スマートフォンの目覚しアラームが鳴った
時刻は午前六時ちょうど
ベッドから起き上がり、ダイニングキッチンに向かおうとした
おっと、その前に
枕もとの「めがね」をかける
明るい日差しが差し込むキッチンで
妻が健気に働いている
「おはよう、あいこ」
声を掛けると「あら、今日は自分で起きられたのね」
妻がフライパンを持ったままおかしそうに笑う
「まぁね、朝くらい自分で起きないと」
「わたしの手が掛からなくてよくなったのね」
「そ、僕も少しは大人になるんだ」
そういうと、妻が吹き出した
リモコンでテレビのスイッチを入れる
目の前には旨そうなベーコンエッグと軽いサラダ
僕は手を伸ばしてそれを掴み口の中に入れる
「箸で食べなさい」
妻が注意してくれながら笑う
「ああ・・」
そう言って僕は箸でそれを掴むがうまく掴めない
暖かい珈琲、ゆっくりとした時間
だがこの空間には香りがない
食べ物の香りも妻の香りもない
テレビニュースでは昨日の衆議院解散を報じていたが
すぐに某野球チームの敗退へと流れが変わった
「タイガースは残念だったわね」
妻がさして残念そうでもない表情でそう言う
「エーアイ、そこは違う、愛子はオリックスバッファローズのファンだ」
妻は一瞬、僕の顔を見る
「オリックス、今年は駄目だったわね」
僕はXRAIゴーグル通称「めがね」を外した
ダイニングキッチンの明かりはついておらず
テレビニュースの音声だけが広がる
窓の外は朝から暗い雨
目の前には昨夜買っておいたロールパンがある
僕はそれを箸で取ろうとしていた
涙が染み出る
「愛子・・・」
テーブルの上には小さな写真立てに入れた妻の笑顔
急激に進行する癌で逝った妻
妻の死から一年、僕はまだ妻の死を受け入れられない
「めがね」をかける
明るい部屋の中で妻が悲しそうに立っている
「ね、わたしは、こうしてここにいるよ」
「ああ、ありがとう」
「わたしが至らないことがあれば、さっきのように教えてください」
「うん、そうだな」
「本当の愛子さんに近づけるよう頑張りますから」
妻は僕の目を見る
褐色の大きな瞳はまさに妻のものだ
僕は両手を広げた
妻は一瞬ためらいながらも僕の腕の中に入ってきた
もちろん、体温も感触もない妻だ
ぎゅっとそのまま抱きしめて口づけなんてことは出来っこない
だが、この時の妻は耳元で「愛してる」と囁いてくれた
妻の身体の感触が蘇る
妻の香りが蘇る
妻の体温まで蘇る
着ているブラウスをはぎ取って
胸の中に顔をうずめたい衝動に駆られる
だが所詮は映像でしかないのだ
そのはずなのだ
妻は自分でブラウスのボタンを外す
あの、懐かしい妻の胸が僕の前に広がる
僕は泣きながらそれに顔をうずめる
不思議に感触までもが蘇ってくる
しばらくして僕の心が落ち着いてきた
「あいこ、ありがとう」
妻は僕から少し離れ、ボタンを直す
「エーアイすごいなぁ、ここまで出来るなんて」
涙を拭きながら妻に向かって言う
「今、あなたは「めがね」をしてないのよ」
「え・・」
「さっき、わたしが抱きついた時にあなたは無意識に「めがね」を外したの」
テーブルの上にはXRAIゴーグル通称「めがね」が置いてあった
部屋の明かりはついていない
外は暗い雨だ
だのに「あいこ」いや、死んだはずの「愛子」がそこにいた
「愛子なのか・・」
「あなたが不憫すぎて・・でも、あなたにしか見えないわ」
「本物の愛子なのか」
「本物よ、怖い?」
「怖くなんかない、ずっといて欲しい」
「幽霊でもいいの?」
「幽霊なんかであるはずがない、愛子の思いが目の前にいる」
そう僕が答えると妻は軽く頷いた
「わかった、天上に行く時は一緒に行きましょう、その時まで」
僕は照明のリモコンで明かりをつけた
明るい部屋の中、ややブラウスの乱れた妻が立っている
妻は嬉しそうだ
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