気がつけば七草もすぎてしまいましたが、寒中お見舞い申し上げます。
年末はダウンタウンのガキ警察を視聴しておりました故、某国営放送で裸祭りをしていたことも正月3日すぎるまで全く知らずにおりました。
さてさて、そんな世間知らずの年初めでしたが、久しぶりに旦那に子守りを任せて映画を見て参りました。
それも、近場のワーナー・マイカルとかじゃなくてわざわざ有楽町まで!
へっへっへ、久しぶりに映画を見て、銀座でちょっとおいしいもん食べて、目の保養して(買い物してじゃなくて)帰るぞー、なんて軽ーい気持ちでいったんですがね。
しかし、見ちまった映画が「麦の穂をゆらす風」>>「公式サイト」
1920年代のアイルランド独立闘争と内戦を描いた映画でした。
ストーリーは、二人の兄弟を軸にして進みます。
進学校に進みながらアイルランド義勇軍に加わった兄のテディと医者を目指した弟デミアン。
デミアンはロンドンの病院に勤務することになっていたのですが、ある事件をきっかけにロンドン行きを諦め兄とともに独立闘争に身を投じていきます。
裏切りや、治安部隊の過酷な弾圧など苦しい状況が続きますが、民衆に支えられたゲリラ戦は、やがてイギリス軍を追いつめ停戦をつかみ取ります。
しかし、その後、イギリスとアイルランドの間で結ばれた講和条約が新しい悲劇を招きます。
その講和条約が完全独立ではなく「自治領」としての権限しか与えられなかったこと、北部6州(北アイルランド)はイギリスに残ること、など人々の期待を裏切るものであったからです。
そのため、条約批准派と条約反対派の間に深刻な対立が生まれ、やがてそれは内戦に発展していきます。
それは、この前まで仲間として戦ったものがお互いに殺し合うという凄惨なものでした。
そして、テディとデミアンの二人にも深刻な対立が生まれていきます。
パンフレットに鳥越俊太郎氏が
「たとえどんなに立派な大義名分であろうとも、暴力(武力行使)の陰には必ず悲劇が生まれる。そんな思いがずっしりと胸に残る1作」と書いていました。
それは、その通りなんですけれど、反戦映画としてみるだけではこの映画を理解したことにならないのではないかと思うのです。
なぜなら、彼らの戦いは植民地支配に対するレジスタンスだから。「大義名分」は、間違いなくアイルランド側にある。
もしその戦いを否定してしまうのならば、彼らはどうやって独立をつかみ得るのかという問題がある。
それによって失うものもあるのだけれど。
ただ、内戦が生じたのは、彼らが暴力的手段を持って独立闘争を行ったこととは直接の関係はないんですよね。
私は、この映画のキーワードは「貧困」だと思っています。
貧困が対立の背景にある。
それが鮮やかに現れるのが、共和国裁判の高利貸しへの判決シーンでした。
老婆に500%という高利を吹っかけていた男を裁判官は有罪にするのですが、テディはその男が共和国側に武器を提供していることを理由に裁判所から連れ出してしまいます。
それに対してダン(デミアンが尊敬する男です)が「何のために戦っているのか」と激しく糾弾します。
ダンは、義勇軍に参加する前は鉄道労働者で労働闘争に参加した経験があります。
幼いときに貧しさのために妹を亡くしてもいます。(これらは台詞から推測できます)
だから、ダンに取って「独立」とは「イギリス支配からの解放」であると同時に「貧困からの解放」でなくてはいけない。
貧困の原因はイギリス支配だと思うからこそ、独立闘争に参加しているんです。
彼に取ってこの闘争は単なる民族主義的ものではなく階級闘争でもある訳です。
たとえ、武器の提供者であっても、アイルランド人であっても民衆を搾取する人物を許せないんです。
一方、テディは「神学校で男になった」とデミアンの台詞があったことから推測できるように、神学校で政治的思想に触れたと思われます。
さらに、裕福ではないが弟も医者を目指せるほどの家庭である。いわば知識人階級であると思われます。
だから、彼に取っての「独立」とは「イギリス支配からの解放」以上のものではない(「宗教的自由の獲得」もあるでしょうが)。
だから、彼には老婆の貧困が見えない。
それよりも高利貸しが提供する武器の方が重要なんです。
二人は、全く見ている夢が違う。
ここで、後の内戦に至る利害対立が予見されるわけです。
この映画は、こういうことをいちいち説明しないのですが他にも細かいシーンや台詞がいろいろと伏線になっていて、ものすごく練られた脚本だと思いました。
他にも、いろいろと感心する部分があったのですが、書ききれないのでこの辺にしておきます。
で、もちろん、貧困は現在にも通じている訳で。
監督はケン・ローチ。脚本はポール・ラヴァティ。
年末はダウンタウンのガキ警察を視聴しておりました故、某国営放送で裸祭りをしていたことも正月3日すぎるまで全く知らずにおりました。
さてさて、そんな世間知らずの年初めでしたが、久しぶりに旦那に子守りを任せて映画を見て参りました。
それも、近場のワーナー・マイカルとかじゃなくてわざわざ有楽町まで!
へっへっへ、久しぶりに映画を見て、銀座でちょっとおいしいもん食べて、目の保養して(買い物してじゃなくて)帰るぞー、なんて軽ーい気持ちでいったんですがね。
しかし、見ちまった映画が「麦の穂をゆらす風」>>「公式サイト」
1920年代のアイルランド独立闘争と内戦を描いた映画でした。
ストーリーは、二人の兄弟を軸にして進みます。
進学校に進みながらアイルランド義勇軍に加わった兄のテディと医者を目指した弟デミアン。
デミアンはロンドンの病院に勤務することになっていたのですが、ある事件をきっかけにロンドン行きを諦め兄とともに独立闘争に身を投じていきます。
裏切りや、治安部隊の過酷な弾圧など苦しい状況が続きますが、民衆に支えられたゲリラ戦は、やがてイギリス軍を追いつめ停戦をつかみ取ります。
しかし、その後、イギリスとアイルランドの間で結ばれた講和条約が新しい悲劇を招きます。
その講和条約が完全独立ではなく「自治領」としての権限しか与えられなかったこと、北部6州(北アイルランド)はイギリスに残ること、など人々の期待を裏切るものであったからです。
そのため、条約批准派と条約反対派の間に深刻な対立が生まれ、やがてそれは内戦に発展していきます。
それは、この前まで仲間として戦ったものがお互いに殺し合うという凄惨なものでした。
そして、テディとデミアンの二人にも深刻な対立が生まれていきます。
パンフレットに鳥越俊太郎氏が
「たとえどんなに立派な大義名分であろうとも、暴力(武力行使)の陰には必ず悲劇が生まれる。そんな思いがずっしりと胸に残る1作」と書いていました。
それは、その通りなんですけれど、反戦映画としてみるだけではこの映画を理解したことにならないのではないかと思うのです。
なぜなら、彼らの戦いは植民地支配に対するレジスタンスだから。「大義名分」は、間違いなくアイルランド側にある。
もしその戦いを否定してしまうのならば、彼らはどうやって独立をつかみ得るのかという問題がある。
それによって失うものもあるのだけれど。
ただ、内戦が生じたのは、彼らが暴力的手段を持って独立闘争を行ったこととは直接の関係はないんですよね。
私は、この映画のキーワードは「貧困」だと思っています。
貧困が対立の背景にある。
それが鮮やかに現れるのが、共和国裁判の高利貸しへの判決シーンでした。
老婆に500%という高利を吹っかけていた男を裁判官は有罪にするのですが、テディはその男が共和国側に武器を提供していることを理由に裁判所から連れ出してしまいます。
それに対してダン(デミアンが尊敬する男です)が「何のために戦っているのか」と激しく糾弾します。
ダンは、義勇軍に参加する前は鉄道労働者で労働闘争に参加した経験があります。
幼いときに貧しさのために妹を亡くしてもいます。(これらは台詞から推測できます)
だから、ダンに取って「独立」とは「イギリス支配からの解放」であると同時に「貧困からの解放」でなくてはいけない。
貧困の原因はイギリス支配だと思うからこそ、独立闘争に参加しているんです。
彼に取ってこの闘争は単なる民族主義的ものではなく階級闘争でもある訳です。
たとえ、武器の提供者であっても、アイルランド人であっても民衆を搾取する人物を許せないんです。
一方、テディは「神学校で男になった」とデミアンの台詞があったことから推測できるように、神学校で政治的思想に触れたと思われます。
さらに、裕福ではないが弟も医者を目指せるほどの家庭である。いわば知識人階級であると思われます。
だから、彼に取っての「独立」とは「イギリス支配からの解放」以上のものではない(「宗教的自由の獲得」もあるでしょうが)。
だから、彼には老婆の貧困が見えない。
それよりも高利貸しが提供する武器の方が重要なんです。
二人は、全く見ている夢が違う。
ここで、後の内戦に至る利害対立が予見されるわけです。
この映画は、こういうことをいちいち説明しないのですが他にも細かいシーンや台詞がいろいろと伏線になっていて、ものすごく練られた脚本だと思いました。
他にも、いろいろと感心する部分があったのですが、書ききれないのでこの辺にしておきます。
で、もちろん、貧困は現在にも通じている訳で。
監督はケン・ローチ。脚本はポール・ラヴァティ。
年末年始お疲れさん♪
そんでもって貧困を支えているのが、差別なんだろうな。
奈々子さんもお疲れさん。
やっと学校が始まったね。