数奇な歴史を持つ長母寺
矢田川河川敷
僕が通う水彩画教室のスケッチ会が27日、名古屋市の東・守山両区境の矢田川河畔でありました。講師で昨年「名古屋力 妖怪篇」と題する本を出版した山田疆一先生が、少年時代を過ごし妖怪の世界にはまるきっかけになった舞台のひとつ。妖怪にはあまり興味のない僕ですが、数奇な歴史を物語る寺院や城跡、そして春真っ盛りの景色を楽しんできました。
名鉄瀬戸線矢田駅に集合したあと、東区側と守山区側を歩くコース。まず長母寺(東区矢田)を訪ねました。
長母寺は1179年に地元の領主が母親の供養のために建立、天台宗の寺として開基したといわれます。しかし消失。1263年の再建後には臨済宗の住職を迎えて、名称も桃尾寺から長母寺と改められたそうです。
この寺は、所在地が自然の猛威によって、守山区側から東区側に移ったという歴史もあります。寺ごと吹き飛ばされたなんてことではありません。地域の境界線である矢田川が1767年の大洪水で大きく流路が変わり、右岸である守山区側だった長母寺の所在地は左岸の東区側に位置することになったのです。
川の流路が氾濫によって大きく変わった例は無数にありますが、改めて自然のすごさを感じます。
また、長母寺は信長から寄進を受ける一方で、秀吉からは検地によって寺領を没収されるという、政権交代に伴う盛衰も経験しました。濃尾地震(1891年)では本堂が倒壊。「尾張万歳の発祥地」という歴史も持っているそうです。
矢田川橋を渡り、守山区側に入って足を止めたのが、信長、秀吉、家康が覇権争いの主役になる以前の名残といえる守山城址と宝勝寺。守山城は平野の丘陵に建てられた平山城(ひらやまじろ)で、築城・廃城の年は定かではありませんが、宝勝寺の脇に堀や土塁などの遺構があります。
この城では、歴史の「if」として語られる出来事がありました。
世に言う「守山崩れ(森山崩れ)」です。
1535年12月、三河一帯を統一して有力な戦国武将に躍り出た岡崎城主の松平清康(徳川家康の祖父)が、織田信秀(信長の父)の支配する尾張に勢力を広げようと織田家の出城になっていた守山城を、圧倒的な力で攻め落とします。ところが、世は疑心暗鬼が渦巻く戦国時代です。
清康軍内で謀反を企てている家臣がいる、との噂が広がっていました。
そして、清康軍が守山城を制圧した夜、陣内で馬が暴れる騒ぎに謀反が起きたと勘違いした清康の側近たちが噂の家臣を殺害。陣内でそれを知った家臣の嫡男が、親の仇討として清康を討ったのです。
宝勝寺は清康のために建立されたと言われています。
もし、勘違いが起きなければ、天下取りの歴史はどうなっていたでしょう。「if」の所以です。
こうした歴史物語とは別に楽しかったのは、公園や矢田川河川敷ウォーキング。
開花宣言が出て間もないサクラは、まだ「咲き始め」といったところでしたが、春の光を浴びたモクレンやコブシ、ユキヤナギ、ツバキ、そして矢田川の水面などを欲深くカメラに収めてきました。
※矢田川が洪水で流路を変化させ、長母寺の所在地が変わった経緯がネットに分かりやすく掲載された「元守山村・長母寺」と題するページがありました。
www.geocities.jp/moriyamamyhometown/moris52.htm?
サクラは「咲き始め」でしたが、コブシやモクレンなどは満開でした