楽園の復活―マイ・コールド・プレイス― ⑨
洋の古今を問わず、「冷めたい場所」の住人たちはつねにその人に憧れている気がする。「そのひと」は桃花の枝の下に立つ豊麗な娘子であったり、雲居の貴女であったり、異郷で死んだ見も知らない貴婦人であったりする。選れた抒情詩人でありながら「冷めたい場所」に立ちつくす絶望とは無縁であったように感じられる立原道造――音楽的な言葉の美と定型詩の可能性を信じ、逞しいまでの冷静さで詩句を刻みつくした詩人が詠う「林檎みどりに結ぶ木の下に面影は永久に眠るべし」という一節は、W・B・イェイツの次の詩句と実によく似ている。以下、少々長くなるが双方を並べてみたい。
まなかひに幾たびか 立ちもとほつたかげは
うつし世に まぼろしとなつて 忘れられた
見知らぬ土地に 林檎の花のにほふ頃
見おぼえのない とほい晴夜の星空の下で
その空に夏と春との交代が慌しくはなかつたか
――嘗てあなたのほほゑみは 僕のためにはなかつた
――あなたの声は 僕のためにはひびかなかつた
あなたのしづかな病と死は 夢のうちの歌のやうだ
こよひ湧くこの悲哀に灯をいれて
うししほれた乏しい薔薇をささげ あなたのために
傷ついた月の光といつしよに これは僕の通夜だ
おそらくあなたの記憶に何のしるしも持たなかつた
そしてまたこのかなしみさへゆるされてはゐない者の――
《林檎みどりに結ぶ樹の下におもかげはとはに眠るべし》
(立原道造 「みまかれる美しきひとに」)
I DREAMD that one had died in a strange place
Near no accustomed hand;
And they had nailed the boads above her face,
The peasants of that land,
And, wondering planted by her solitude
A cypress and a yew:
I came, and wrote upon a cross of wood.
Man had no more to do:
She was more beautiful than thy first love,
The lady by the tree.
And gazed upon the mournful stars above,
and heard the mournful breeze
とつくにで みまかれるひとの 夢をみた
なじみの手ひとつそばになく
そのひとのかんばせをおおうひつぎに
土地ものが くぎをうって
いぶかり 二本の木をうえた
さびしい墓所のかたえに
いとすぎとイチイの木を
わたしはおとずれ かきつけた
そのひとの木でできた十字に
人の手に そのうえできることはなく
木々のかたえのひとよ
おまえのはじめの恋よりも 美しかったひとよ と
そして悼みの星ぼしをあおぎ
悼みの風をきいた
(W・B・イェイツ 「死を夢む」)
こうして並べると類似はいっそう際立つ。二人の詩人たちどちらも、「今」から見て二重に過去の「できごと」を――あるいは幻想を――歌う。前者の場合には、「かげ」が「まなかいに幾たびかたちもとおつた」ときがより現在から遠くにあり、「忘れられた」ときがより近い過去にある。後者の時制は一目瞭然であろう。「夢をみた」ときがより現在に近く、「そのひと」が死んだときは夢のさらに過去にある。つい「遠近」という尺度を使ってしまったものの、感覚的には、これらの二重の過去は、直線的な時系列に沿うのではなく、むしろ二重の球体のように重なり合っている印象を受ける。「遠近」で測るよりは「深浅」のほうが似つかわしいかもしれない。「かげ」と夢の内容とは、どちらも「今」から見て二重の追想の深くにあるのだ。そしてどちらにもよく似た「ひと」がいる。「見知らぬ土地」で死んだ「美しいひと」である。
続
洋の古今を問わず、「冷めたい場所」の住人たちはつねにその人に憧れている気がする。「そのひと」は桃花の枝の下に立つ豊麗な娘子であったり、雲居の貴女であったり、異郷で死んだ見も知らない貴婦人であったりする。選れた抒情詩人でありながら「冷めたい場所」に立ちつくす絶望とは無縁であったように感じられる立原道造――音楽的な言葉の美と定型詩の可能性を信じ、逞しいまでの冷静さで詩句を刻みつくした詩人が詠う「林檎みどりに結ぶ木の下に面影は永久に眠るべし」という一節は、W・B・イェイツの次の詩句と実によく似ている。以下、少々長くなるが双方を並べてみたい。
まなかひに幾たびか 立ちもとほつたかげは
うつし世に まぼろしとなつて 忘れられた
見知らぬ土地に 林檎の花のにほふ頃
見おぼえのない とほい晴夜の星空の下で
その空に夏と春との交代が慌しくはなかつたか
――嘗てあなたのほほゑみは 僕のためにはなかつた
――あなたの声は 僕のためにはひびかなかつた
あなたのしづかな病と死は 夢のうちの歌のやうだ
こよひ湧くこの悲哀に灯をいれて
うししほれた乏しい薔薇をささげ あなたのために
傷ついた月の光といつしよに これは僕の通夜だ
おそらくあなたの記憶に何のしるしも持たなかつた
そしてまたこのかなしみさへゆるされてはゐない者の――
《林檎みどりに結ぶ樹の下におもかげはとはに眠るべし》
(立原道造 「みまかれる美しきひとに」)
I DREAMD that one had died in a strange place
Near no accustomed hand;
And they had nailed the boads above her face,
The peasants of that land,
And, wondering planted by her solitude
A cypress and a yew:
I came, and wrote upon a cross of wood.
Man had no more to do:
She was more beautiful than thy first love,
The lady by the tree.
And gazed upon the mournful stars above,
and heard the mournful breeze
とつくにで みまかれるひとの 夢をみた
なじみの手ひとつそばになく
そのひとのかんばせをおおうひつぎに
土地ものが くぎをうって
いぶかり 二本の木をうえた
さびしい墓所のかたえに
いとすぎとイチイの木を
わたしはおとずれ かきつけた
そのひとの木でできた十字に
人の手に そのうえできることはなく
木々のかたえのひとよ
おまえのはじめの恋よりも 美しかったひとよ と
そして悼みの星ぼしをあおぎ
悼みの風をきいた
(W・B・イェイツ 「死を夢む」)
こうして並べると類似はいっそう際立つ。二人の詩人たちどちらも、「今」から見て二重に過去の「できごと」を――あるいは幻想を――歌う。前者の場合には、「かげ」が「まなかいに幾たびかたちもとおつた」ときがより現在から遠くにあり、「忘れられた」ときがより近い過去にある。後者の時制は一目瞭然であろう。「夢をみた」ときがより現在に近く、「そのひと」が死んだときは夢のさらに過去にある。つい「遠近」という尺度を使ってしまったものの、感覚的には、これらの二重の過去は、直線的な時系列に沿うのではなく、むしろ二重の球体のように重なり合っている印象を受ける。「遠近」で測るよりは「深浅」のほうが似つかわしいかもしれない。「かげ」と夢の内容とは、どちらも「今」から見て二重の追想の深くにあるのだ。そしてどちらにもよく似た「ひと」がいる。「見知らぬ土地」で死んだ「美しいひと」である。
続
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