これは1997年、今から25年前の話です。
わたしがパソコンを始めた訳
「猿でもできるインターネット!」のうたい文句に惹かれて
~第一章~
ワープロも触った事もなかったわたしが
こうしてHPを作るまでになったのは、現在15歳になる長男が12歳のとき、
シドニーに留学したことがきっかけだった。
今から3年前、1997年の春の事である。
12歳といえば、小学校を卒業したばかりのまだまだ子供。
留学行きは最終的には息子本人の判断だったが、留学行きを強く希望した夫がレールに乗せたようなものだった。
留学の件については、夫婦でも散々議論したが、
本人にその気があればこれもいい経験では?
ただし、精神的なフォローをなにがあっても夫婦でやる事。
どうしてもだめなら、帰ってくればいいんだから。
私はそう考えて息子を出す決心をしたのだった。
そして、小雪の舞い散る寒い小学校の卒業式を終えた後、しばらくして彼はシドニーに旅立った・・・・・・。
昨日まで、一緒に暮らした長男がいない。
朝目が覚めて、ああ、もうここには息子がいないんだ、と自覚する。
当然のことだが、彼の部屋にも、テレビの前にも、リビングのソファーにも彼の姿はないのだ。
絶えられない。とたんに胸が締め付けられ、
顔を覆って泣き出していた。
母子で散々泣いた。
当時の頃を思い出すと今でも胸が締め付けられる。
お酒もたくさん飲んだし(キッチンドランカー状態)
酔ってよく夫にからんだ。ほとんど八つ当たりだった。
子どもを夫のために引き裂かれたような
そんな感じだったのだろうか。
外に出るのもおっくうで、特に長男と同級生の子達の地元の制服姿を見る事ができなかった。
ほんとうなら、長男もこの中にいて、登校してたんだ。
そうおもうと、泣けてきて仕方がなかった。
お母さん方に会うのもいやだった。
長男のことを聞かれたら泣いてしまうだろうから。
下にもう二人息子がいる(現在12歳と11歳)のだが、
またそれは別なんだと思った。
二人いても、寂しいものは寂しい。
ちゃんとご飯は食べてるのか?
誰かに苛められてないか?
寂しすぎて変なこと考えてないか?
日本人はお金持ちだと思われて、誘拐されないかとか、
そんなことまで考えてしまっていた。
その時期、ケアンズで日本人女性が殺された事件をニュースで聴いた時は気が狂いそうだった。
今すぐにでも飛行機に乗って長男の元へ行きたい!
地球の裏側に暮らす息子とのコミュニケーションはやはりなんといっても電話だ。
寂しくて息子からは頻繁に電話がかかってくる。
「もう耐えられへん」
「日本に帰りたい・・」
長男はほとんど鳴咽状態だった。
私は言う。「帰っておいで!もういいから帰っておいで!
しかし夫がそれを許さない。
「行くの決めたんはおまえ自身やろが!!」
「男なら、穴割らんと最後までやらんかいっ!」「男に二言はない!!」
この言葉を、決して私の前では夫は言わない。
夫はこうして、ホームシックの息子に叱咤激励というよりは、プレッシャーを与えていたらしい。
私に内緒で自分の会社から電話を入れていたのである。
き===-!
夫が憎い。
