戦後70年の節目に自らの戦争体験を語った田原総一朗さん
終戦から15日で70年となった。当時11歳で、滋賀県彦根市の国民学校(小学校)5年生だったジャーナリストの田原総一朗さん(81)は、自宅のラジオで昭和天皇が終戦を伝えた玉音放送を聴いた。苛烈な戦争体験を振り返り「ジャーナリストとしての遺言は『戦争だけは二度とやってはならない』と伝えること」と語る。(取材・構成 北野 新太)
1945年8月15日は、よく晴れた一日だった。
朝、市役所から「正午に天皇陛下直々の御言葉がある」と告げられた。我が家の居間でラジオを囲み、両親や近所の人と5、6人で玉音放送を聴いた。ノイズばかりで、なかなか天皇陛下の声を聴き取れなかったが「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シ」と聞こえた部分は「ああ、広島と長崎に投下されたと言われている爆弾のことを指しているんだ」と分かった。そして「堪ヘ難キヲ堪ヘ、忍ヒ難キヲ忍ヒ」の言葉も聴き取れた。すると大人たちは議論を始めた。「戦争は終わったのだ」「いや、戦争が続くからこそ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍ぶのだ」と。
放送がある前は皆、本土決戦が始まると思っていた。米軍が千葉の九十九里から上陸し、10月には彦根にも達する。ならば女たちは山に逃げ、男たちは爆弾を持って戦車に飛び込もう、いわば自爆テロをするのだと話し合っていた。ところが、玉音放送から1時間もしないうちに再び市役所の職員がメガホンで街中に告げて回り始めた。「戦争は終わりました」と。
私は離れの2階に上がって泣いた。泣いて泣いて泣き続けて、寝てしまった。これぞ「泣き寝入り」だ。突然、前途が真っ暗になり、絶望した。海軍兵学校に行きたいと思っていたのに。私たちの将来は陸軍に入るか海軍に入るかしかなかった。私は体が弱かったから行軍で長い距離を歩く陸軍ではなく、甲板の上で過ごす海軍に行きたかった。たまに彦根に帰ってくる海軍兵のいとこの軍服がカッコよかったことも大きな理由だった。
泣いたまま寝て、夜7時くらいに目が覚めた。2階の窓から外を眺めると、街が明るくなっていた。前日まで空襲に備えて灯火管制を敷き、真っ暗だった街にそれぞれの家の光が漏れていた。わずかな電気を黒い布や紙で覆う必要がなくなって開放感を感じ「ああ、本当に戦争は終わったんだ」と思ったが「良かった」なんていう思いではない。これから占領軍が来る。何をするか分からない。不安ばかりを抱え、再び眠りに就いた。
太平洋戦争が開戦した1941年以降、父と一緒にラジオで大本営発表を聴くのが幼い私の日課になった。最初は真珠湾攻撃で「大戦果を挙げた!」という発表だった。
1、2年生の時の先生は地図が好きな人で、日本軍が進軍していくアジアの国々を日に日に赤く塗っていく。大日本帝国はすごいのだ、躍進するんだと。クラスメートの誰もが信じた。新聞も何もかも同じように報じた。戦況が暗転したなんていう情報があるわけない。(日本が大敗し、戦況悪化の契機となる1942年の)ミッドウェー海戦すらも「日本大勝」と伝えられた。
しかし43年にもなれば新聞やラジオが報じなくとも戦災の現状は分かるようになった。物がどんどんなくなって、街に行っても何も売ってない。コメは配給になり、大根やカボチャを混ぜたおかゆが主食になった。
44年になると父親が母親の着物を農家に売りに行くようになった。親父はひもをつくる工場を経営して7、8人の工員を雇っていたが、燃料が軍事工場以外に回されなくなり、やめざるを得なくなった。畑でジャガイモなどの野菜をつくるようになり、自給自足でなんとか食べつないだ。履き物がなくなれば、農家でワラ草履の作り方を教えてもらい、自分で作った草履で学校に行った。
やがて、近所の人に召集令状が届くようになった。みんなで勇ましい軍歌を歌って見送ったが、奥さんは泣いていた。子供心に「なんて気の毒なんだろう」と思ったものだ。そして…、1年もたてば出征していった兵隊さんが遺骨で…いや、遺髪になって帰ってきた。多くの場合、骨はなかった。
それでも私に恐怖などなかった。当然、名誉の戦死を遂げるものだと思っていたからだ。4年生になると学校で「軍事教練」が行われ「早く大きくなって天皇陛下のために戦死しろ」と教えられた。道はひとつだった。
玉音放送を聴いた夏休みが終わり、学校に行くと、価値観が180度変わった。
戦争を「アジア諸国を米軍の植民地支配から解放する聖戦なのだ」と言っていた教師も校長も「やってはいけない侵略戦争だった」と深刻な顔をして言うようになった。「英雄」と称していた東条英機を「戦争責任者」だと。教科書を墨で塗りつぶし、講堂にあった天皇陛下の御真影は「米軍が来る前に」と焼いた。大人たちがもっともらしい口調で言う事なんて信用ならないんだと思ったことは、あるいは私のジャーナリストとしての原点なのかもしれない。
6年生になると昭和天皇が全国行脚で彦根にも来た。わが家の前の通りをオープンカーに乗って通過する陛下を2メートルほどの距離から見たが、疲れ切った顔をしているように見えた。「ああ、天皇陛下も大変なんだなあ」と思ったことを覚えている。
戦後70年の節目に玉音放送の原盤が公開されたのは誰の判断によるものか知らないが、あの戦争は間違いだったことを再確認しようという意味があったのではないだろうか。
戦争を知っている最後の世代のジャーナリストとして「戦争に正しい戦争も間違った戦争もないのだ。戦争だけは二度とやってはならないことなのだ」ということを遺言として死ぬまで伝え続ける使命感を感じている。
私の理想の死は「朝まで生テレビ!」の放送中に「あれ? 田原が急に静かになったな」となり、気が付くと死んでいた、という死だ。81歳で徹夜の議論に参加することはとても健康的な行為とは言えない。だが、もうやめた方がいいという考えは間違っている。私は、おそらく「朝生」をやめた時に死ぬのだ。
◆田原 総一朗(たはら・そういちろう)1934年4月15日、滋賀県彦根市生まれ。81歳。早大文学部卒。岩波映画製作所、東京12チャンネル(現・テレビ東京)を経て77年からフリーに。主な出演番組にテレ朝系「朝まで生テレビ!」(1987年~)、同「サンデープロジェクト」(89~2010年)、BS朝日「激論!クロスファイア」(10年~)。近著に「おじいちゃんが孫に語る戦争」「安倍政権への遺言 首相、これだけは言いたい」「人の心を掴(つか)む極意」。