烈批判。これまた満場の拍手が起こり、安倍の表情は引きつっていた。

その後の安倍の挨拶では、安保法制には一言も言及できなかった。(
樋口徹さんFBより)
 
 

安保法案「許せない」=「平和への誓い」谷口さん-長崎平和祈念式典

「平和への誓い」を読み上げる被爆者代表の谷口稜曄さん=9日午前、長崎市の平和公園

 長崎市の平和祈念式典で、被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げた谷口稜曄さん(86)。生死の境をさまよった被爆体験に加え、集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案に言及し、「許すことはできない」と訴えた。


〔写真特集〕1945年8月~被爆した広島、長崎~


 谷口さんは当時16歳で、郵便配達の途中、爆心地から1.8キロの長崎市住吉町にいた。背後で虹のような光があり、強烈な爆風で吹き飛ばされて道路にたたき付けられた。しばらくして起き上がると、左手は肩から手の先までボロ布を下げたように、皮膚が垂れ下がっていた。
 着ていた服がなくなり、背中一面に大やけどを負った。そのため、3年7カ月の入院生活のうち1年9カ月はうつぶせの状態で生死の境をさまよった。床ずれになり、今も胸がえぐられた状態で、肺活量も健康な人の半分程度しかない。
 戦後は、核兵器廃絶と被爆者援護を求める運動を引っ張った。今年4月には、核拡散防止条約(NPT)再検討会議に先立ち、米国で核兵器廃絶を訴えた。谷口さんは「世界の国々で核兵器廃絶の運動は高まっている」と指摘する。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平和祈念式典で、献水する遺族代表ら=9日午前、長崎市の平和公園
 
 

近年は体調を崩しがちで、今年7月には一時入院もした。しかし、2回目となる「平和への誓い」は、いままでの被爆者運動の「集大成」という覚悟で引き受けた。
 国会で審議されている安全保障関連法案について、「被爆者をはじめ平和を願う多くの人々が積み上げてきた核兵器廃絶の運動、思いを根底から覆そうとするもの」と批判する。「戦争のない、核兵器のない世界の実現のため、生きている限り、戦争と原爆被害の生き証人の1人として、その実相を世界中に語り続ける」と誓った。(2015/08/09-11:51)


 

 

 

2015/08/09-11:5

<関連> 「安保法案、許すことはできない」長崎原爆の日、被爆者代表が演説(全文)

 

 
 
 
 

平成27年 長崎平和宣言全文(長崎市 2015.08.09)~会場からは静かな、しかし満場の拍手

2015-08-09 16:55:12 | 福島、原発

 

「祈りの長崎」戦争法に釘を刺す。(その1)    田上市長が平和宣言の中で、安保法制に触れた時、会場からは静かな、しかし満場の拍手が湧き起こり、NHKのカメラは安倍の表情を見事に抜いた。

  「祈りの長崎」戦争法に釘を刺す。(その1)

田上市長が平和宣言の中で、安保法制に触れた時、会場からは静かな、しかし満場の拍手が湧き起こり、NHKのカメラは安倍の表情を見事に抜いた。(樋口徹さんFBより)

 

http://nagasakipeace.jp/japanese/peace/appeal.html

平成27年 長崎平和宣言

 

長 崎 平 和 宣 言

 

 昭和20年8月9日午前11時2分、一発の原子爆弾により、長崎の街は一瞬で廃墟と化しました。

 大量の放射線が人々の体をつらぬき、想像を絶する熱線と爆風が街を襲いました。24万人の市民のうち、7万4千人が亡くなり、7万5千人が傷つきました。70年は草木も生えない、といわれた廃墟の浦上の丘は今、こうして緑に囲まれています。しかし、放射線に体を蝕まれ、後障害に苦しみ続けている被爆者は、あの日のことを1日たりとも忘れることはできません。

 

 原子爆弾は戦争の中で生まれました。そして、戦争の中で使われました。

 原子爆弾の凄まじい破壊力を身をもって知った被爆者は、核兵器は存在してはならない、そして二度と戦争をしてはならないと深く、強く、心に刻みました。日本国憲法における平和の理念は、こうした辛く厳しい経験と戦争の反省のなかから生まれ、戦後、我が国は平和国家としての道を歩んできました。長崎にとっても、日本にとっても、戦争をしないという平和の理念は永久に変えてはならない原点です。

 今、戦後に生まれた世代が国民の多くを占めるようになり、戦争の記憶が私たちの社会から急速に失われつつあります。長崎や広島の被爆体験だけでなく、東京をはじめ多くの街を破壊した空襲、沖縄戦、そしてアジアの多くの人々を苦しめた悲惨な戦争の記憶を忘れてはなりません。

 70年を経た今、私たちに必要なことは、その記憶を語り継いでいくことです。

 原爆や戦争を体験した日本そして世界の皆さん、記憶を風化させないためにも、その経験を語ってください。

 若い世代の皆さん、過去の話だと切り捨てずに、未来のあなたの身に起こるかもしれない話だからこそ伝えようとする、平和への思いをしっかりと受け止めてください。「私だったらどうするだろう」と想像してみてください。そして、「平和のために、私にできることは何だろう」と考えてみてください。若い世代の皆さんは、国境を越えて新しい関係を築いていく力を持っています。

 世界の皆さん、戦争と核兵器のない世界を実現するための最も大きな力は私たち一人ひとりの中にあります。戦争の話に耳を傾け、核兵器廃絶の署名に賛同し、原爆展に足を運ぶといった一人ひとりの活動も、集まれば大きな力になります。長崎では、被爆二世、三世をはじめ、次の世代が思いを受け継ぎ、動き始めています。

 私たち一人ひとりの力こそが、戦争と核兵器のない世界を実現する最大の力です。市民社会の力は、政府を動かし、世界を動かす力なのです。

 

 今年5月、核不拡散条約(NPT)再検討会議は、最終文書を採択できないまま閉幕しました。しかし、最終文書案には、核兵器を禁止しようとする国々の努力により、核軍縮について一歩踏み込んだ内容も盛り込むことができました。

 NPT加盟国の首脳に訴えます。

 今回の再検討会議を決して無駄にしないでください。国連総会などあらゆる機会に、核兵器禁止条約など法的枠組みを議論する努力を続けてください。

 また、会議では被爆地訪問の重要性が、多くの国々に共有されました。

 改めて、長崎から呼びかけます。

 オバマ大統領、そして核保有国をはじめ各国首脳の皆さん、世界中の皆さん、70年前、原子雲の下で何があったのか、長崎や広島を訪れて確かめてください。被爆者が、単なる被害者としてではなく、“人類の一員”として、今も懸命に伝えようとしていることを感じとってください。

 日本政府に訴えます。

 国の安全保障を核抑止力に頼らない方法を検討してください。アメリカ、日本、韓国、中国など多くの国の研究者が提案しているように、北東アジア非核兵器地帯の設立によって、それは可能です。未来を見据え、“核の傘”から“非核の傘”への転換について、ぜひ検討してください。

 

 この夏、長崎では世界の122の国や地域の子どもたちが、平和について考え、話し合う、「世界こども平和会議」を開きました。

 11月には、長崎で初めての「パグウォッシュ会議世界大会」が開かれます。核兵器の恐ろしさを知ったアインシュタインの訴えから始まったこの会議には、世界の科学者が集まり、核兵器の問題を語り合い、平和のメッセージを長崎から世界に発信します。

 「ピース・フロム・ナガサキ」。平和は長崎から。私たちはこの言葉を大切に守りながら、平和の種を蒔き続けます。

また、東日本大震災から4年が過ぎても、原発事故の影響で苦しんでいる福島の皆さんを、長崎はこれからも応援し続けます。

 

 現在、国会では、国の安全保障のあり方を決める法案の審議が行われています。70年前に心に刻んだ誓いが、日本国憲法の平和の理念が、いま揺らいでいるのではないかという不安と懸念が広がっています。政府と国会には、この不安と懸念の声に耳を傾け、英知を結集し、慎重で真摯な審議を行うことを求めます。

 被爆者の平均年齢は今年80歳を超えました。日本政府には、国の責任において、被爆者の実態に即した援護の充実と被爆体験者が生きているうちの被爆地域拡大を強く要望します。

 原子爆弾により亡くなられた方々に追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は広島とともに、核兵器のない世界と平和の実現に向けて、全力を尽くし続けることを、ここに宣言します。

                

2015年(平成27年)8月9日

長崎市長  田上 富久

 

長崎平和宣言に賛同される方は、「賛同」ボタンをクリックしてください。
(長崎平和宣言の賛同者数を調査しております)

 


長崎の被爆者永井隆氏の遺言より 「たとえ最後の二人となっても、戦争絶対反対を叫び通しておくれ。」

2015-08-09 16:53:57 | ご案内

戦争はもうこりごりだ。

・・そう叫んでおきながら、何年かたつうちに、いつしか心が変わり、何となくもやもやと
戦争がしたくなってくるのである。

もしも日本が再武装するような時代になったら、その時こそ、誠一よ、かやのよ。
たとえ最後の二人となっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱりと戦争絶対反対を叫び続け、
叫び通しておくれ。

 

始まりに向かって http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/27a5d895c4fb420f33f14ffeca5b6b4c

いとし子よ、愛で身を固めなさい・・長崎の被爆者永井隆さんの遺言

2008-10-12 | 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 長崎で、原爆に被爆なさり、夫人を亡くされ、ご自分も被爆により43才で世を去られた長崎医大の医師、
永井隆さんが、二児に残された遺言です。
63年の時をこえて、肉声が伝わってくるように思います。


     ***

いとし子よ。

あの日イチビの実を皿に盛って、母の姿を待ちわびていた誠一(まこと)よ、かやのよ、

お母さんはロザリオの鎖ひとつをこの世にとどめて、ついにこの世から姿を消してしまった。

そなたたちの寄りすがりたい母を奪い去ったものはなんであるか。

原子爆弾。いいえ、それは原子の塊である。
そなたたちの母を殺すために原子が浦上にやってきたわけではない。
そなたたちの母を、あの優しかった母を殺したのは、戦争である。

戦争が長引くうちには、はじめ戦争をやりだしたときの名分なんかどこかに消えてしまい、
戦争がすんだころには、勝った方も、負けた方も、何の目的でこんな大騒ぎをしたのか、わからぬことさえある。

そして生き残った人々はむごたらしい戦場の跡を眺め、口を揃えて「戦争はもうこりごりだ。
これきり戦争を永久にやめることにしよう」

・・そう叫んでおきながら、何年かたつうちに、いつしか心が変わり、何となくもやもやと
戦争がしたくなってくるのである。

私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。

我が子よ。憲法で決めるだけならどんなことでも決められる。

憲法はその条文通りに実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。

どんなに難しくても、これは良い憲法だから、実行せねばならぬ。
自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。
これこそ戦争の惨禍に目覚めた本当の日本人の声なのだよ。

しかし理屈はなんとでも付き、世論はどちらへもなびくものである。

日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から、「憲法を改めて戦争放棄の条項を削れ」と叫ぶ声が出ないとも限らない。
そしてその叫びにいかにももっともらしい理屈をつけて、世論を日本の再武装に引き付けるかもしれない。

もしも日本が再武装するような時代になったら、その時こそ、誠一よ、かやのよ。
たとえ最後の二人となっても、どんなののしりや暴力を受けても、きっぱりと戦争絶対反対を叫び続け、
叫び通しておくれ。

敵が攻めだした時、武器が無かったら、みすみす皆殺しされてしまうではないか、と言う人が多いだろう。

しかし、武器を持っているほうが果たして生き残るだろうか。
武器を持たぬ無抵抗の者の方が生き残るだろうか。

オオカミは鋭い牙を持っている。
それだから人間に滅ぼされてしまった。

ところが鳩は何一つ武器を持っていない。
そして今に至るまで人間に愛されて、たくさん残って空を飛んでいる。

愛で身を固め、愛で国を固め、愛で人類が手を握ってこそ、
平和で美しい世界が生まれてくるのだよ。
    
   
      ***


永井隆記念館HP
http://park10.wakwak.com/~cdc/nagasaki/nyokodou/