長崎駅から徒歩5分、日本二十六聖人記念碑のある西坂公園からさらに歩いて1分ほどの所にある岡まさはる記念平和資料館
岡まさはる記念平和資料館
長崎駅から徒歩5分、日本二十六聖人記念碑のある西坂公園からさらに歩いて1分ほどの所に、中華料理店のビルを改装したという小さな資料館、岡まさはる記念平和資料館がある。
日本福音ルーテル長崎教会の牧師として、朝鮮人被爆者や、強制労働で過酷な生涯を送った朝鮮人の実態調査や援護活動に人生をささげた岡正治(1919~94)の遺志を受け継ぎ、1995年に建てられた。この資料館を特徴付けるのは、太平洋戦争における日本の「被害の歴史」ではなく、「加害の歴史」に焦点を当てていることだ。現在、日本全国・海外から年間6000人が訪れる。資料館を訪問した8月8日は、平和教育で訪れる学生や海外からの若者が、館内に溢れんばかりにいて、食い入るように展示資料を見つめていた。
館内には、被爆した朝鮮人の証言や、端島(軍艦島)など長崎県内の炭鉱や工場で過酷な労働にさらされた人々の写真や証言、さらに、従軍慰安婦や南京大虐殺など、テーマごとに分けて資料が展示されている。
資料館を訪れた8月8日は、長崎原爆の日の前日ということもあり、平和学習で訪れた学生や外国人らで館内はいっぱいだった。
朝鮮人被爆者の援護
同館の展示によると、1945年8月、当時長崎県には7万人以上の朝鮮人が住み、約2万人が被爆し、約1万人が死亡、韓国や帰国事業で北朝鮮に帰国した「在外被爆者」と呼ばれる人々は現在も約4300人いるという。しかし、これまで国は、在外被爆者が海外で受けた治療費は適正かどうか担保できないという理由で、彼らを被爆者援護法の対象から除外してきた。
広島で被爆し韓国に帰国した被爆者や遺族が提訴し、ようやく昨年6月、大阪高裁が「国の責任で被爆者の救済を図る国家補償の性格があり、国外での医療を支給対象から除外することは合理的ではない」と認定した。現在、最高裁で上告審が行われており、9月8日に判決が出される予定だ。
長崎における朝鮮人強制連行
「長崎における朝鮮人強制連行」の展示では、実際に働かされていた人々の証言が写真入りで集められている。展示によると、長崎県内で朝鮮人連行が確認できる現場は70カ所に上り、中でも最も過酷だったのが炭鉱での労働で、「一に高島(端島の隣にある炭鉱の島)、二に端島、三に崎戸の鬼ヶ島」という言葉も残っているという。高島では約3500人、崎戸島では約4000人の朝鮮人が働かされていたという。
そして、今年7月に「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つとして、ユネスコの世界文化遺産に登録され話題となった、通称「軍艦島」の名で知られる端島では、約500人の朝鮮人が働かされ、終戦までの20年間で、朝鮮人122人、中国人15人が死亡し、「監獄の島」とも呼ばれていたという歴史が紹介されている。
長崎における朝鮮人強制連行の展示の一角
調査で集められた労働者の証言
同館の実態調査で集められた、端島で働いていた男性の写真入の証言も展示されている。
「14歳の時です。面(村)役場から徴用の赤紙が来て、私は日本に連行されたのです。徴用といっても突然の強制であり、手当たり次第の強制連行と同じです」(1928年生まれの男性の証言)
「粗末な木造小屋の1部屋に4、50人が詰め込まれ、1日の主食は300グラムほどだった」(中国人・季慶雲さんの陳述録取書から)
「『金を出して買ってきたんだから働け』と叫び、刀と銃を持った警察官のいる中、後ろに手を縛られて「ヤマに入って働くか働かないか」と、こん棒や皮ベルトでたたかれ、一適の水も食料ももらえず、竹刀でたたかれ続け、右肩が砕けた」(同)
「世界遺産だなんて、日本人はあの島の歴史を誇れるのか。外国人を強制的に捕まえて働かせた場所ではないか、自慢できるはずがない。(中略)そもそも日本は強制連行の歴史を謝っていないというではないか。物事には順序や事情もあるが、礼儀や道理もある。過ちを犯したのだから、謝るのが人の道というものだ」(田永植、1921年生まれ)
これらの人々への賠償は、戦後70年たってもほとんど進んでいない。
同館ではその他、従軍慰安婦や南京大虐殺などに関する展示コーナーも設置されている。8月、広島、長崎で多くの場所を訪れ、戦争の被害と平和を訴える声を聞いた。しかし、日本の「加害責任」をこれほどまでにまっすぐに突き付ける施設は初めて訪れた。そして、そこに関してすっぽりと認識が抜けていたことに気付かされた。
岡正治牧師の生涯
朝鮮人被爆者の実地調査で聞き取りをする岡正治牧師(1918~94)(写真:『追悼岡正治 孤塁を守る戦い』より)
同館に名前を付けられている岡正治は1918年、大阪に生まれた。小学生の頃、近所にあったメソジスト教会の日曜学校に通ったのがキリスト教との出会いだった。家計を助けるため、15歳で広島の呉海兵団に入団し、海軍軍人として勤務する中、20歳で洗礼を受けた。45年8月6日、広島・江田島の海軍兵学校の教員であったとき、原爆投下による原子雲を見る。救援隊として送った部下も入市被爆、広島の惨状を聞いた岡は、天皇に戦争終結を直訴すると構内で訴え、学校を追放され、終戦を迎えた。
終戦後、33歳で日本ルーテル神学校に入学、翌年妻を亡くす。58年に日本福音ルーテル長崎教会の牧師に就任。宣教活動をしながら、65年に「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」を結成。71年には市議会議員に立候補し当選、3期12年務める中で、朝鮮人被爆者の実態調査と援護活動に取り組み、1年間長崎県内を調査し、「朝鮮人被爆者実態調査報告」で朝鮮人被爆者が約2万人、死亡者が1万人近くに上ることを発表、また長崎県内の戦中の朝鮮人・中国人労働者の実態の聞き取り調査も行った。さらに82年には、長崎市が市内の忠魂碑に補助金を出していることを、政教分離違反であるとして、「長崎忠魂碑訴訟」を起こすなど、30年以上わたって、長崎における日本の「加害責任」を問い続ける活動を行った。そして94年7月、市内の自宅で倒れ、75歳で亡くなった
岡まさはる記念平和資料館の理事長・館長である高實康稔(たかざね・やすのり)さん
「加害者」としての日本の歴史
1995年のオープンから今年、開館20年目となる岡まさはる記念平和資料館(長崎市)は、約30人のボランティアによって運営されている。岡正治牧師と共に活動し、現在は「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」代表で、同館の理事長・館長を務める高實康稔(たかざね・やすのり、元長崎大学教授)さんに話を伺った。
「日本の戦争の被害を展示する施設はたくさんありますが、日本の加害責任を問う資料館は珍しいと思います。長崎から原爆の悲惨さと核廃絶を訴えるのは重要だが、被害者意識からだけでは国際社会には届かない。日本の戦争での加害責任を認識、反省することが真の平和につながる。そのために、原爆資料館とは別に、『加害者』としての日本の歴史を展示する資料館をつくるというのが岡先生の思いでした。
原爆資料館の入館者が年間30万人といわれていますが、うちはその1%ぐらいです。でも、長崎に来たからには、原爆資料館だけでなくここも訪れて、両方見て帰ってほしいといつも言っています。
昨年、米国の映画監督オリバー・ストーンがこの資料館を訪問しました。その時、『米国の原爆投下が国際法に違反する戦争犯罪であり、投下したのは終戦後の対ソ連戦略を実験する場となった』と厳しく批判すると同時に、『原爆の失敗はその不当性と同時に、日本国と日本国民が加害者から被害者となり、被害者意識に埋没させてしまったことだ』と述べました。それは鋭い指摘だと思います。
岡先生は市議会で、日本の戦争の加害責任を考えるならば、むしろ日本人被爆者よりも朝鮮人被爆者を優先して援護すべきではないか、実態調査をするべきだ、と訴えていました」
岡牧師は激しい人だったという。あまりに弁舌鋭く、自分にも他者にも厳しく、高實さんも、何度か活動から身を引くことを考えたこともあったという。しかし、日本の加害責任をいち早く指摘し、その追及のために行動してきた岡牧師亡き後、その活動を引き継いできた。
岡正治牧師の蔵書の一部も展示されている。
岡正治牧師を支えた聖書信仰とは?
追悼集『追悼岡正治 孤塁を守る戦い』には、朝鮮人、被爆者、市民活動家、政治家、研究者など100人以上が文を寄せている。その中で高實さんは、「先生、本当に無念です」という追悼文を書いている。
1982年、長崎市に対して忠魂碑訴訟を起こしたとき、岡牧師は市議会議場に乱入した右翼の少年に殴られるという事件に遭い、教会にも約2カ月間、右翼の街宣車が押し掛けたという。「岡、出てこい」と言われて出てみると、「岡、お前は長崎から出ていけ」と言う。しかし、岡牧師は「一体、私にどうしろと言うんだ」とデンと構えていたという。心配から、支援者数人が交代で教会に泊まり込むことになった。
高實さんもその一人として教会に泊まり込み、毎晩遅くまで岡牧師と語り合う中で、「先生の信念と生き方が厳格に聖書に根ざしたものであることもまた深い感銘を受けたものです」とつづっている。
議場で襲った少年についても、「厳しい処分を望むか」という検事の質問に、「とんでもない、寛大な処置を望みます」と答えた。高實さんは、これも聖書に基づく人間愛を内に秘めていた証しだった、と書いている。
朝鮮人労働者が暮らした飯場の建物も再現されている。
聖書に根ざした贖罪(しょくざい)
岡牧師の生涯を支えたものは一体何だったのか。「岡先生を支えていたものは、戦争中の自らの戦争責任への、聖書に根ざした贖罪、罪の償いの意識だったのだと思います」と高實さんは語る。
岡正治の自伝『道ひとすじに』には、広島に落とされた原爆による被害の惨状を知り、天皇に戦争終結を直訴すると訴え、当時教員であった広島・江田島の海軍兵学校を追放され、終戦を迎えた日のことをこう記している。
「非国民というレッテルと、軍法会議と銃殺を覚悟して、それを行動の上で戦ったのは、長い11年2カ月の海軍生活中、わずかに6日間にすぎなかったのかという、胸をえぐられるようなざんげの思いで、わたしはその日終日泣き続けた」
高實さんは、子どもを連れて、数年間、岡牧師の教会に行き、説教を聴き続けた。洗礼を受けることはなかったが、追悼集のあとがきにはこう記した。
「一つの枝が苦しむ時、総力でその枝を支えるべきだという先生のキリスト教信仰は、周囲の人々の苦しみに向けられたばかりではなく、いわれなき差別に苦しむ在日韓国・朝鮮人や、放置されたままの外国人被爆者の救済へと先生を駆り立てました。また、差別と抑圧の根源として天皇制の本質を見抜き、天皇制を撃つ闘いに果敢に挑まれました。そこには祈りと実践、ことばと行動の見事な一致が見られます」
8月14日、安倍晋三首相は「戦後70年談話」を発表した。そこでは、「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません」「私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」と述べた。
ならば、日本の「加害」への問いに目が向けられるべきだ。筆者を含め、あまりにそれを知らなさ過ぎる。そして、それを生涯問い続けてきたキリスト者がいたことは、収集された朝鮮・中国の声と歴史と共に、もっと多くの人に記憶される価値があるのではないだろうか。
岡正治牧師年譜
1918年 大阪で生まれる。
1933年 15歳で広島の呉海兵団に入団、海軍で艦艇勤務、中国などの作戦に従事
1938年 日本福音ルーテル門司教会で洗礼を受ける。
1943年 広島・江田島の海軍兵学校教員となる。
1945年 8月6日の広島への原爆投下を知り、天皇に戦争終結を直訴することを教員や生徒に訴えて追放され、15日終戦を迎える。
1951年 日本ルーテル神学校に33歳で入学
1952年 妻を亡くす。
1958年 日本福音ルーテル長崎教会の牧師に就任
1965年 「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」結成
1971年 長崎市議会議員選挙で当選(1983年まで、3期務める)
1974年 長崎市議会で朝鮮人被爆者の実態調査を要求
1979年 長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑建立
1981年 朝鮮人被爆者の実態調査に着手、少なくとも1万9391人が被爆、9169人が死亡したことを明らかにする。さらに敗戦当時、長崎在住の朝鮮人7万人の実態調査を行う。
1982年 本島等長崎市長を相手取り、長崎忠魂碑訴訟を提訴(1審勝訴、2審敗訴)
1994年 長崎市内の自宅で75歳で病死