断捨離をはじめたきっかけ
おそらく誰もが、ある程度の年齢になると
身の回りのものを整理してシンプルな生活をしたいと考えるようになると思いますが、
増えすぎた物を整理していくとなると、実行に移すには腰が重いかもしれません。
私もそうでしたから。
私が、本格的に家の中の荷物の整理を始めることになったきっかけは、
一つは、奈良のこの家を手放す可能性がでてきたこと(幸い、手元に残すことができました。)、
二つめは、三年前母と弟を亡くし、帰る故郷が無くなり、実家の荷物を一気に処分したことでした。
母と弟が亡くなった時、私はこちらで看護師に復帰していましたが
職場の計らいでまとまった休暇をもらい、すべての家財道具を処分したのでした。
古いものは処分、新しい電化製品や家具は、親戚に引き取ってもらったり、
知人に譲りました。
比較的新しいものが多かったので、皆さん喜んで引き取ってもらうことができました。
母は、私たち家族5人分の布団一式も用意していましたし、(ほぼ新品)
子供たちが小さいころ使っていた枕も大事に仕舞っていました。
着物が好きだった母の着物は箪笥一本分。
未使用の食器も大量にありましたし、田舎ゆえ、
葬儀や法事用の食器一式が、大きな木箱にありました。
母方は神道でしたので、神棚がありましたが御霊は、東京の従兄弟のもとへ。
辛かったのは、写真一式、すべて処分したことと、(量が多すぎて整理している時間がなかった)
大きな本棚に、大量にあった弟の農業関連の本全てを
地元の焼却場に持ち込み全部処分したこと。
それを、知った以前弟が働いていた社長は「なんてことを」を
嘆きましたが、その前に社長にこの大量の本を引き取ってもらえないかとお願いしたとき
「量が多すぎて無理」と断られたのです。
後で、やっぱり欲しいと思ったのだそうですが、後の祭りでした。
びっくりしたのと、大変だったのは
漬けた梅干の瓶が、何十個とあったこと。
毎年作るものの、食べきれずにそのまま、ということでしょうか。(汗
妹が、「さすが母ちゃんのやりそうなことだ」と呆れ顔で片付けていました。
実家は、タキイの種を扱うお店を祖母の代からやっていました。 br />種物を売る以外に、弟が大きな畑で苗物を栽培していました。
種もの、苗を売り、農家の方達が栽培。できたものを母の店に持ってきて、 安くで新鮮な野菜を、明るい母親が売る。
一日たったものは店に出さない、が母親のポリシーで、気前良く皆に食べてもらっていました。
売る人がいなくなった種、苗も、皆知人や親戚に引き取ってもらい、
ビニールハウスの撤去から、畑を更地にする作業は、 本家の知人の業者が引き受けてくれました。
更地にした畑の写真を、従兄弟が送ってくれました。
こうして、実家を跡形なく綺麗に処分してきたのでした。
三年前の、寒い2月から3月のことです。
食事がのどを通らず、過労とストレスで脱水症状を起こしていた私は、
奈良に帰ってきてからは、しばらく勤務している病院で点滴をうけました。
比較的低い私の血圧は、200以上になり、その上頻脈の状態で
高血圧の薬を処方され、しばらく服用することに。
起立性のめまいが出るようになり、
この頃の私の体はまさに悲鳴をあげている状態だったように思いますが、
忙しい職場で、無心に仕事に打ち込むことがかえって良かったように思います。
内科の同郷の看護師長の、
「どんなに辛くても、私達は白衣を着ればナース。白衣の力を借りなさい」
の言葉は私の励みとなりました。
家一件分の家財の処分は本当に大変でした。
できれば、生きてるうちに自分自身でやれるものならやるのが良いとつくづく思いました。
親子、兄弟と言えども私の荷物ではありませんので、
捨てる、処分するということに後ろめたさを覚えるのと
やはり辛い作業でもあるのです。
生きているうちに、どんな形であれ本人の意思で整理をしたいというのが
断捨離を実行するきっかけです。
一度にやってしまおうとは思っていません。
生活しながら、ぼちぼちと
荷物と相談しながら、断捨離の作業は
メンタル面にもすこぶる良いということを
作業しながら実感しています。
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