歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪石川九楊『中国書史』を読んで その6≫

2023-03-05 18:00:09 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その6≫
(2023年3月5日投稿)

【はじめに】


 今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 今回は、本論の次の各章の内容である。
●第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力
●第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」

ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘稿」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力
・鄭道昭の書と高村光太郎の評語
・鄭道昭の書の魅力
・書史の座標上の鄭道昭と欧陽詢と顔真卿
〇第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
・紙が勝利する条件
・紙と毛筆
・草書体、行書体、楷書体
・「一折法」、「二折法」、「三折法」
・4世紀から7世紀の書史の概略
・筆触、刻蝕、筆蝕と具体的な書との対応関係
・風蝕の美



第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力


鄭道昭の書と高村光太郎の評語


高村光太郎は、エッセイの中で次のように書いている。
「外側ばかりを気にするな。内の力をまづ養へ。顔真卿的な力はあとでいい。まづ鄭道昭的な心力を得よ」(「寸感」)

そして、「書について」の中で、次のように記す。
「漢魏六朝の碑碣の美はまことに深淵のやうに怖ろしく、又実にゆたかな意匠の妙を尽くしてゐる」
高村光太郎は、鄭道昭の書も思い浮かべて、「漢魏六朝の碑碣」と言ったはずであるから、「鄭道昭の書は深淵のように怖ろしく、実にゆたかな意匠の妙を尽くしてゐる」と言ってもいることになる、と石川氏は解釈している。

高村の「書について」の続きに次のようにある。
「しかし、其は筆跡の忠実な翻刻といふよりも、筆と刀との合作と見るべきものがなかなか多く、当時の石工の技能はよほど進んでゐたものと見え、石工も亦立派な書家の一部であり、丁度日本の浮世絵に於ける木板師のやうな位置を持つてゐたものであらう。(中略)かかる古碑碣の美はただ眼福として朝夕之に親しみ、書の淵源を探る途として之を究めるのがいいのである。」

ここにおいて、碑碣の美を書者と刀工の合作と見る高村の視点は、さすがにすぐれた彫刻家である、と石川氏は賞賛している。
ただ、石川氏は、書と刻との問題について、付言している。つまり、甲骨文の時代には刻者以外に書者は存在しなかったように、高村や我々の想像をも超える、書と刻との関係にあったと。
「碑碣の美」つまり「刻字の美」を語るためには、もう一歩、拓本の美の秘密に分け入っていくべきだとする。すなわち、碑碣刻字の美は拓本の美を抜きには語れないというのである。

ところで、「民芸」運動を提唱した柳宗悦は、「拓本の効果に就いて」の中で、拓本の美について述べ、「書者の美学」「刀工の美学」「風蝕の美学」「拓本の美学」の四回転の果てに、碑碣拓本の美が存在することを主張している。
(石川、1996年、143頁)

鄭道昭の書の魅力


このような拓本の美を除外して、鄭道昭の書の魅力については、語りにくい。つまり鄭道昭の魅力を考える時には、凹凸をもった立体的な三次元的造形を白と黒との平面的な二次元の世界に写し変える手法である「拓本の美学」を抜きには考えられない、と石川氏は考えている。

そして、鄭道昭の書、実は拓本の魅力は、相当部分を石の剥落や摩滅、苔蘚のフロッタージュ(物の表面に紙を当て、上からコンテや墨でこすって物の形状や状態を写しとる手法)の魅力、つまり「風蝕の美学」に負っているとする。
すなわち、浮き出た痕跡の形象、それ自体が興味深いというのではなくて、その背後に、その磨耗形に導いたところの、自然の「風蝕力」をも是とするところのアジア的な自然観の参加が鄭道昭の書(拓本)を魅力的なものとすると、石川氏はみている。自然と人間との交歓の物語への共感なしに、自然石に文字の刻られた摩崖拓本の美は共有されない。
この「風蝕の美」の極北が、後漢代の「開通褒斜道刻石」(66年)であり、また清代篆刻家による「風蝕の美」の制度化の上に近代篆刻(印)の美は成立しているようだ。

鄭道昭の「鄭羲下碑」にせよ、「鄭羲上碑」「論経書詩」「観海童詩」にせよ、その魅力は「風蝕の美学」と分かちがたく結びついている。
風化した岩肌の中に文字が埋まっているという質感と温度感が鄭道昭の書の魅力と深いかかわりをもっている。
そして、「摩崖の美学」が鄭道昭の書を語る時には無視できない。摩崖は、自然の石に刻られているという物的規模(スケール)感をひきつれている。人工的に切り取られた石材に文字の刻られた石碑文と違って、自然の中にある岩や石に文字が刻られている摩崖の本質に「摩崖の美学」は生じている。
だから、摩崖の書は、北魏の造像記や墓誌銘、また「張猛龍碑」や「高貞碑」と異なった風合いを醸している。
「開通褒斜道刻石」「石門頌」「楊淮表紀」「石門銘」そして「鄭羲下碑」や「論経書詩」という、時代も書体も異なった書において、共通の美を感じることがあるとすれば、東アジア的自然観に裏打ちされた、字画と岩の裂け目の二重性に負っている、と石川氏は考えている。

さて、柳宗悦の「四度の輪廻」説は、平板で、やや図式的に過ぎる、と石川氏は批判している。「刀工の美学」については、高村光太郎の方が立体的にとらえていると評価している。高村は、「筆と刀との合作」と言い、「当時の石工も亦立派な書家の一部」と言って、「書家の美学」と「石工の美学」とを有機的、立体的にとらえ、並列的にそれを配する誤りを犯していないという。
鄭道昭の書や碑碣の書は、「刻られて在る」以外には存在しえず、書家と石工とは不可分のものである。摩崖の書は「刻られて自然の中に在る」以外には存在しようがない。
甲骨文や金文をもちだすまでもなく、書は元来刻られて在るもの、いわば凹みであった。この本性は亀甲や骨片に発して、自然そのものに直截に奥深く刻まれる展開過程を確実にもつ。その点で摩崖書は自然を背景に人工的文字を配するという書の本性の行き着いた具象的解答である、と石川氏は理解している。
(石川、1996年、143頁~146頁)

書史の座標上の鄭道昭と欧陽詢と顔真卿


鄭道昭の書の魅力を考える時、高村光太郎が、「顔真卿的力」「鄭道昭的心力」を対比した評語は示唆に富んでいる、と石川氏はみている。

たとえば、簡単な書道史年表を作り、鄭道昭の「鄭羲下碑」(511年)と顔真卿の「顔氏家廟碑」(780年)を書き込んでみても、これだけでは何の意味も見えてこないようだ。
ここに欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)を書き込む時、この年表は重大な意味を証しはじめるという。
欧陽詢を対称軸に、この年表を折り畳むと、鄭道昭と顔真卿とはほぼ重なる位置にくる。鄭道昭の書が初唐代の典型的楷書の一歩手前に位置し、顔真卿の書が一歩後に位置している。つまり、初唐代の典型的楷書の前後に書史上の二人の巨人の書が生まれていることをこの年表は証している。

書を鑑察する時、無心の状態で対しているのではなくて、初唐代の楷書から距離によって、その書を鑑察し、魅力を測っているらしい。
北魏の石刻楷書はそれ自体としては完成された書字システムをもっている。にもかかわらず、書史の座標上では、かぎりなく完成に近づきながら、未完であるという位置に属している。

北魏の書の書字的特徴は、次の点が挙げられるとする。そして鄭道昭の書もまた、この書史的未完の魅力の中に包含されているとする。
・横画の長さを揃える傾向を残し、横画相互の間隔をつめた字画構成
・下部が膨らむ文字造形
・過度に引き伸ばされる撥ねやはらい
・大きく肩を落とす転折
・偏と旁の形の位置の落差
・横画の強い右上がり
・字画傾斜角度や字粒の不定

北魏の書の中でも鄭道昭の書がとりわけ高い評価を得る理由として、「摩崖の美学」(「拓本の美学」「風蝕の美学」)が挙げられる。
また「鄭羲下碑」と、「張猛龍碑」「高貞碑」とを較べての差は、次の3点にあると指摘している。
① 横画相互の間隔が後者よりもやや開いていること
② 字画がたおやかな反りをもつこと
③ 字画相互の微細な連結関係が書き込まれていること

鄭道昭の書が他の北魏の書を抜きん出るところは、多数の摩崖に巨大な文字を刻りつけ、その風蝕に格別の魅力があるということにつきる、と石川氏は捉えている。
その意味で、高村光太郎が言うように「かかる古碑碣の美はただ眼福としての朝夕之に親しみ、書の淵源を探る途として之を究める」のがよいとする。
(石川、1996年、146頁~147頁)

第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」


紙が勝利する条件


西暦紀元頃の中国、後漢代から六朝期を経て、隋唐代に至る650年は、書史上の重大な鍵を握る時期である。
ギリシア・ローマ、イスラム、中国の三大文明圏が、文字を言葉の構造に組み込み、言葉=文字という逆転構造を成立させた西暦紀元頃、世界史は重大な転換期を迎える。むろん、紀元前、紀元後という区切りそのものがそうである。
書史上においては、「紙・筆・墨」のトリオの成立、つまり表現の抽象性の獲得への条件が西暦紀元頃整った。これは一大事件である。しかし条件が整うことと、実際にそれが実現することとの間の時間的なずれは避けられない。

西暦紀元頃から王羲之の時代までがほぼ350年。350年かかって、「紙・筆・墨」のトリオが抽象的な表現空間にふさわしい表現を生み落とした。それが、王羲之筆になぞらえる草書体の誕生である。篆書体や隷書の省略体として、木簡や竹簡に生まれた草書体(章草、独草)が、木簡や竹簡に生まれたその出生の痕を消し去って、上下、左右、四方八方に力のベクトルを出す新しい草書体(今草)へと生まれ変わった。その象徴が王羲之であり、王羲之が書聖と讃えられる理由である。その新草書誕生に同伴した言葉が尺牘=手紙文である。
手紙文と草書体の美しい成立によって、「紙・筆・墨」は、木簡や竹簡はもとより石にまさる表現空間となった。
(石川、1996年、150頁)

紙と毛筆


木簡や竹簡、帛(きぬ)という準備期を経て、紙・筆・墨の時代になって、書の歴史的段階は、それまでとは比較にならない段階へと圧し上げられたようだ。
文字が骨に刻られているかぎりにおいては、書の表現範囲は、硬さや繊維の方向など骨の具体的性質から離れられない。同様に、石に刻られているかぎりにおいては、硬さやもろさなど石の属性から離れられない。

石に刻られる「刻られる書」が、紙に書かれる「書かれる書」に転じたことは、単に素材上の変化にとどまるのではない。石などの具体的対象の性質から離れられない宿命をもっているかに思えた書が、それらの具体的な自然物の性質から脱して、抽象的な表現空間としての白紙を発見した。それが表現としての紙の発見の意味である、と石川氏は解している。

毛筆というのは軸に獣毛を差し込んだその形状、愛用された時代からいって、時代遅れの筆記具であると考えている人が多い。しかし、それは大きな誤りである。筆記具としては、最尖端の筆記具であり、抽象度の高い表現具であるという。
ペンや万年筆など、いわゆる硬筆は鑿に近い筆記具であり、書字の現場である紙の上に凹みを残す。硬筆における筆蝕は、いくぶんか力の跡、刻蝕を具象的に凹みとして残している。だから、部屋の中央にぶら下げた紙に硬筆で文字を書くことはできない。

しかし、毛筆の場合には、中空にぶら下げた紙にも、十分にではなくても書くことはできる。書字上の力がもはや直截な力ではなく、抽象的な力、刻蝕から完全に離脱した抽象度の高い筆蝕に転じているからと、石川氏は考えている。毛筆は、具体的、現実的な力を、表現上の抽象化した力として表すことができるというのである。
「石・鑿・影」が、「紙・筆・墨」に転じた時、具象的な石の刻り跡と影もまた、抽象的な墨跡として、筆蝕を湛えるようになった。
(石川、1996年、148頁~150頁)

草書体、行書体、楷書体


書史上の事実から言えば、隷書体と同時ないし、その後に生まれる書体は草書体である。次いで行書体であり、最後に生まれる書体が楷書体である。

通常考えられているように、楷書体をくずして行書体が、行書体をくずして草書体が生まれたのではない。事実はまったく逆である。にもかかわらず、一般にそう信じられているのは、楷書体、行書体、草書体の間に共通するものがあって、大きくはひとくくりのグループ書体として考えてよい質をもっているからであるようだ。

隷書体との対比で言えば、草書体こそが新生の書体であった。草書体が正書体を目指して姿を変えながら突き進む姿が行書体であり、ついに正書体に届いた姿が楷書体である。
楷書体というのを、便宜的に、北魏の鄭道昭の書や「龍門造像記」、六朝期の一連の「墓誌銘」や「写経」を含めても、さしつかえはないが、問題も残る。
たとえば、この観点からは、北魏の楷書と初唐代の楷書とは、並列的な書風の違いにしかならない。ここからは、「力感みなぎる鄭道昭の楷書は最高だ」「いやいや唐代の楷書の整斉には及ぶべくもない」という嗜好の違いばかりに焦点があたってしまう。
加えて、この観点からは、なぜ初唐代の欧陽詢の「九成宮醴泉銘」が楷書の「極則」と言われるのか、事実その後「九成宮醴泉銘」の美をおびやかすような楷書が、なぜ生まれないのか、こうした疑問を解くことができない。

さて、造形的、表面的には、楷書体は隷書体に似ている。波磔を消し去れば、楷書体に似ると思えなくもない。
しかし、隷書と楷書とでは、決定的な違いがいくつかある。
・隷書は、横画水平の基本構成原理をもつ。
・そして隷書は、書字のベクトルも横方向強調である。
・一方、楷書は横画右上がりである。
・また、書字のベクトルは求心・遠心、つまり中心点をもち、草書体と同一原理に成立している。

このように、隷書体と楷書体は基本構造が異なっている。ほんとうは楷書の深層には、草書体が眠っているそうだ。
(楷書体はその奥層に行書体を眠らせ、またもっと下部に草書体を眠らせている)

草書体が生まれなければ、現代の楷書のような姿は決してありえなかった。つまり、正書体に近づこうとしている草書体の第一段階の姿が行書体であり、ついに正書体に届いた姿が楷書体である。
その点で六朝時代の、写経、墓誌銘、造像銘、碑、摩崖上の書体は、表面的には楷書体だが、本質としては、行書体と考えてもよい。たとえば、「鄭羲下碑」の冒頭部に例をとれば、「令」の下部、「秘」の点の形状、「安」の転折部が指摘できるようだ。

(我々が日常書く文字でも、行書体や草書体のほうが基盤にあり、それを社会的に通行させようとする度合いが強くなるにつれて楷書体に近づいていく。目上の人に出す文書や履歴書の場合、ていねいに楷書性を強めて書くことになる。つまり、書字の現場では、楷書がくずされて行書や草書になるのではなくて、歴史的な展開と同様に、草書や行書が硬書化して楷書体となる。楷書が先にあるというのは、教育的方便であるか、あるいは権力的な逆転した発想であるともいう)
(石川、1996年、150頁~152頁)

「一折法」、「二折法」、「三折法」


石川氏は、「一折法」「二折法」「三折法」を次のように想定している。
① 「一折法」~起筆も終筆もなく、「スー」と縦画や横画を書く書き方
② 「二折法」~「スー」と引いて終筆で「グー」と止めたり、逆に起筆で「トン」と入って、「スー」と引く字画の書き方
③ 「三折法」~起筆で「トン」と入って、送筆を「スー」と引き、終筆で「トン」と止める書き方

現在の習字では、「三折法」を教える。初心者が筆を持った時、苦労する箇所は、「起筆、終筆、転折、撥ね、はらい」である。
我々は漠然と、「起筆、終筆、転折、撥ね、はらい」にこそ、毛筆の本領があるように考えている。ここに毛筆を扱う本領があることは事実であるが、これらの書法は、逆に毛筆には備わっておらず、毛筆にとっては苦手で不得意な書字法である、と石川氏は説明している。
硬筆同様、毛筆に適した書字法は「三折法」ではなく、「スー・トン」、「トン・スー」式の「二折法」である。木簡や竹簡に見られ、現在の日本の書道界に流行の感がある、転折部を折らない「二折法」こそが、毛筆に適した合理的な書字法であるという。

紀元350年頃の書字法は、基本的に毛筆の合理性に従った「二折法」で書かれていたと考えられている。
(西川寧氏が指摘し、石川氏も、第10章「蘭亭叙八柱第一本」の中の文字の一部に確認している)
そして、紀元350年頃の書字法(二折法)は、「紙・筆・墨」の表現上の勝利の証しであった。
だが、その後300年かけて紙が正書体として勝利する過程で、毛筆にとって合理的な「二折法」は、毛筆にとって不合理的な「三折法」に転じざるをえなかった。毛筆にとって不得意な「起筆、終筆、転折、撥ね、はらい」こそは、草書体つまり紙が正書体たる石に勝利するために、妥協し吸収した石の刻り跡の痕跡であるとする。

今、仮に墓石に字を刻るとする時、草書体や行書体では、少しまずいと考える。それはなぜか。
習慣、慣例の問題ではなく、草書体は石ではなく、白紙という抽象空間に展開する書体だから、と石川氏は答えている。現在でもそうであるから、紀元350年頃誕生した新生の草書体が、正書体の位置を占めることは容易ではない。
表紙上勝利した紙、つまり草書体が石に勝利して正書体の位置を獲得するためには、石を紙と等質の表現空間に変える必要があったようだ。いわば、石碑を紙でつくられた「紙碑」に変えることができれば、草書体は石に勝利し、正書体としてとって代わることができる、と石川氏は考えている。
(石川、1996年、152頁~153頁)

4世紀から7世紀の書史の概略


具体的な書についてみてみよう。
虞世南の「孔子廟堂碑」が630年頃、欧陽詢の「化度寺碑」が631年、「九成宮醴泉銘」が続く632年に生まれている。
これらの石碑では、「起筆・終筆・転折・撥ね・はらい」の大仰な三角形はすっかり影をひそめている。
石を刻る時に避けられない鋭利な三角形の刻字様式である刻蝕を筆蝕が吸収し、溶かし込んだ。これは紙に書かれた筆蝕が石に刻られた刻蝕に勝利した姿であると捉える。

その頂点に達した姿は、653年の褚遂良の「雁塔聖教序」にある。「雁塔聖教序」は刻字のあらゆる様式性を排し、紙の上に書かれたそのままの姿で成立している。つまり「雁塔聖教序」は、「紙碑」、紙で出来た碑である(第18章参照のこと)。
ここに、紙は完全に石の位置を奪い、草書体は楷書体と化すことによって、正書体の位置を奪った。

そして、驚くべきことに、この頃、実際に唐太宗の揮毫による行草書体の碑が生まれている。646年の「晋祠銘」と、648年の「温泉銘」がそうである。「晋祠銘」の飛白体風の題額には、力こぶの入った起筆や、速度感を表現するかすれなどが表現されている。
これらの書は、誰もが確認しやすい紙=草書の勝利の姿、紙の上で展開される筆蝕のめくるめく、力、深度、速度の麗姿である。
石と刻蝕は、この時に紙と筆蝕に「ばんざい」し、書の歴史の舞台を下りた。時代は草書体、行書体、楷書体の時代となる。
宋代の三大家(蘇軾、黄庭堅、米芾)以降、石碑の書に時代を画するような書が生まれない理由でもある、と石川氏は考えている。「三折法」=「三過折」は普遍的な位置を獲得し、これ以降、行書体も草書体も「三過折」を下敷きに成立することになった。
(「蘭亭叙」の「八柱第二本」が明らかに宋代の特徴を備えていると見当がつく理由でもあるらしい)
(石川、1996年、153頁)

筆触、刻蝕、筆蝕と具体的な書との対応関係


ここで、筆触、刻蝕、筆蝕と具体的な書との対応関係をまとめておこう。
① 筆触 
「姨母帖」(4世紀) 「喪乱帖」(4世紀)
② 刻蝕
「中岳霊廟碑」(拍子木型)(456年)
「始平公造像記」(両端三角型)(498年)
  「趙猛龍碑」(522年)
③ 刻蝕(筆触を露出しはじめた)
「鄭羲下碑」(511年)
「高貞碑」(523年)
  「龍蔵寺碑」(586年)
④ 筆蝕(刻蝕を呑み込んだ)
「九成宮醴泉銘」(632年)
  「雁塔聖教序」(653年)

王羲之から宋代までの書史の略史は次のようになる。
王羲之に仮託される4世紀半ば頃の草書体が、唐の太宗皇帝によって集められたのは、このような草書体=紙の、石に対する勝利を背景に考えた時、その歴史的必然性をはっきりと確認できる。
王羲之の草書や行書には楷書の姿はないが、蘇軾や黄庭堅、米芾の行書や草書は、その奥に楷書の姿を埋めこんでいる。それが王羲之の書のアルカイックな美の源泉である。そして宋の三大家の書の複雑で鮮やかな美のよってきたるところである。

鄭道昭ら北魏の書は、楷書にのぼりつめる途上の書である。つまり草→行→楷の上昇過程での、草書体を下敷きとした行書体とでも呼ぶべきものである。
初唐代を過ぎてからの顔真卿らの書は、楷書を下敷きにした、楷→行→草の下降過程の書である。
したがって、初唐代を分水嶺として、それ以前の草、行、楷書と、それ以降の楷、行、草書とは、趣を異にし、区別して考えたほうがよいとする。
(石川、1996年、153頁~154頁)

風蝕の美


鄭道昭の書というのは、わかりにくい書である、と石川氏はいう。
なるほど、「鄭羲下碑」の本文部分などは、力を内に含んだようなところがあって、魅力的な書である。
ただ、「鄭羲下碑」の題額に相当する「熒陽鄭文公之碑」の部分が、おそらく最も忠実に鄭道昭の書字の姿を残しているものだろうとみられている(この点、拓本研究家・伊藤滋氏の見解を支持している)。

鄭道昭の書が、「鄭羲下碑」の題額のように、摩耗もせずに、鋭い起筆、終筆の姿をさらしていたなら、現在のような評価はない、と石川氏はみている。
「鄭羲下碑」の本文部分がいとおしい姿としてあるのは、起筆、終筆が角を落として丸みを帯び、おだやかになり、それゆえに内に力を含んだ(力が解放されない)表情と化しているためであるとみている。つまり摩崖である魅力と、風雨にさらされた風化・風蝕の魅力をぬきに、「鄭羲下碑」の魅力は語りえない。

この風化と風蝕の部分を差し引き、刻り方からくる部分を引き算したら、490年代の「龍門造像記」、さらには510年代から520年代の北魏の墓誌銘や造像記や写経の文字と、どれほどずれているかを指摘することは難しい。
「鄭羲下碑」の魅力の大部分は、摩崖の書であることと、風化風蝕に帰すことができるとみている。
(この表現が鄭道昭固有のものだとはっきり指摘できるまでの用意は今のところ石川氏はないと断っている)
「鄭羲下碑」本文(拓本)の魅力は刻蝕の美、筆蝕の美のほかに、天然自然が作者たる風蝕の美にある、と石川氏は強調している。
(石川、1996年、154頁)



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