風の遊子(ゆうし)の楽がきノート

楽描き水彩画「教室スケッチ会②名古屋商人の聖地・四間道(しけみち)」

 




1610年代に、天下の覇権を握った徳川家康が豊臣方の残存勢力に対抗するため、信長の拠点であり尾張国の要であった清須城(現在の愛知県清須市)を地盤の強固な名古屋へ、家臣や町民ともども移転(清州越し=きよすごし)しました。これに伴って移住してきた商人たちが遺したのが「四間道」です。
名古屋市の町並み保存地区として、都心のちょっとしたオアシスです。

家康が建築資材などの運搬手段として現在の名古屋港との間に掘削、建設した堀川運河沿い。木材だけでなく、米屋や塩、酒、味噌などを扱うさまざまな商いの町として繁栄しました。
1700年に1600軒が焼けたといわれる大火を機に、尾張藩は防火と延焼防止のため幅4間(約7㍍)の道路を建設。これが四間道と呼ばれようになった所以です。

尾張藩の防火策は土蔵の建設にも及び、石垣の上に土蔵を造るように奨励して防火帯を強化、見事な白壁の土蔵が並ぶ問屋街に改造しました。
名古屋大空襲の被災も比較的少なくて済み、現在は土蔵や町屋を生かした懐石料理の店やレストラン、カフェなどが並び、落ち着いた散策路が続きます。

民家の軒下を飾る季節の花。所々にある雨水を貯めた水槽は、防火用水としてだけでなく、通りの打ち水にも活躍しているのでしょう。
再開発でビルが取り壊されて現れた老朽家屋。その背後には急速に建設が進む名古屋駅前の超高層ビルの姿も。ちょっと難しそうだけど、絵になる風景に次々出会いました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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