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平和遺族会8・15集会「安保法制を廃案に、再び遺族つくらせない」 木村草太氏らが講演

2015-08-17 10:31:08 | 案内 情報 デモ 集会 逮捕

Christian Today, Japan

http://www.christiantoday.co.jp/articles/16815/20150815/heiwa-izoku-kai-8-15.htm

平和遺族会8・15集会「安保法制を廃案に、再び遺族つくらせない」 憲法学者の木村草太氏らが講演

2015年8月15日20時54分 記者 : 新庄れい麻

 

 

会場には多くの人が集まり、立ち見がでるほどだった=15日、日本基督教団九段教会(東京都千代田区)で

 

終戦70年を迎えた15日、「平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会」(平和遺族会)全国連絡会の8・15集会が、日本基督教団九段教会(東京都千代田区)で開かれ、約170人が参加した。テーマは「戦後70年 アジア・太平洋戦争の反省の下に憲法を活(い)かそう! 『安保法制』を廃案に! 再び遺族をつくらせないために」。集会では、参加者一同により「沈黙のとき」が持たれ、同連絡会代表の西川重則氏、憲法学者の木村草太氏(首都大学東京准教授)が、安保法制に絡めた講演を行った。

会場となった九段教会は、靖国神社の大鳥居のほど近くにある。最寄り駅の地下鉄九段下駅は、朝から正装した多くの参拝客の姿が見られ、大鳥居に続く道は、「憲法改正賛成」と署名を求める団体の声が響いていた。同連絡会は、キリスト者の戦没者遺族を中心に、首相や閣僚らの靖国神社参拝に反対し、平和を願う思いで連帯している。1986年に結成され、8・15集会を企画するのは今年で30回目になる。

平和遺族会8・15集会「安保法制を廃案に、再び遺族つくらせない」 憲法学者の木村草太氏らが講演
平和遺族会全国連絡会代表の西川重則氏は、「キリスト者としても責任を覚える」と話した。

参加者一同が黙祷をささげた「沈黙のとき」では、今年ちょうど70歳になる同連絡会の布施敏英さんが黙祷の掛け声を上げた。布施さんは、自身が誕生する前日に父親が21歳の若さで中国で戦死したという。

ビルマ(現ミャンマー)で兄が戦病死した代表の西川さんは、今年で87歳。1999年から国会傍聴を続けており、靖国神社参拝問題から安保法制までを、日本の政治が抱える一貫した問題として考え、警鐘を鳴らし続けている。

「『安保法制』から靖国神社問題へ」と題して基調報告を行った西川氏は、「これらの問題に対して意味ある反対運動を行っていくためには、日本国憲法に習熟するべきであり、戦後だけではなく、戦前、戦中の総括をしっかりとする必要がある」と話した。憲法については特に、平和主義を規定する9条、信教の自由をうたう20条を守るために、全ての公務員に対して憲法擁護の義務を課している99条を具体的に実践していくことを強く求めたい、とした。

平和遺族会8・15集会「安保法制を廃案に、再び遺族つくらせない」 憲法学者の木村草太氏らが講演
安保法制に関して「違憲だから反対という人だけでなく、違憲だからこそ改正しようという動きをしている人もいる」と、さまざまな視点を提示した木村草太氏(首都大学東京准教授)

14日に安倍晋三首相が発表した「戦後70年談話」について、「おそまつなものだった」と触れ、「そんなものを考えている時間があるならば、早く悪法(安保法制)を自ら廃案にするべき」と発言し、参加者からは賛同の拍手が起こった。また、「『安倍退陣せよ』との声が聞かれるが、安倍首相だけが悪いのではない。1955年に『現行憲法の自主的改正』を主張する自民党が結成されて以降、日本の政党は私たちの願わない方向へと進み続けてきた」とも話した。

平和遺族会8・15集会「安保法制を廃案に、再び遺族つくらせない」 憲法学者の木村草太氏らが講演
会場となった日本基督教団九段教会の近くには靖国神社があり、会場を一歩外に出ると、多くの参拝客、「憲法改正賛成」の署名を求める団体で道は埋め尽くされていた。

木村氏は、「安保法制と憲法」と題して、憲法学者の立場から安保法制が抱える課題を解説した。7月の安保法制公聴会でも発言をしている木村氏は、あらためて「憲法改正の手順を踏めば、集団的自衛権の行使を認めることも可能。しかし、憲法改正は、国民の機運の高まりによってなされるべきものであり、いずれにしても安保法制には反対」と意見を述べた。

参加者からは、「このままではこの法案は可決されるだろうが、その後にできることはあるのか」と質問が出た。木村氏は、政府が集団的自衛権の行使において想定している「存立危機事態」の明確な解釈指針が示されていないため、現段階では意味をなす条項になっていないと指摘。その上で、「可決後も、解釈定義の議論は引き続き行われるので、従来の『存立危機事態=武力攻撃事態』の定義に戻す取り組みに力を入れるべきだ」と話した。

 

 


《いざとなっても戦わない 山田洋次監督に聞く》 

2015-08-17 09:46:53 | 平和 戦争 自衛隊

《いざとなっても戦わない 山田洋次監督に聞く》 
*2015/8/16(日)中日新聞朝刊 1面 & 32面...



◆「男はつらいよ」などの映画製作を通じて戦後日本を見つめ続ける山田洋次監督(83)が十五日、名古屋市内で本紙のインタビューに答え=写真(加藤晃撮影)、政府・与党が成立に強い意欲を見せる安全保障関連法案に「いざとなっても戦わないのが、この国のあり方だ」と反対した。 
 山田監督は幼少期を旧満州(中国東北部)で過ごし、十三歳で終戦。中国では日本人が中国人を差別する姿を何度も見た。十四日に安倍晋三首相が発表した戦後七十年談話については、自らの経験を踏まえて「日本人が中国や韓国の人たちにどれだけひどいことをしてきたのかという思いが込められていない。なぜもっと素直に謝罪できないのかな」と感想を述べた。
 安保関連法案の成立を推し進めようとしている政府・与党の姿勢には「なぜ米国の戦争をお手伝いするための法律を一生懸命作らなきゃならないのか」と疑問を呈し、「法案は『何かあったら戦う』となっているが、『いざとなっても戦わない』というのがこの国のあり方」と話した。
 山田監督は多くの憲法学者が法案に反対していることを前提に、代表作の主人公になぞらえて「寅(とら)さんは面倒な問題を考えるために学者や賢い人がいて、そういう人たちの考えに耳を傾けなきゃいけないことをよく知っている」と発言。国会での慎重な議論を求めた。

《寅さんなら耳傾ける
山田洋次監督、安保法案に警鐘》 

◆「日本は世界一の憲法を持っている。それが最高の平和主義」。終戦の日に平和への思いを語った山田洋次監督は、代表作「男はつらいよ」の「寅(とら)さん」を引き合いに、安保関連法案の早期成立を目指す政治に疑問を投げ掛けた。 (聞き手・細井卓也、戸川祐馬)
 
僕は幼少期を旧満州(中国東北部)で過ごし、終戦は十三歳の時、大連で迎えた。校庭で終戦を知ったときはホッとしましたが、その後に込み上げてきた恐怖心を覚えています。中国人に仕返しをされるんじゃないか、という恐怖です。
 日本人は戦時中、中国で理由のない差別をしていました。小学二年か三年の頃だったと思うんですが、おじと映画を見た帰り、馬車に乗ったんです。支払いをするときに、中国人の車夫が「お金が足らない」と文句を言った。そこでおじは、やにわに車夫のほっぺをひっぱたいたんです。子どもだった私には、おじがしたことがとても良くないことのように思えました。
 十四日に戦後七十年の首相談話が発表されましたが、中国や韓国の人たちにどれだけひどいことをしてきたのか、思いが込められていません。なぜもっと率直に謝罪できないのでしょう。ドイツのメルケル首相はアウシュビッツの解放記念日(一月二十七日)に「これはドイツの恥の歴史だ」と明言しています。
 一方で、日本は世界一の憲法を持っています。軍備を持たないと言っているんだから、それが最高の平和主義。でも、国会で審議されている安保関連法案は「何かあったら戦う」という内容になっている。「いざとなったら戦う」ではなくて、「いざとなっても戦わない」というのが、この国のあり方だったはずです。
 新しい憲法ができた時、僕らの世代は中学生でした。軍隊を持たない国になるという感動は忘れられません。それなのに、なぜ九条の理念を変えようとするのでしょう。なぜ米国の戦争を手伝うための法律を作らなきゃならないのでしょう。「戸締まりしなきゃ泥棒が入る」という野蛮なロジックで切り返す政治は、決して良くないはずです。
 原発の再稼働も同じ。こんなに暑い日が続いて目いっぱいクーラーを使っているのに、電力は足りている。なのに、危険な原発を再稼働する理由について、僕らは国から何の答えももらっていません。
 「男はつらいよ」の主人公の寅さんは、常識が欠けていて教養がないことを自分でよく分かっている。その裏返しとして、面倒な問題や難しい問題を考えるためにいる学者や賢い人の考えに耳を傾けなきゃいけないことも、よく知っているんです。無知を知る、っていうかね。
 安保法制も原発再稼働も、疑問を持つ人がたくさんいるんだから、その声に耳を傾けるのが政治ではないか。僕はそう思います。

 <やまだ・ようじ> 1931年9月、大阪府豊中市生まれ。南満州鉄道(満鉄)のエンジニアだった父の勤務のため2歳で旧満州に渡り、47年に家族で引き揚げた。54年に東大法学部を卒業し、松竹に入社。代表作に「男はつらいよ」シリーズや「幸福の黄色いハンカチ」など。96年に紫綬褒章、2012年に文化勲章を受章。

 

 


朝鮮人被爆者、世界遺産「軍艦島」での強制労働者 「戦争加害」を長崎から問い続けた岡正治牧師

2015-08-17 02:44:55 | 平和 戦争 自衛隊

Christian Today, Japan

http://www.christiantoday.co.jp/articles/16798/20150816/oka-masaharu-1.htm

朝鮮人被爆者、世界遺産「軍艦島」での強制労働者 日本の「戦争加害」を長崎から問い続けた岡正治牧師

2015年8月16日01時01分 記者 : 土門稔
朝鮮人被爆者、世界遺産「軍艦島」での強制労働者 日本の「戦争加害」を長崎から問い続けた岡正治牧師(1)
長崎駅から徒歩5分、日本二十六聖人記念碑のある西坂公園からさらに歩いて1分ほどの所にある岡まさはる記念平和資料館
 

岡まさはる記念平和資料館

長崎駅から徒歩5分、日本二十六聖人記念碑のある西坂公園からさらに歩いて1分ほどの所に、中華料理店のビルを改装したという小さな資料館、岡まさはる記念平和資料館がある。

日本福音ルーテル長崎教会の牧師として、朝鮮人被爆者や、強制労働で過酷な生涯を送った朝鮮人の実態調査や援護活動に人生をささげた岡正治(1919~94)の遺志を受け継ぎ、1995年に建てられた。この資料館を特徴付けるのは、太平洋戦争における日本の「被害の歴史」ではなく、「加害の歴史」に焦点を当てていることだ。現在、日本全国・海外から年間6000人が訪れる。資料館を訪問した8月8日は、平和教育で訪れる学生や海外からの若者が、館内に溢れんばかりにいて、食い入るように展示資料を見つめていた。

館内には、被爆した朝鮮人の証言や、端島(軍艦島)など長崎県内の炭鉱や工場で過酷な労働にさらされた人々の写真や証言、さらに、従軍慰安婦や南京大虐殺など、テーマごとに分けて資料が展示されている。

朝鮮人被爆者、世界遺産「軍艦島」での強制労働者 日本の「戦争加害」を長崎から問い続けた岡正治牧師(1)
資料館を訪れた8月8日は、長崎原爆の日の前日ということもあり、平和学習で訪れた学生や外国人らで館内はいっぱいだった。

朝鮮人被爆者の援護

同館の展示によると、1945年8月、当時長崎県には7万人以上の朝鮮人が住み、約2万人が被爆し、約1万人が死亡、韓国や帰国事業で北朝鮮に帰国した「在外被爆者」と呼ばれる人々は現在も約4300人いるという。しかし、これまで国は、在外被爆者が海外で受けた治療費は適正かどうか担保できないという理由で、彼らを被爆者援護法の対象から除外してきた。

広島で被爆し韓国に帰国した被爆者や遺族が提訴し、ようやく昨年6月、大阪高裁が「国の責任で被爆者の救済を図る国家補償の性格があり、国外での医療を支給対象から除外することは合理的ではない」と認定した。現在、最高裁で上告審が行われており、9月8日に判決が出される予定だ。

長崎における朝鮮人強制連行

「長崎における朝鮮人強制連行」の展示では、実際に働かされていた人々の証言が写真入りで集められている。展示によると、長崎県内で朝鮮人連行が確認できる現場は70カ所に上り、中でも最も過酷だったのが炭鉱での労働で、「一に高島(端島の隣にある炭鉱の島)、二に端島、三に崎戸の鬼ヶ島」という言葉も残っているという。高島では約3500人、崎戸島では約4000人の朝鮮人が働かされていたという。

そして、今年7月に「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つとして、ユネスコの世界文化遺産に登録され話題となった、通称「軍艦島」の名で知られる端島では、約500人の朝鮮人が働かされ、終戦までの20年間で、朝鮮人122人、中国人15人が死亡し、「監獄の島」とも呼ばれていたという歴史が紹介されている。

朝鮮人被爆者、世界遺産「軍艦島」での強制労働者 日本の「戦争加害」を長崎から問い続けた岡正治牧師(1)
長崎における朝鮮人強制連行の展示の一角

調査で集められた労働者の証言

同館の実態調査で集められた、端島で働いていた男性の写真入の証言も展示されている。

「14歳の時です。面(村)役場から徴用の赤紙が来て、私は日本に連行されたのです。徴用といっても突然の強制であり、手当たり次第の強制連行と同じです」(1928年生まれの男性の証言)

「粗末な木造小屋の1部屋に4、50人が詰め込まれ、1日の主食は300グラムほどだった」(中国人・季慶雲さんの陳述録取書から)

「『金を出して買ってきたんだから働け』と叫び、刀と銃を持った警察官のいる中、後ろに手を縛られて「ヤマに入って働くか働かないか」と、こん棒や皮ベルトでたたかれ、一適の水も食料ももらえず、竹刀でたたかれ続け、右肩が砕けた」(同)

「世界遺産だなんて、日本人はあの島の歴史を誇れるのか。外国人を強制的に捕まえて働かせた場所ではないか、自慢できるはずがない。(中略)そもそも日本は強制連行の歴史を謝っていないというではないか。物事には順序や事情もあるが、礼儀や道理もある。過ちを犯したのだから、謝るのが人の道というものだ」(田永植、1921年生まれ)

これらの人々への賠償は、戦後70年たってもほとんど進んでいない。

同館ではその他、従軍慰安婦や南京大虐殺などに関する展示コーナーも設置されている。8月、広島、長崎で多くの場所を訪れ、戦争の被害と平和を訴える声を聞いた。しかし、日本の「加害責任」をこれほどまでにまっすぐに突き付ける施設は初めて訪れた。そして、そこに関してすっぽりと認識が抜けていたことに気付かされた。

岡正治牧師の生涯

朝鮮人被爆者、世界遺産「軍艦島」での強制労働者 日本の「戦争加害」を長崎から問い続けた岡正治牧師(1)
朝鮮人被爆者の実地調査で聞き取りをする岡正治牧師(1918~94)(写真:『追悼岡正治 孤塁を守る戦い』より)

同館に名前を付けられている岡正治は1918年、大阪に生まれた。小学生の頃、近所にあったメソジスト教会の日曜学校に通ったのがキリスト教との出会いだった。家計を助けるため、15歳で広島の呉海兵団に入団し、海軍軍人として勤務する中、20歳で洗礼を受けた。45年8月6日、広島・江田島の海軍兵学校の教員であったとき、原爆投下による原子雲を見る。救援隊として送った部下も入市被爆、広島の惨状を聞いた岡は、天皇に戦争終結を直訴すると構内で訴え、学校を追放され、終戦を迎えた。

終戦後、33歳で日本ルーテル神学校に入学、翌年妻を亡くす。58年に日本福音ルーテル長崎教会の牧師に就任。宣教活動をしながら、65年に「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」を結成。71年には市議会議員に立候補し当選、3期12年務める中で、朝鮮人被爆者の実態調査と援護活動に取り組み、1年間長崎県内を調査し、「朝鮮人被爆者実態調査報告」で朝鮮人被爆者が約2万人、死亡者が1万人近くに上ることを発表、また長崎県内の戦中の朝鮮人・中国人労働者の実態の聞き取り調査も行った。さらに82年には、長崎市が市内の忠魂碑に補助金を出していることを、政教分離違反であるとして、「長崎忠魂碑訴訟」を起こすなど、30年以上わたって、長崎における日本の「加害責任」を問い続ける活動を行った。そして94年7月、市内の自宅で倒れ、75歳で亡くなった

朝鮮人被爆者、世界遺産「軍艦島」での強制労働者 日本の「戦争加害」を長崎から問い続けた岡正治牧師(2)

岡まさはる記念平和資料館の理事長・館長である高實康稔(たかざね・やすのり)さん
 

「加害者」としての日本の歴史

1995年のオープンから今年、開館20年目となる岡まさはる記念平和資料館(長崎市)は、約30人のボランティアによって運営されている。岡正治牧師と共に活動し、現在は「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」代表で、同館の理事長・館長を務める高實康稔(たかざね・やすのり、元長崎大学教授)さんに話を伺った。

「日本の戦争の被害を展示する施設はたくさんありますが、日本の加害責任を問う資料館は珍しいと思います。長崎から原爆の悲惨さと核廃絶を訴えるのは重要だが、被害者意識からだけでは国際社会には届かない。日本の戦争での加害責任を認識、反省することが真の平和につながる。そのために、原爆資料館とは別に、『加害者』としての日本の歴史を展示する資料館をつくるというのが岡先生の思いでした。

原爆資料館の入館者が年間30万人といわれていますが、うちはその1%ぐらいです。でも、長崎に来たからには、原爆資料館だけでなくここも訪れて、両方見て帰ってほしいといつも言っています。

昨年、米国の映画監督オリバー・ストーンがこの資料館を訪問しました。その時、『米国の原爆投下が国際法に違反する戦争犯罪であり、投下したのは終戦後の対ソ連戦略を実験する場となった』と厳しく批判すると同時に、『原爆の失敗はその不当性と同時に、日本国と日本国民が加害者から被害者となり、被害者意識に埋没させてしまったことだ』と述べました。それは鋭い指摘だと思います。

岡先生は市議会で、日本の戦争の加害責任を考えるならば、むしろ日本人被爆者よりも朝鮮人被爆者を優先して援護すべきではないか、実態調査をするべきだ、と訴えていました」

岡牧師は激しい人だったという。あまりに弁舌鋭く、自分にも他者にも厳しく、高實さんも、何度か活動から身を引くことを考えたこともあったという。しかし、日本の加害責任をいち早く指摘し、その追及のために行動してきた岡牧師亡き後、その活動を引き継いできた。

朝鮮人被爆者、世界遺産「軍艦島」での強制労働者 日本の「戦争加害」を長崎から問い続けた岡正治牧師(2)
岡正治牧師の蔵書の一部も展示されている。

岡正治牧師を支えた聖書信仰とは?

追悼集『追悼岡正治 孤塁を守る戦い』には、朝鮮人、被爆者、市民活動家、政治家、研究者など100人以上が文を寄せている。その中で高實さんは、「先生、本当に無念です」という追悼文を書いている。

1982年、長崎市に対して忠魂碑訴訟を起こしたとき、岡牧師は市議会議場に乱入した右翼の少年に殴られるという事件に遭い、教会にも約2カ月間、右翼の街宣車が押し掛けたという。「岡、出てこい」と言われて出てみると、「岡、お前は長崎から出ていけ」と言う。しかし、岡牧師は「一体、私にどうしろと言うんだ」とデンと構えていたという。心配から、支援者数人が交代で教会に泊まり込むことになった。

高實さんもその一人として教会に泊まり込み、毎晩遅くまで岡牧師と語り合う中で、「先生の信念と生き方が厳格に聖書に根ざしたものであることもまた深い感銘を受けたものです」とつづっている。

議場で襲った少年についても、「厳しい処分を望むか」という検事の質問に、「とんでもない、寛大な処置を望みます」と答えた。高實さんは、これも聖書に基づく人間愛を内に秘めていた証しだった、と書いている。

朝鮮人被爆者、世界遺産「軍艦島」での強制労働者 日本の「戦争加害」を長崎から問い続けた岡正治牧師(2)
朝鮮人労働者が暮らした飯場の建物も再現されている。

聖書に根ざした贖罪(しょくざい)

岡牧師の生涯を支えたものは一体何だったのか。「岡先生を支えていたものは、戦争中の自らの戦争責任への、聖書に根ざした贖罪、罪の償いの意識だったのだと思います」と高實さんは語る。

岡正治の自伝『道ひとすじに』には、広島に落とされた原爆による被害の惨状を知り、天皇に戦争終結を直訴すると訴え、当時教員であった広島・江田島の海軍兵学校を追放され、終戦を迎えた日のことをこう記している。

「非国民というレッテルと、軍法会議と銃殺を覚悟して、それを行動の上で戦ったのは、長い11年2カ月の海軍生活中、わずかに6日間にすぎなかったのかという、胸をえぐられるようなざんげの思いで、わたしはその日終日泣き続けた」

高實さんは、子どもを連れて、数年間、岡牧師の教会に行き、説教を聴き続けた。洗礼を受けることはなかったが、追悼集のあとがきにはこう記した。

「一つの枝が苦しむ時、総力でその枝を支えるべきだという先生のキリスト教信仰は、周囲の人々の苦しみに向けられたばかりではなく、いわれなき差別に苦しむ在日韓国・朝鮮人や、放置されたままの外国人被爆者の救済へと先生を駆り立てました。また、差別と抑圧の根源として天皇制の本質を見抜き、天皇制を撃つ闘いに果敢に挑まれました。そこには祈りと実践、ことばと行動の見事な一致が見られます」

8月14日、安倍晋三首相は「戦後70年談話」を発表した。そこでは、「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません」「私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」と述べた。

ならば、日本の「加害」への問いに目が向けられるべきだ。筆者を含め、あまりにそれを知らなさ過ぎる。そして、それを生涯問い続けてきたキリスト者がいたことは、収集された朝鮮・中国の声と歴史と共に、もっと多くの人に記憶される価値があるのではないだろうか。

岡正治牧師年譜

1918年 大阪で生まれる。
1933年 15歳で広島の呉海兵団に入団、海軍で艦艇勤務、中国などの作戦に従事
1938年 日本福音ルーテル門司教会で洗礼を受ける。
1943年 広島・江田島の海軍兵学校教員となる。
1945年 8月6日の広島への原爆投下を知り、天皇に戦争終結を直訴することを教員や生徒に訴えて追放され、15日終戦を迎える。
1951年 日本ルーテル神学校に33歳で入学
1952年 妻を亡くす。
1958年 日本福音ルーテル長崎教会の牧師に就任
1965年 「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」結成
1971年 長崎市議会議員選挙で当選(1983年まで、3期務める)
1974年 長崎市議会で朝鮮人被爆者の実態調査を要求
1979年 長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑建立
1981年 朝鮮人被爆者の実態調査に着手、少なくとも1万9391人が被爆、9169人が死亡したことを明らかにする。さらに敗戦当時、長崎在住の朝鮮人7万人の実態調査を行う。
1982年 本島等長崎市長を相手取り、長崎忠魂碑訴訟を提訴(1審勝訴、2審敗訴)
1994年 長崎市内の自宅で75歳で病死

 

 


【福島原発事故】3号機・核燃料ほぼ全量落下/原発は時限爆弾!全くコントロールできていない!

2015-08-17 01:23:29 | 福島、原発

東京新聞 TOKYO WEB

http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/nucerror/list/CK2014080702100003.html

【福島原発事故】

核燃料ほぼ全量落下 福島3号機 廃炉一層困難

写真

 東京電力は六日、福島第一原発事故で炉心溶融(メルトダウン)した3号機について、核燃料のほぼすべてが溶け落ちた可能性が高いとする解析結果を発表した。

これまでは溶け落ちた量を六割程度とみていた。1号機でもすべての核燃料が溶け落ちたとみられており、廃炉のための核燃料の取り出しは、さらに難しくなった。

 解析結果によると、3号機では従来の推定より約五時間早い、二〇一一年三月十三日午前五時半に核燃料が溶け始め、翌日の午前七時ごろには圧力容器の底を突き破り、格納容器に落ちた。

 格納容器床のコンクリートを最大六十八センチ溶かし、容器外殻の鋼板まで二十六センチに迫っていた。これまでは最大63%の核燃料が溶け落ち、床面を二十センチ溶かしたとみられていた。

 3号機では一一年三月十三日未明、緊急用の冷却装置を運転員が手動で止めた後、ポンプ注水をしようとしたがうまくいかず、冷却の遅れにつながった。

 その後の調べで、前日の十二日午後八時ごろに冷却できなくなっていたと分かり、東電が解析し直していた。

 原子炉への注水で温度が下がったことから、東電の担当者は、圧力容器の中に核燃料の一部が残っているとみているが「核燃料の取り出し作業では、相当な量が落ちていることが前提となる」と説明した。

 一方、2号機では事故当時、炉内の圧力を下げられないまま消防車で注水したため、核燃料と水が反応して大量の水素と熱が発生。注水が中断し、核燃料の溶融を促したと分析した。

 解析結果と原発の新しい規制基準との関わりについて、原子力規制委員会事務局は「一般論だが、福島事故の教訓として得られる知見があれば、基準の見直しを図っていく」とした。

 

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福島原発は時限爆弾!全くコントロールなど出来ていない!福島で本当は一体何が起きているのか?地震、災害

 

福島原発は時限爆弾!全くコントロールなど

出来ていない!

福島で本当は

一体何が起きているのか? 

地震、災害、人災…!

破損した原子炉と、

莫大な量の放射性物質…


福島第一原発の様子が、おかしい!フクイチで何かが起きている!東京でも線量が異常な上昇! 核分裂反応…! 2号機、3号機内ではデブリ(溶解して落下した核燃料の団塊)がなんらかの原因で活発化して放熱量が高まっているようなのだ。



マスコミに載らない海外記事
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-ebf6.html

福島で本当は一体何が起きているのか?

福島は文字通り休止状態の時限爆弾だ。

もう一度、大きな地震がおきれば、地獄の様なひどい事態が生じかねない。

しかもコントロールされているとはほど遠い状況だ。

それどころか、全くコントロールなどできていないのだ。

カルディコット医師によれば、“事態のなりゆき次第で、

東京から避難が必要になる可能性もまだある。”想像願いたい!

“破損した原子炉と、使用済み核燃料プールには、莫大な量の放射性物質があり、

しかも将来の地震、津波、台風や人為的なミスの影響に極めて脆弱だ。

チェルノブイリの破滅が、福島の未来を映し出している。

マスコミがどれほど、この災害のブローバックに対処し損ねているかの一例として、

十分広くは報じられていないいくつかのチェルノブイリの事実をあげよう。

100万人以上の(1,000,000)人々が、チェルノブイリの放射性降下物のせいで亡くなっている。

全文は下記に…


フクイチで新たな恐怖!核燃デブリ「地底臨界」危機進行中!東日本どころか地球規模の超巨大原子力災害に突き進む! 核燃デブリが地中へ抜け落ちていく? 100t超といわれる大量のデブリ塊はどこへ行ったのか?そして膨大な崩壊熱で水蒸気爆発が繰り返され、新たに生まれた放射性物質が地上へまき散らされる…。質量がケタ外れに多い福島第一原発のデブリが「地底臨界」すれば、東日本どころか地球規模の超巨大原子力災害に突き進む!海外の研究者や政府関係者が不安視、苛立つ最悪の「地底臨界」危機進行中…!どう見ても、どう考えても大変なことになっている福島第一原発 

 
 
 

「侵略の定義はない」は事実でない。2010年に日本も参加して「侵略」に関する国際合意が成立

2015-08-17 00:47:24 | 歴史  歴史歪曲

http://bylines.news.yahoo.co.jp/itokazuko/20130520-00025060 より転載

「侵略の定義はない」は事実でない。2010年に日本も参加して「侵略」に関する国際合意が成立している。

伊藤和子 | 弁護士、国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ事務局長

2013年5月20日 0時5分
 

橋下発言が圧倒的なので、比較的目立たないが、忘れてはならない問題な発言がある。

安倍首相は4月23日の参院予算委員会で「侵略の定義は定まっていない。国と国との関係で、どちらから見るかで違う」と答弁したそうだ。

これには驚いた。国連等において、侵略の定義は明らかに決まっていて、日本もその決定過程に参加し、賛成してきたからだ。

まず、1974年の国連総会では、日本も参加・賛成して侵略の定義に関する国連総会決議が採択され、侵略が明確に規定されている。

決議3314という有名な決議だ。和訳については外務省定訳がないようであるが、ウィキペディアは以下のように訳している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%B5%E7%95%A5%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%BE%A9%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B1%BA%E8%AD%B0

これは国際常識である。

ところが、5月8日の参院予算委員会でこの国連総会決議について問われた首相は「それは安保理が侵略行為を決めるために参考とするためのもの」としながら「侵略の定義は、いわゆる学問的なフィールド(分野)で多様な議論があり、決まったものはない」と答弁したようだ。

国連総会の文書を「参考」として過小評価するのはいかがなものか。

内外の批判を浴びて5月15日には、「第2次世界大戦における「侵略」の定義に関し「私は日本が侵略しなかったと言ったことは一度もない」と軌道修正したようだが、侵略の定義がないというスタンスは変えていないし、「侵略した」とも言っていない。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130515-00000572-san-pol

しかし、忘れてはならないのは、侵略の定義は1974年の国連総会決議で確認されただけでなく、2010年には、「侵略の罪」に関連して、さらに明確に定義されたということだ。

2010年に議論されたのは、国際刑事裁判所「規程」に関する再検討会議である。国際刑事裁判所は、世界で最も深刻な犯罪を処罰する国際法廷で、ジェノサイド、戦争犯罪、人道に対する罪、侵略犯罪を裁く。日本も国際刑事裁判所条約に加入しており、参加国である。

このうち、侵略犯罪以外については既に裁判が開始されているが(アフリカの案件が多い)、侵略犯罪については、定義等をさらに明確にしたうえで裁判権の行使を開始することとされ、2010年にそのための会議が開催され、そこで、侵略罪、侵略に関する定義は明確になった。

規程の全文はこちら(英文)

http://www.icc-cpi.int/NR/rdonlyres/ADD16852-AEE9-4757-ABE7-9CDC7CF02886/283503/RomeStatutEng1.pdf

このうち、Article8Bisに、侵略犯罪、そして侵略の定義が明確にされている。

その訳文はこちらだ。

http://unic.or.jp/security_co/res/other13.htm

そこで侵略とはこうなっている。

1. この規程の適用上、「侵略犯罪」とは、国の政治的または軍事的行動を、実質的に管理を行うかまたは指示する地位にある者による、その性質、重大性および規模により、国際連合憲章の明白な違反を構成する侵略の行為の計画、準備、着手または実行をいう。 2. 第1項の適用上、「侵略の行為」とは、他国の主権、領土保全または政治的独立に対する一国による武力の行使、または国際連合憲章と両立しない他のいかなる方法によるものをいう。以下のいかなる行為も、宣戦布告に関わりなく、1974年12月14日の国際連合総会決議3314(XXIX)に一致して、侵略の行為とみなすものとする。 a. 一国の軍隊による他国領域への侵入または攻撃、若しくは一時的なものであってもかかる侵入または攻撃の結果として生じる軍事占領、または武力の行使による他国領域の全部若しくは一部の併合 b. 一国の軍隊による他国領域への砲爆撃または国による他国領域への武器の使用 c. 一国の軍隊による他国の港または沿岸の封鎖 d. 一国の軍隊による他国の陸軍、海軍または空軍若しくは海兵隊または航空隊への攻撃 e. 受け入れ国との合意で他国の領域内にある一国の軍隊の、当該合意に規定されている条件に反した使用、または当該合意の終了後のかかる領域における当該軍隊の駐留の延長 f. 他国の裁量の下におかれた領域を、その他国が第三国への侵略行為の準備のために使用することを許す国の行為 g. 他国に対する上記載行為に相当する重大な武力行為を実行する武装した集団、団体、不正規兵または傭兵の国による若しくは国のための派遣、またはその点に関する国の実質的関与

定義は明確に決められている。しかも日本が参加して。

この会議では、侵略か否かを決するにあたって、安保理の認定は不要であることも確認された。

この会議のことは個人的にもよく覚えているのだが、それは、NGOヒューマンライツ・ナウとして、この侵略犯罪に関する定義の確定等に関し、意見を国際的に公表し、日本政府にも働きかけをしていたからだ。当時の日本政府(民主党政権)の対応は全く不十分だったと思うが、それでも「侵略の定義はない」などという話をするような呆れた状況ではなかった。

日本政府はこの会議での合意について、報告を掲載している。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/icc/rome_kitei1006.html

いかに日本が役割を果たし、貢献したか、詳細に報告しているのだ。その自画自賛ぶりについては、なかなか賛同できず苦笑してしまう、というところがあるものの、今思えば、こんな会議があったことすら忘れているらしい、今の政権の議論状況よりは明らかにましだった。

政権が違うと言えど、日本政府としてこれだけコミットした国際合意について、全く無視して「侵略の定義はない」とするのはどういうことか。首相がこのことを本当に知らないのか、国民が知らないのをいいことに意図的に無視しているのか、不明である。

しかし、この問題の重要性を考えるなら、忘れた、勉強不足、で済まされるような話でないことは明らかであり、また、意図的に無視しているなら悪質な国際法規無視である。このようなことでは誰からも信用されないであろう。

外務省も問題だと思う。というのも、会議報告は先ほどのウェブサイトに公表されているものの、肝心の改正後の規程についてアップデートされていないのだ。外務省の、この規程(国際刑事裁判所に関するローマ規程)に関するウェブページを見ると、制定当時の規程のままになっていて、2010年の改正が反映されていないので呆れてしまった。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/treaty166_1.html

これは締約国として怠慢としか言いようがなく、早急に改正後の規程をupdateすべきである。

首相がこのような発言を繰り返す影響は国内で深刻である。石原慎太郎氏は首相発言に励まされたのか、先の大戦は「侵略ではない」と公然と述べ、それに影響される若い世代もいて、反韓デモ等で繰り返されており、将来的な影響も心配される。

自ら意志決定プロセスに参加した国際合意があるにも関わらず、それを全く無視した発言を首相が繰り返すなら、日本は国際法規を守らない国として、信用を著しく失墜することになろう。このような発言は国際関係を極めて危うくするものであり、過去に侵略を受けた国々の被害者の方々を傷つけるものである。

首相は、きちんと勉強し、日本も参加した国際合意に従って発言すべきである。

 

伊藤和子

弁護士、国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ事務局長

1994年に弁護士登録。女性、子どもの権利、えん罪事件など、人権問題に関わって活動。米国留学後の2006年、国境を越えて世界の人権問題に取り組む日本発の国際人権NGO・ヒューマンライツ・ナウを立ち上げ、事務局長として国内外で現在進行形の人権侵害の解決を求めて活動中。同時に、弁護士として、女性をはじめ、権利の実現を求める