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「敗戦70年を迎えて」濱田 邦夫 – 弁護士
静岡第一師範学校付属国民学校3年生(満9歳)であった筆者は、同年6月⒚日の空襲で焼け残った東鷹匠町の我が家に、ひとりで留守番をしていた。終戦の詔勅のラジオ放送は聞き取れたが、内容は良く分からなかった。しかし、「堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ」などの部分から、「大東亜戦争」に日本は負けたらしい、とは分かった。
この大戦で、筆者の家族や親族から死傷者は出なかったが、静岡の空襲直後に、自宅近くの路上に上半身のない焼死体を見た記憶がある。戦中・戦後の食糧難や、広島・長崎に落とされた「新型爆弾」など、戦争はもうたくさんと思った筆者の原点がある。
中心部が焼け野原となった静岡市に、間もなく「進駐軍」のアメリカ兵が姿を現した。濃い草色の軍服の右肩に馬の首のマーク(第7騎兵隊か?)をつけ、馬の代わりにジープを乗り回していた。それまで伝えられていた「鬼畜」のイメージとは、やや異なっていた。
空襲警報のサイレンがなくなり、夜の灯火管制もなくなったことにはほっとしたが、大人たちの言動が敗戦の前後で一変したことに、子供ながら違和感を覚えた。そのわだかまりもあり、自分では米兵に対し「ギブミーチョコレート」とは絶対に言わなかった。(そのためか、米兵から直接物をもらったことはほとんどない。)
学校の教科書には部分的に墨を塗らされ、またかなり厚手の副読本の「民主主義」が配られた。戦後の「民主教育」の始まりである。筆者の世代は、戦前の教育と戦後の教育の両方を体験し、今日まで70年の間、新憲法の下で自由な民主主義社会と経済発展、そしてその変容を謳歌ないし詠嘆したと云えよう。
最近の我が国の政治状況は、この憲法と民主主義の視点からみると、由々しき段階に直面している。戦後民主主義教育の申し子であり、かつ半分引退したとはいえ法律専門家である筆者は、勇気をもって自分の考えを世に問う必要がある。今できるだけ多くの人々が発言をしないと、愚かな戦争に至った戦前(これが70年前の戦争のことなのは、世界的に見て稀有なことである。)の道筋を、日本が再び辿ることになる。
今我が国の政治および社会に必要なことは、幻想(一方的に作り出された、現実から遊離した自己満足)に振り回されずに、自分自身、家族関係、近隣・地域社会、日本全体、東アジア、世界全体の現実を冷静に把握・分析することである。政治の目的は、国民の生命・財産を守り、その福祉を増進し、近隣諸国および世界各国との良好かつ建設的な関係を確立することである。そのためには、政治家に(また主権者の筈の国民にも)知性、品性および理性が必要である。
近隣諸国との関係においては、過去に実際に起こったことおよび日本人が国として、また個人として行ったことをしっかりと受け止め、清算する必要がある。各国の国内事情からくる国際法的には必ずしも適正ではない要求に対処するためには、ただこれに反発して、「反省はするがお詫びはしない」といった傲慢な態度をとるべきではない。できるだけ客観的な歴史認識を共有するための真摯な努力を、相互にしなければならない。現世利益である経済の観点から見ても、その方が関係各国(また各国民)にとり、よほど益しである。
我が国の世界への貢献は、その文化、経済力および技術力によって行うべきであり、軍事力によってではない。自衛に限定された軍事力を超えてこれを保持しようとする試みは、単に軍事力増強の悪循環を地域的にまた世界規模で招くことにしかならない。これは過去70年で積み上げられた、特定の使命感に囚われない経済・技術・文化の利用による相手国または地域の自力での発展を援助する、平和国家としての我が国のイメージを著しく損なう暴挙である。
世界各地で起こっているいろいろな紛争に対処するためには、経済援助や技術供与といった対応の他に、日本文化の伝統である「曖昧さ」ないし「白黒の決着に固執しない態度」で利害を調整する技法も利用できるはずである。もっとも、短期的な現実利益を実現するために、中期的・長期的な「正義」や「公平」の理念を忘れてはならないのは、云うまでもない。
国内的には、一部の政治家とその仲間による度を過ぎた言論操作や自由な意見表明を押殺しようとする態度に、国民は総力を挙げて反対すべきである。そのためには、自由で批判精神を持つメディア、平等な投票権に基づく国民の政治参加、司法の役割の発揮およびその尊重が不可欠である。また、国民の一人一人が、自由に生き生きと「今」を生きられる社会を、不断の努力により築き上げ維持してゆく気概を持ち、そのために力を尽くすべきである。
弁護士 濱田 邦夫
(2015年8月9日記)