暗闇検校の埼玉県の城館跡

このブログは、主に、私が1980年代に探訪した中近世城館跡について、当時の写真を交えながらお話しするブログです。

JR赤羽駅北口一番街シルクロード

2018-05-17 22:02:51 | 古い町並み
草むらしか映っていないような古い城郭の写真が続いたので、今日は息抜きに、

町中の写真をアップします。

赤羽駅を出て北口に1番街シルクロードというのがあります。

シルクロードというよりもビールロードというか、チューハイロードというか、そういう場所なのですが、

こういう風景がお好きな方はいらっしゃらないですかね。








ここは入り口附近で、真昼間では、皆、店が閉まっています。

ここに灯りがともるのは、5時過ぎでしょう。

ここがいいのは、アーケード街になっていることです。

雨が降っても雨宿りができます。






















何か奥に何人も人が立っていますが・・・。





あ、この時間からお店が開いているんだ。









なんかいいなあ・・・。

と思わずつぶやいてしまいました。

泉福寺館 1985年(滑川町)

2018-05-16 22:25:51 | 城館跡探訪
滑川町の泉福寺館は、三門館のある台地に対して、低地を挟んだ舌状の台地上にあります。

斜面に対して直角に竪堀を切り、長方形にした江南台地上によく見られるタイプの陣城です。

恐らく、泉福寺館は三門館と一対になって機能していたものではないかと推測します。


この泉福寺館を訪ねたのは秋でした。

三門館に行こうと思っていたのですが、勘違いをして向かい側の泉福寺のある台地に

登ってしまったのです。

たまたま登った場所に、館跡があったのでした。

当時私が基本資料として利用していた『埼玉の館城跡』には、記載されていなかったのですから、

存在を知る由も無く、訪問したのは、まったくの偶然でした。

泉福寺館は、こういっては失礼ですが、マンガ日本昔話に出て来る、

妖怪の住む無住の山寺と言った風情でした。

写真は、この当時の自分としては珍しく、遠景を一度押さえています。



泉福寺の周辺には、空堀があったのですが、手持ちのデータの記述と一致せず、

不安をもちながら写真を撮影しました。下の写真などは、土塁を撮影したのだと思いますが、

今一ピンと来ないですね。データには、「失敗写真」と書かれていました。




大沼弾正忠館跡 1985年(深谷市)

2018-05-15 20:53:30 | 城館跡探訪
深谷市にある西蔵寺は、大沼弾正忠館跡とされています。

大沼氏は上杉氏の家臣と言われていますが、細かい事蹟は明らかになっていないそうです。

深谷市役所(深谷城)の北にあり、それほど離れていません。

1985年頃の深谷市北部の郊外地域は、利根川氾濫原であったため粘土が多産し、

それを利用した瓦や土管の生産が盛んでした。

西蔵寺周辺にも、天日干しされている瓦、土管が広範囲に並べられていました。





深谷周辺の城館跡は、平日の放課後に行くことが多く、うす暗い写真ばかりだったので、

この時は、日曜の午前中に再訪問しました。

粘土の粉じんによって赤茶けた風景の中を進むと、あっさり西蔵寺にたどり着き、

記念撮影風の1枚を撮影しました。

正直、砂利道とコンクリートを打った境内を見て、味もそっけもない寺だと思いました。

あと数枚撮影した記憶があるのですが、この撮影は夕方の訪問時のものだったので、

恐らく真っ暗写真だと思います。


大河内金兵衛陣屋跡 1985年(寄居町)

2018-05-14 18:10:03 | 城館跡探訪
大河内金兵衛陣屋跡は、鉢形城近く、県道81号線沿いの南側、阿部豊後守陣屋跡の向い側辺りを

山側に登っていきます。

大河内金兵衛陣屋跡は、江戸初期に旧鉢形領支配のために代官大河内金兵衛が設置したと伝えられています。


私の記憶では、この陣屋はなかなか見つからず、坂を何度も上り下りした記憶ばかりが残っていて、

肝心の館跡の記憶が曖昧です。

无動寺太郎館跡と記憶が混ざってしまい、思い出しても確定的なことが言えないのが現状です。

とはいえ、写真そのものは、当方に残っていた資料と照合して、大河内金兵衛陣屋跡に間違いないです。





高い土塁に見えますが、実際は空堀の中に降りて撮影した写真なのだと思います。

陣屋跡の雰囲気は比較的よく出ていますが、記憶が抜け落ちているのには忸怩たる思いがします。




城原城 1984年(滑川町)

2018-05-13 10:55:02 | 城館跡探訪
城原城・・・「じょうはらじょう」と読むらしいのですが、

ここは、わたしが、熊谷市外の「山城」に行った、初めての場所です。

伊勢新九郎治重という、後北条氏を思わせるような人物の居城跡と伝えられています。

実は、城原城については、完全に失念しておりまして、

こういう記憶に関しては比較的長期間保存し続ける自信があったのですが、

城原城については、記録メモを取っていなければまったく思い出せなかったはずです。

ただ、記憶のインデックスは生きていて、訪問前日の、家族とのやり取りを

思い出しました。

この城原城に行った理由は、「近そうだから」の一点のみです(笑)。

ここはどこだろうかと、母に訪ねて「知るか!」と怒鳴りつけられたのを覚えています。


その日の夜は、たまたま祖母が来ており、この祖母が博覧強記の人で、滑川、東松山、

吉見、大里、江南、川島と県北部、中部各地の地史に詳しかったのですが、

この、じょうはらについては、全く心当たりがないと言って、「じょうげん」か

「じょうはら」か「しろはら」かもわからないと言われて、いやな予感がしました。

ここまでは、よく覚えているのですが、肝心の城跡のことについては、

印象に残っていることがほとんどありません。

とはいえ、民家脇から入らず、獣道のような所から、山腹に取り付き、

苦心して山に分け入ったのは覚えています。山麓に長方形の空堀跡があるということでしたから、

城址そのものは、山のふもとあるいは山腹にあるという解釈だったんでしょう。

道なき道を進むと、山腹には空堀状の溝がありましたが、なにせ、やぶの中を強引に直登した結果、

たどり着いた場所で、写真の通りものすごいやぶの中なので、わかりにくいですね。



正直、想像の山城とあまりにもちがっていたため、がっくりしました。

これは、山腹の土壇状のものの上から、その段差を強調するために、斜面の中空に向かって撮影した、

負け惜しみのような写真です。いま、案内しろと言われても無理です。



帰宅後、「堀以外に、ほとんど、なんにもない、ひどいところだった」と言って、大笑いされた記憶があります。