私的海潮音 英米詩訳選

数年ぶりにブログを再開いたします。主に英詩翻訳、ときどき雑感など。

西風 一連目

2009-08-20 19:47:27 | その他 訳詩
The West Wind John Masefield[1878-1967]


It's a warm wind, the west wind, full of birds' cries;
I never hear the west wind but tears are in my eyes.
For it comess from the west lands, the old brown hills,
And April's in the west wind, and daffodils.

西風          ジョン・メイスフィールド

あたたかな 風だ 西から吹く風は 鳥どもの歌にみち
目になみだ なしにはとても聞けはせぬ
風は来るのだ 西土から 古い茶色の丘地から
そして四月と水仙も この西風とともにくる

 ※五七基本の口語調でいきます。

小休止 鑑賞文 A・マーヴェル三篇 ⑤

2009-08-19 20:49:14 | A・マーヴェル
A・マーヴェル Eyes and Tears 他について
虚ろをながめる目 ⑤

 「わたし」はこの辺りで諦めはじめている。そもそも、「わたしの心が揺さぶられること」だけを価値判断の根本に置いているかぎり、何に対しても揺らぎない価値を定めることはできないはずである。しかし、「わたし」はあくまでその方法で何らかの「エッセンス」を捜し出そうとする。「心が揺さぶられる」以上の何か絶対的な価値を判じるための指標として、まさにその「心が揺れるか否か」を採用しているのだ。これは上手くいくはずがない。
 「われわれが値をつけるすべての宝石」を見ても、「あらゆる園をめぐって」も、「錬金術の光線で日ごとに世界を融かして」さえも、結局のところ「わたしの情動」にしか帰結しないならば、いっそ主客の区別を忘れてその情動に溺れてしまえばいいのではないか? 第七連以降からは、そんないくぶん自棄のような望みが感じられるように思う。しかし、それだけ自棄になってさえ、望郷も聖母への思慕も古典世界への憧れも、欲望や怒りさえも、結局は「わたし」個人の情動なのだ――と、「わたし」は意識せざるをえない。救い主のみ足を涙で拭ったマグダラのように心おきなく溺れるためには、まずこの「動きを観察する部分」をどうにかしなければならない。
 だからこそ、「わたし」は「わたしの両目」に「〔わたしを?〕くつがえし 溺れさせる」まで泣くようにと命じる。
 「見ること」と「泣くこと」がひとつに合わされば――心の「動きを感じる部分」と「その動きを観察している部分」との区別を自覚できないほど烈しい感情に溺れきることができれば、この気の毒な「わたし」も、「虚ろなもの」を眺める悲しみを忘れることができるのかもしれない。そしておそらく、そのときに、「わたし」は抒情詩人ではなくなるのだろう。現に動いているものを緻密に観察することができない以上、ふたつに分かれた心の溶けあいを望む詩人の切実な希求は、抒情詩人であることと根本的に相反しているのだ。知覚できない「天上」へ昇るために揮発して消える瞬間を待ちのぞむ「日の出のしずく」のように。

  終

小休止 鑑賞文 A・マーヴェル三篇 ④

2009-08-18 22:02:35 | A・マーヴェル
A・マーヴェル Eyes and Tears 他について
虚ろをながめる目 ④


 主客をつねに区別する意識は「見る」ことに虚しさをもたらす場合がある。もしかしたら、この点こそが「悲しみ」の要因であるのかもしれない。「わたし」の主観をつねに意識し、「わたし」以外の存在を「わたし」の心に映った影として意識しているかぎり、「わたし」が知覚するものは、「わたし」にとってどれほど美しく感じられようと、貴く聖なるものに感じられようと、あくまで「虚ろなもの」に過ぎない。その価値はただ「わたし」の心の動きひとつにかかっている。ということは、いつか「わたし」の心が動き疲れてしまえば、その瞬間にいっさいの価値を失うのだ。
 世間の評価を拒絶して「わたし」の情動ひとつにあらゆる価値判断を委ねる――という態度は、つねにこの価値喪失のリスクを負っているだろう。ある花をはじめて見たときの震えるような思いと同じだけの感動は、花自体には何の変わりもなかろうと、二度目にはまずもって感じられない。三度目、四度目となってしまうとそのうち「美しさ」さえ感じなくなるかもしれない。「わたし」の心の動きひとつを頼みにしているかぎり、知覚しうる「地上のもの」の何を目にしても「涙」が流れなくなるときがくるかもしれない。「わたし」はそのときを怖れている。そのために、「あらゆる園」をつうじて、「わたし」の知覚に関わらず確固として存在する何か絶対的に価値あるものを求めるのだ。
 この「あらゆる園」いう表現は、「まなことなみだと」の第五連にも用いられている。

  おれはあらゆる園をめぐった
  くれないや 白やみどりのうちを
  だが見たすべての花からも
  蜜は得ず ただ涙ながれた

「泣く/涙する」という表現を「心の動き」とし、「見る」を「知覚すること」として取るならば、この連は、「わたしはあらゆる園をめぐって多くの花〔=美しいと感じるもの〕を知覚したが、そこから蜜は得られず、ただ自分の心の内で感情が動いたに過ぎなかった」と読める。第三連で言い放つ「涙こそが真の価値」という断言と矛盾はしていないが、この第五連からは、ありありと「蜜」への希求が感じられる。
 次の第六連で「太陽」が眺めおろす世界から抽出したいと望む「エッセンス」もこの「蜜」と同じものだろう。「わたし」が眺めようと眺めまいと揺るぎなく存在する何か本質的に価値あるものである。だが、「太陽」もそれを見出せない。世界すべてを眺めた果てに「太陽」が見出した「エッセンス」は「ただ雨だけ」なのである。

 続

小休止 鑑賞文 A・マーヴェル三篇 ③

2009-08-17 10:10:15 | A・マーヴェル
A・マーヴェル Eyes and Tears 他について
虚ろをながめる目 ③


 「わたし」の心が知覚しているだけではない、外の世界に確固として(「わたし」の知覚とは無縁に)存在する何か価値あるもの。
 そうしたものに焦がれつづける詩人というのは、古今東西を問わずひとつの型として存在するように思う(古今東西――といっても、私が言語で愉しめる詩歌は日本語圏と英語圏のものに限られているのだが)。
 ほんの数編を読んだばかりで断じるのははばかられるが、私は、この「まなことなみだと」の作者にも同じ種類の匂いを感じた。キリスト教文化圏でもっとも手軽な「価値ある絶対的な他者」といえばもちろんGODだろう。「わたくし」が茨の冠を被せつづけた「わたくしの救い主」に向けて訴えかける「王冠」のはじめの部分で、詩人は次のように詠う。

  わたくしのあまりに久しく
  あまたの傷をつけて
  わたくしの救い主のつむりに
  かむせたいばらの代わりに
  花の環であやまちのつぐないをしようと
  あらゆる園をつうじて あらゆる野原をつうじて
  わたくしは花々をあつめるのです(わたくしの実はただ花のみなのです)

そうしてあつめた「花々」で彼は「誉れの君のまだかつて被らぬまでに豊かな」花輪を編もうと志すが、その思いの中に、みずから「名欲しさと我欲」を見出してしまう。
 これはずいぶんと冷静な観察である。「わたくし」がかつて傷つけてしまった「わたくしの救い主」のために償いの花輪を編みたい――という一見ひどくへりくだった思いが自然な「心の動き」であるなら、そこに容赦なく「我欲」を見出す目は「その動きを観察している部分」だろう。無私であるべき償いの欲求の内に「我欲」というヘビを見出してしまった以上、彼はもう「わたくしの救い主」の頭に虚心に花輪を捧げることができないのだ。そのために、彼はその「花輪」を壊して欲しいと望む。
 この切々とした訴えを見るかぎり、「まさに動いている部分」と「その動きを観察している部分」とに内面をつねに分かっておくのは、やはりそう安らかな状態とは感じられない。「今わたしは花をみて美しいと感じている。だがそれはわたし個人の主観に過ぎない」とつねに意識していることは、感覚的な歓びを味わいつくす助けにはならないだろう。そんなことをつねに自覚していては、知覚するものすべてが実体のないものと感じられてしまう。実体のないもの、すなわち「虚ろなもの」と。

 続

小休止 鑑賞文 A・マーヴェル三篇②

2009-08-15 22:08:42 | A・マーヴェル
A・マーヴェル Eyes and Tears 他について
虚ろをながめる目 ②


 主観としての「わたし」とそれが知覚する対象とをはっきりと区別する意識は、「わたし」とその他のものとを隔てざるをえない。結果、「わたし」の内面は、「わたし」以外の対象を映したひとつの小世界となる。
 外界を映す小さな閉じられた球体としての「わたし」の内面。
 ここで思い出されたのは、同じ詩人による「つゆのしずくに」に現れる「日の出のしずく」のイメージである。天上的な朝の空から地上に落ちた「しずく」は、今現に自分がいる「咲きひらくバラ」さえ仮の宿りと軽んじて、「おのれの生まれた曇りない国」をそれ自身の「小さな世界」の内に封じ込め、「おのれの在るところに触れもせず」に空だけを見つめ返している。
 この「しずく」の態度は、曇りおおき地上のものからすればたいへん傲慢である。バラはさぞ気を悪くしたことだろう。とはいえ、自分自身が現にいる俗世間を軽んじて「天上的な世界」の映しを再現した自分自身の内面世界にのみ没頭する――というのは、たいへん傲慢ながら、いわゆる「詩人」の態度としてはいかにも似つかわしい気もする。
 しかし、ここが重要なように思うが、地上の花を軽んじて「曇りない国」にこがれる「しずく」はあまり仕合わせそうではない。「しずく」は、「おのれの在るところに触れもせず」、自分が濁りはしないかとつねに怯えて安らがずに戦き震えている。そして、あくまでまわりのものに触れず内面を濁らせまいという態度を突き詰めると、「地上」では「白くまったき、けれど凍てついた」状態とならざるをえない。
 つねに不安に震えているか、あるいは凍りついているか。心の持ちようとしてどちらも安楽な状態とはいえないだろう。内側に「天上」の映しを封じた「しずく」は、「地上」を軽んじながらも、主観のみに立脚した小さな内面世界に安んじてはいられないのだ。だからこそ、自分の表面に映る「歪んだ世界」に惹かれないよう自分を戒めながら、曇りなく欠けない外界として「天上」に憧れている。この場合の「世界」とは、内面世界の外にある対象と言いかえられるように思う。「しずく」の表面に――あるいは、「わたし」の心に映っているだけではない、外界に確固として存在する「わたし」以外の何かである。