みちくさをしながら

いろいろあって、生活を見直している日々。

強くなんかない

2005-11-14 19:15:24 | 日常の出来事
先週、未熟児の母親教室へ行ってきました。
その日はカリキュラムの最後の日だったので、子供は保育室に預けお母さん同士でお互い自分の経験を話しました。

終わった後保育室に向かう途中、一人のお母さんに話しかけられました。
「くりず(仮名)さんって強いですね。」
「障害も受け入れて…。やっぱりこういう人のところに授かるんだなって思いました。」と。

「私なんてダメダメですよ~」と否定したのですが、たぶん、そのお母さんは謙遜としかとらなかっただろうと思います。
その後は、預けた子供を受け取るときのバタバタであまりお話ができませんでした。
謙遜でもなんでもなく私は強い人間ではないのだと、そのお母さんに伝えたかったのですが。

私は強い人間じゃない。

超早産で人工呼吸器やたくさんの点滴につながれたおチビを見た後で、先天性の遺伝子疾患があるかもしれないから遺伝子検査をさせてほしいと言われたときは、一目もはばからず泣いた。
不妊治療をしていたこともあって、「やはり自分は子供を産んじゃいけなかったんだ」という自己否定の気持ちを抑えることができなかった。
退院してから初めておチビの面会に行った日は、おチビを後にしてかえるのがつらくて、おチビをこんな目に合わせてしまった自分が情けなくて、帰り道泣きながら歩いた。

現在も胎内感染の後遺症である慢性肺疾患の経過が悪く、おチビは酸素吸入が必要だ。
早産でさえなければ、私のところにさえ生まれなければ、この子はもう少し楽に生きることができたのだという思いは、今でも消えることはない。

だから、今でも「乗り越えた」なんてとても言えない。

「障害を受け入れ」ているかどうかだって、よくわからない。

ダウン症の同じような月齢の子がもう歩いているのを見ると、それが早期療育に熱心なお母さんの子だったりしたときはなおさら、気持ちがざわつく。
おチビは、首が据わるのに1年を費やした。
心肺に難があるからと思いつつ、適当な療育ができていないんだろうかとも思うこともある。
学校就学まで視野に入れてがんばっている立派なお母さんを見ると、風邪を引かさないように日々を過ごすことだけでひーひー言っている自分が情けなく感じることもある。
「あせってもしょうがない」「なんとかなるさ」と言いながら、それは単に現実から目を背ける言い訳にしかすぎないのかもしれない。

ただね、自分を責めてどうにかなることならいくらでも責めるけれど、どうにもならないことをあれこれ思い悩んでもしょうがないのは確かなんだよね。
だから、私はどっかで自分の気持ちを「棚上げ」しちゃったんだと思う。
とりあえず自己否定はこっちにおいといて、と。

それは強さではなく、ただの生活の知恵だ。

それに、「慣れ」は必ず生じてくるものだし。
1年半もおチビとつきあえば、投薬も酸素吸入のためのカニューラ装着も日常生活の一部なんだ。

泣いてばかりいることって、案外できないものなのだよ。