歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫)の序説のまとめ~交換様式論≫

2022-10-17 18:05:35 | ある高校生の君へ~勉強法のアドバイス
≪柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫)の序説のまとめ~交換様式論≫
(2022年10月17日投稿)

【はじめに】


 世界史は日本史より、わかりにくく、難しいといわれる。
 私の知り合いの高校生も、そう言っていた。
 各国もしくは各地域の歴史の関係がよくつかめないらしい。何か世界史の叙述に一貫性が感じられないようだ。確かにそうかもしれない。
 世界史を捉える際に、何か一定の原理みたいなものはないのか? 
 世界史に流れる一本の筋道みたいなものを元に叙述された本がある。
〇柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]
 これがそうである。
 柄谷行人氏の『世界史の構造』は、そうした世界史嫌い、嫌いとまではいかなくても、世界史への不満をある程度解消してくれるかもしれない。
 世界史の構造を、交換様式の観点から叙述している。
 その際に、世界史にまつわる様々な問いに対する答えを用意している。たとえば、
☆なぜギリシアやローマで、専制国家の体制ができなかったのか。
☆世界史の中で、日本史はどのように位置づけられるのか。
☆西洋の封建制と日本のそれとはどのような違いがあるのか。

こうした問題意識をもって、柄谷行人氏の『世界史の構造』を読むと、その答えが導き出されるかもしれない。
ただ、この本は読みやすい本ではない。
 たとえば、カント、ヘーゲル、マルクスなど哲学や経済学、ウェーバーなどの社会学、ウォーラーステイン、ウィットフォーゲルなどの歴史学、はたまたフロイトの精神分析学といった学際的な議論が随所に出てくる。
 本格的な紹介は、後日に譲るとして、まずは序説の交換様式論を主に紹介してみたい。
 あわせて、序説以外の各章をメモ風にまとめてみた。




【柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫)はこちらから】
柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫)






【目次】
柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫の目次
序文
序説 交換様式論
第一部 ミニ世界システム
 序論 氏族社会への移行
 第一章 定住革命
 第二章 贈与と呪術

第二部 世界=帝国
 序論 国家の起源
 第一章 国家
 第二章 世界貨幣
 第三章 世界帝国
 第四章 普遍宗教

第三部 近代世界システム
 序論 世界=帝国と世界=経済
 第一章 近代国家
 第二章 産業資本
 第三章 ネーション
 第四章 アソシエーショニズム

第四部 現在と未来
 第一章 世界資本主義の段階と反復
 第二章 世界共和国へ


あとがき
岩波現代文庫版あとがき




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・序説 交換様式論~交換様式のタイプ
・権力のタイプ
・社会構成体の歴史
・近代世界システム

〇以下、序説以外の第1部第1章 定住革命などのメモ風まとめ






序説 交換様式論~交換様式のタイプ


柄谷行人『世界史の構造』(岩波現代文庫)の目次を見てもわかるように、柄谷行人氏の主張の根幹は、「序説 交換様式論」の「2交換様式のタイプ」にある。序文には「本書は、交換様式から社会構成体の歴史を見直すことによって、現在の資本=ネーション=国家を越える展望を開こうとする企てである」、とある。(序文、iii頁)

〇交換様式は、互酬、略取と再分配、商品交換、そしてXというように、四つに大別される。
・これらは図1のようなマトリックスで示される。
 【図1 交換様式】






B 略取と再分配(支配と保護) A 互酬(贈与と返礼)
C 商品交換(貨幣と商品) D X


 これは、横の軸では、不平等/平等、縦の軸では、拘束/自由、という区別によって構成される。
・さらに、図2に、それらの歴史的派生態である、資本、ネーション、国家、そして、Xが位置づけられる。
 【図2 近代の社会構成体】
   B 国家   A ネーション
   C 資本   D X

・つぎに重要なのは、実際の社会構成体は、こうした交換様式の複合として存在するということである。
 歴史的に社会構成体は、このような諸様式をすべてふくんでいる。
・部族社会では、互酬的交換様式Aがドミナントである。
 (それはBやCが存在しないことを意味するのではない。たとえば、戦争や交易はつねに存在する。)
 が、BやCのような要素は互酬原理によって抑制されるため、Bがドミナントであるような社会、つまり国家社会には転化しない。
・Bがドミナントな社会においても、Aは別なかたちをとって存続した、たとえば農民共同体として。また、交換様式Cも発展した、たとえば都市として。
だが、資本制以前の社会構成体では、こうした要素は国家によって上から管理・統合されている。交換様式Bがドミナントであるというのは、そのような意味である。
・交換様式Cがドミナントになるのが、資本制社会である。
 資本制社会では、商品交換が支配的な交換様式である。
 だが、それによって、他の交換様式およびそこから派生するものが消滅してしまうわけではない。他の要素は変形されて存続する。国家は近代国家として、共同体はネーションとして。
つまり、資本制以前の社会構成体は、商品交換様式がドミナントになるにつれて、資本=ネーション=国家という結合体として変形される。
(こう考えることによってのみ、ヘーゲルがとらえた『法の哲学』における三位一体的体系を、唯物論的にとらえなおすことができるという。さらに、それらの揚棄がいかにしてありうるかを考えることができるとする)
※マルクスが解明しようとしたのは、商品交換様式が形成する世界だけであった。それが『資本論』である。
だが、それは他の交換様式が形成する世界、つまり国家やネーションをカッコに入れることによってなされた、と柄谷行人氏は考えている。

<柄谷行人氏の試み>
〇異なる交換様式がそれぞれ形成する世界を考察するとともに、それらの複雑な結合としてある社会構成体の歴史的変遷を見ること。
〇さらに、いかにしてそれらを揚棄することが可能かを見届けること。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、8頁~18頁)

3権力のタイプ


3権力のタイプ
 さまざまな交換様式から生じる権力(power)について考えてみよう。
 権力とは、一定の共同規範を通して、他人を自分の意志に従わせる力である。
 まず共同規範には、三つの種類がある。
①共同体の法
②国家の法
③国際法

①共同体の法
 これは掟と呼んでもよい。
 これが明文化されることはほとんどないし、罰則もない。
 しかし、この掟を破れば、村八分にされるか追放されるので、破られることはめったにない。

②国家の法
 これは共同体の間、あるいは多数の共同体をふくむ社会における法だといってもよい。
 共同体の掟がもはや通用しない空間において、国家の法が共同規範として登場する。
 
③国際法
 国家間における法である。
 すなわち、国法が通用しない空間における共同規範である。
 
もう少し詳しくみてみよう。
①共同体の法
・権力のタイプもこうした共同規範に応じて異なる。
 重要なのは、こうした共同規範が権力をもたらすのではないということである。
 逆に、こうした共同規範は、一定の権力(パワー)なしには機能しない。
 通常、権力は暴力にもとづくと考えられる。だが、それが妥当するのは、国家の共同規範(法)に関してだけであると、柄谷氏は注意している。

・贈与することは、贈与された側を支配する。返済しないならば、従属的な地位に落ちてしまうからである。ここでは暴力が働いていない。
 むしろ、一見すれば無償的で善意にみちたものであるようにみえる。にもかかわらず、それは暴力的強制以上に他人を強く制する。
 大事なのは、互酬交換に一種の権力が付随するということである。

②国家の法
・共同体の外、あるいは、多数の共同体が存在する状態では、共同体の掟は機能しない。したがって、共同体を越えた共同規範(法)が必要となる。しかし、それが機能するには、強制する力が必要である。それは実力(暴力)である。
・ウェーバーは、国家権力は独占された暴力にもとづくといっている。
 しかし、たんなる暴力では共同規範を強制するような力とはなりえない。
 国家は、実際には、ある共同体が暴力をもって他の共同体を支配することにおいて成立する。が、それを一時的な略奪ではなく恒常的なものとするためには、この支配を、共同体を越えた共同規範にもとづくようにしなければならない。国家はそのときに存在する。
 (国家の権力は暴力に裏づけられているとはいえ、つねに法を介してあらわれるのである)

・共同体の掟を強いる力が互酬交換に根ざしているように、国家の法を強いる力も、一種の交換に根ざしている。そのことを最初に見出したのがホッブスであるという。彼は国家の根底に、「恐怖に強要された契約」を見た。
 このことは、国家の権力が、暴力的強制だけでなく、むしろ、それに対する(自発的な)同意によって成り立つことを意味している。
 重要なのは、国家の権力は、一種の交換様式に根ざしているということである。
③国際法
・国家間における法、すなわち国法が通用しない空間における共同規範は、いかにして存在するのか。
 ホッブスは、国家間は「自然状態」であり、それを越える法はない、という。
 しかし、現実には、国家間の交易がなされてきた。そして、この交易の現実から生まれてきた法がある。それがいわば「自然法」である。
 これを支えるものは、共同体や国家の力ではない。商品交換の中から生じてきた力(具体的には貨幣の力)である。

・商品交換は共同体と共同体の間に発生したことは、マルクスが強調した。
 そこで成立したのは、一般的等価物(貨幣)による交換である。これは、「商品世界の共同作業」(マルクス)の結果である。
 柄谷氏は、これを商品の間の社会契約だという。
 国家と法がなければ、商品交換は成り立たないが、国家は貨幣がもつような力をもたらすことはできない。
 貨幣は国家によって鋳造されるが、それが通用するのは、国家の力によってではなく、商品(所有者)たちの世界の中で形成された力による。
(国家あるいは帝国がおこなうのは、貨幣の金属量を保証することにすぎず、貨幣の力は、帝国の範囲を越えて及ぶ)

・商品交換は自由な合意による交換である。その点で、共同体や国家とは違っている。
 貨幣の力は、貨幣(所有者)が商品(所有者)に対して持つ権利にある。貨幣は、いつどこでもどんな商品とも交換できる「質権」をもつ。ゆえに、商品と違って、貨幣は蓄積することができる。
 貨幣を蓄積しようとする欲望とその活動、つまり、資本が発生する理由がある。
 貨幣による力は、贈与や暴力にもとづく力とは違っている。
(それは、他者を物理的・心理的に強制することなく、同意にもとづく交換によって使役することができる)
 この貨幣の力は、暴力にもとづく階級(身分)支配とは違った種類の階級支配をもたらす。


<ポイント>
・どの交換様式からもそれに固有の権力が生じるということ、そして、交換様式の差異に応じて権力のタイプもそれぞれ異なるということである。
 以上の三つのタイプの権力は、社会構成体が三つのタイプの交換様式の結合としてあるのと同様に、どんな社会構成体においても結合されて存在する。
・最後に、以上三つの力のほかに、第四の力を付け加えなければならない。
 それは交換様式Dに対応するものである。
 柄谷氏の考えでは、それが最初に出現したのは、普遍宗教においてであり、いわば「神の力」としてである。
 交換様式A・B・C、そしてそこから派生する力は執拗に存続する。
 人はそれに抵抗できない。ゆえに、それらを越えるべき交換様式Dは、人間の願望や自由意志によるよりもむしろ、それらを越えた至上命令としてあらわれる。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、18頁~23頁)

6社会構成体の歴史



6社会構成体の歴史
 交換様式という観点から、社会構成体の歴史を再考する。
 その出発点となるのは、マルクスが「資本制生産に先行する諸形態」で示した、社会構成体の歴史的諸段階である。
 ➡原始的氏族的生産様式、アジア的生産様式、古典古代的奴隷制、ゲルマン的封建制、資本制生産様式
 
 このような分類は、幾つかの条件を付け加えれば、今も有効だと、柄谷氏はみる。
①地理的な特定をとりのぞくこと。
②これらを歴史的な継起と発展の順序とみなさないこと
 【ヘーゲルとマルクスの捉え方】
 マルクスがいう歴史的段階は、ヘーゲルの「歴史哲学」を唯物論的にいいかえたものである。
ヘーゲルは、世界史を自由が普遍的に実現される過程としてとらえた。 
➡アフリカから、アジア(中国・インド・エジプト・ペルシア)を経て、ギリシア・ローマ、さらにゲルマン社会から近代ヨーロッパにいたるものである。
 (自由がまったくない状態から、一人だけが自由である状態、少数者が自由である状態、万人が自由である状態への発展である)
 一方、マルクスは、これを観念論的な把握であるとして、それを生産様式(生産手段を誰が所有するか)という観点から、世界史を見直そうとした。
➡原的共同体的生産様式、王がすべてを所有するアジア的生産様式、さらに、ギリシア・ローマの奴隷制、ゲルマンの封建制、資本制生産様式という順序が見出されるとした。
 マルクスが生産様式から見た歴史的段階は、表1のように定式化できる。
 【表1】
  政治的上部構造    下部構造(生産様式)
  無国家         氏族社会
  アジア的国家       王―一般的隷属民(農業共同体)
  古典古代国家       市民―奴隷
  封建的国家       領主―農奴
  近代国家         資本―プロレタリアート

【柄谷行人氏によりマルクス批判】
・マルクスは、アジア的農業共同体は氏族的共同体からできた最初の形態であり、それがアジア的国家の経済的下部構造であるという。
 しかし、アジア的農業共同体は、氏族社会の連続的発展として生じたものではない。
 それは、アジア的国家によって形成されたのであるとする。
 たとえば、大灌漑農業を起こしたのは国家であり、その下で農業共同体が編成された。
(それは氏族社会からの連続的発展でるかにみえるが、そうではない。むしろ、ギリシアやゲルマンの社会のほうに、氏族社会からの連続性が残っている)
 
・アジア的国家を初期的な段階と見るのはまちがいである。
 官僚制と常備軍をもったアジア的国家は、シュメールやエジプトにあらわれた。
(それはのちに、あるいは近代においてさえも、各地の国家がそれを実現するために長い年月を要したほどの完成度を示している)
 このような集権的な国家は、多数の都市国家の抗争を経て形成された。
 一方で、ギリシアでは、都市国家が統合されず、そのまま残った。
(それは、ギリシアが文明的に進んでいたからではなく、むしろ逆に、氏族社会以来の互酬性原理が濃厚に残っていたからだとする。それがギリシアに民主政をもたらした原因の一つであると、柄谷氏は考えている)

・これらの問題は、「生産様式」から見るかぎり、説明できないと批判する。
➡その観点からは、たとえば、ギリシアやローマに、特に歴史的に段階を画するほどの意義を見出しえない。
 ギリシアの民主政や文明を、奴隷制生産様式によって説明するのはおかしいという。
ギリシアの奴隷制はむしろ、ポリスの民主政、つまり、市民がたえず議会や兵役に参加する義務があるからこそ、不可欠となった。
 ゆえに先ず、いかにして民主政が成立したのかを問うべきである。そのためには、「交換様式」の視点が必要であると主張している。

・氏族的社会構成体、アジア的社会構成体、古典古代的社会構成体、ゲルマン的社会構成体は、歴史的段階として継起的にあったのではない。同時的に相互に関係しあうかたちで存在した。
➡柄谷氏は、この点、ウォーラーステインやチェース=ダンの「世界システム」という考えに従うという。
 チェース=ダンは、国家が存在しない世界をミニシステム、単一の国家によって管理されている状態を世界=帝国、政治的に統合されず、多数の国家が競合しているような状態を世界=経済と呼んで区別した。

〇この区別を、交換様式から見ると、つぎのようになる。
 ミニシステム(国家以前の世界システム)は、互酬原理にもとづくものである。
 世界=帝国は、交換様式Bが支配的であるような世界システムである。
 世界=経済は、交換様式Cが支配的であるような世界システムである。
※ここで念をおしておきたいのは、これらを規模で区別してはならないということである。
 たとえば、互酬原理にもとづく世界システムは一般に小さいが、イロクォイ族の部族連合を見れば、それが空間的に巨大なものとなりうる。
 ➡このことは、モンゴルの遊牧民が築いた巨大な帝国の秘密を説明するものでもある。
(それはローカルにはアジア的な専制君主でありながら、同時に、支配的共同体としては、部族間の互酬的な連合に依拠していた)

・マルクスがいうアジア的な社会構成体は、一つの共同体が他の共同体を制圧して賦役・貢納させる体制である。すなわち、交換様式Bがドミナントな体制である。
 それは、アジア的社会構成体には他の交換様式が存在しない、ということではない。
 アジア的社会構成体は、交換様式AとCが存在しながらも、交換様式Bが支配的であるような社会構成体であると、柄谷氏はみる。

 (もちろん、交換様式Bがドミナントな体制は、封建制や奴隷制をふくめて、さまざまである。それらの違いは、支配者共同体の間に、互酬的な原理が残っているかどうかにある。
➡それが残っていれば、集権的な体制を作ることが難しい。
 集権的な体制を確立するためには、支配階級の間にある互酬性をなくすことが不可欠である。
 それによって、中央集権と官僚制的な組織が可能になる。)

・つぎに、マルクスが古典古代的とかゲルマン的と呼ぶ社会構成体は、それぞれ奴隷制や農奴制にもとづいている。これも交換様式Bを主要な原理としている。
(サーミール・アミンは、封建制を貢納制国家の一変種として見ている)
 その点では、ギリシア・ローマ的社会構成体やゲルマン的社会構成体はアジア的な社会構成体と同じであるが、別の点では大きく違っている。
 それは支配者共同体の間に互酬原理Aがどの程度残っているかを見れば明らかであると、柄谷氏はいう。
 ギリシア・ローマでは、集権的な官僚体制が否定された。
(そのため、複数の共同体や国家を統一的に支配する集権的な体制が成立しなかった)
 それらが世界=帝国となったのは、アレクサンドロス三世(アレクサンダー大王)がそうであったように、アジア的な世界=帝国の型を継承することによってである。
 しかし、その後西ヨーロッパでは、世界=帝国はローマ教会という形式の下でのみ存在しただけである。実際上、多数の封建諸侯の争う状態が続いた。
 ここでは、交易を管理する強力な政治的中心が存在しないため、市場あるいは都市が自立性をもつようになった。
➡そのため、いわば世界=経済が発達した。

【ウォーラーステインとブローデルの見解】
・ウォーラーステインは、世界=経済は16世紀のヨーロッパから出現したと考えた。
 しかし、世界=帝国と世界=経済は必ずしも継起的な発展段階をなすものではない。
・ブローデルが注意したように、世界=経済はそれ以前にも、たとえば、古典古代の社会にも存在した。そこに、国家によって管理されない交易と市場が存在した。
➡それが、アジアの世界=帝国との決定的な違いである。
 ただ、こうした世界=経済は、単独で存在したのではない。それは、世界=帝国の恩恵を受けつつ、それが軍事的・政治的に囲い込めないような“亜周辺”に存在した。
➡西アジアを例にとる。
 メソポタミア・エジプトの社会が巨大な世界=帝国として発展したとき、その周辺の部族共同体は、それによって破壊されるか、ないしは吸収された。
 その中で、ギリシア諸都市やローマは都市国家として発展した。彼らは、西アジアの文明(文字・武器・宗教など)を受け入れながら、集権的な政治システムだけは受け入れず、氏族社会以来の直接民主主義を保持した。
 中心部に対して、そのような選択的対応が可能であったのは、そこから適度に離れた位置にあったからである。
(ウィットフォーゲルは、そのような地域を“亜周辺”と呼んだ)
 もし周辺のように近すぎるならば、専制国家に支配されるか吸収され、遠すぎるならば、国家や文明とは無縁にとどまるだろう。

【柄谷行人氏の見解】
〇ギリシアやローマが東洋的帝国の亜周辺に成立したとすると、いわゆる封建制(封建的社会構成体)は、ローマ帝国の亜周辺にあったゲルマンの部族社会において成立したものだということができる。
・もっと厳密に言えば、それはローマ帝国の崩壊後に、西アジアの世界=帝国を再建したイスラム帝国の亜周辺に位置した。
➡ヨーロッパがギリシア・ローマ文化を受け継いだのは、イスラム圏を通してである。
 その意味で、ギリシア・ローマからゲルマンへ、というヘーゲル的な継起的発展は、西洋中心主義な虚構にすぎないと、柄谷氏は批判している。

〇封建制を専制貢納国家から区別するのは、何よりも、支配階級の間に共同体の互酬原理が存続したことである。
 封建制は、主君と家臣の双務(互酬)的な契約によって成り立っている。
 主君は家臣に封土を与え、あるいは家臣を養う。そして、家臣は主君に忠誠と軍事的奉仕によって応える。この関係は双務的であるから、主人が義務を果たさないなら、家臣関係は破棄されてもよい。
(これはギリシア・ローマからの発展ではない。
 ここには、ギリシア・ローマでは消滅してしまった、氏族社会以来の互酬原理が残っている。 
 それが王や首長に絶対的な地位を許さない)
 ゲルマン人はローマ帝国やイスラム帝国の文明を受け継いだが、専制国家の官僚的ハイアラーキーを拒否した。
(これは世界=帝国の“亜周辺”にのみ可能な態度である。
これは西ヨーロッパ(ゲルマン)に限定されるものではなく、極東の日本にも封建制があった。日本人は中国の文明を積極的に受容しながら、アジア的な官僚制国家とそのイデオロギーは表面的にしか受け入れなかった)

・集権的な国家の成立を拒む封建制の下では、交易や都市が国家の管理を免れて発展することができた。
 具体的にいうと、西ヨーロッパでは都市が、教皇と皇帝の抗争、領主間の抗争の中でそれを利用して自立するにいたった。また、農業共同体においても、土地の私有化と商品生産が進んだ。
 ➡この意味で、封建制は、政治的な統制をもたない世界=経済のシステムをもたらすものである。ヨーロッパから資本主義的な世界システムが出てきた原因は、そこにあるとする。

以上を図示したのが、表2であるという。
 【表2】
社会構成体 支配的交換様式  世界システム
1 氏族的   互酬制A      ミニシステム
2 アジア的   略取―再分配B1  世界=帝国
3 古典古代的 略取―再分配B2
4 封建的    略取―再分配B3
5 資本主義的 商品交換C    世界=経済

(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、34頁~42頁)

7 近代世界システム


7 近代世界システム

・資本主義的な社会構成体とは、商品交換様式Cが支配的であるような社会である。
 これを一つの社会構成体の中からだけでなく、他の社会構成体との関係、すなわち世界システムからも見なければならない。
・まず、世界システムの観点から見ると、ヨーロッパの16世紀から発達した世界=経済が世界中を覆うようになると、旧来の世界=帝国およびその周辺・亜周辺という構造が存在できなくなる。
(ウォーラーステインがいうように、それにかわって成立するのが、世界=経済における、中心、半周辺、周辺という構造である。そこでは、旧来の世界=帝国も周辺部におかれてしまう)

・一国の経済を世界システムから離れて見ることができないように、国家もまた、世界システムを離れて単独で見ることはできない。
 近代国家は主権国家であるが、それは単独に一国内部であらわれたのではない。
 西ヨーロッパにおいて、主権国家は、相互に主権を承認することで成立するインターステート・システムの下で成立した。それを強いたのは世界=経済である。
・だが、それはまた、ヨーロッパによる支配を通して、それ以外の世界の変容を強いた。旧世界=帝国は、インカやアステカのように部族社会の緩やかな連合体である場合、部族社会に解体されて植民地化された。
 一方、旧世界=帝国は簡単に植民地化されなかった。しかし、最終的に、オスマン帝国のように多くのネーション=ステートに分節された。
(それを免れたのは、ロシアや中国のように、社会主義革命によって、世界=経済から離脱するような新たな世界システムを形成した場合である。)

☆このような変化を、一つの社会構成体の中で見てみよう。
・交換様式Cが支配的になるということは、他の交換様式が消滅することを意味しない。
 たとえば、それまで支配的であった略取―再分配的な交換様式Bは消滅したかのようにみえるが、たんに変形させられるだけである。
・それは近代国家というかたちをとるようになる。
西ヨーロッパでは、それは絶対王政として出現した。
 王はブルジョアジーと結託して、他の封建諸侯を没落させた。絶対王政は常備軍と官僚機構をそなえた国家をもたらした。
(これはある意味で、アジア的な帝国においてつとに存在したものをようやく実現したことになる)
 絶対王政においては、封建的地代は地租(税)に転化される。
⇒絶対君主によって封建的特権を奪われた貴族(封建領主)たちは、国家官僚として、地租を分配されるようになる。
 また、絶対王政は税の再分配によって、一種の「福祉国家」を装うようになる。こうして、略取―再分配という交換様式は、近代国家の核心において生きているという。

・絶対王政は、市民革命(ブルジョア革命)によって打倒された。
 だが、市民革命は、中央集権化という点では、それをいっそう推進した。
 絶対主義体制において対抗していた貴族・教会などの「中間勢力」(モンテスキュー)を滅ぼすことによって、商品交換原理を全面的に肯定する社会が形成された。
(しかし、旧来の交換様式が一掃されたわけではない。略取―再分配という交換様式が残っている。ただ、それは、国家への納税と再分配というかたちに変わった)
・王に代わって主権者の地位に立った「国民」は、現実には、彼らの代表者としての政治家および官僚機構の下に従属することになる。
 
※その意味で、近代国家は基本的にそれ以前の国家と異なるものではないが、次の点で異なる。
 アジア的であれ封建的であれ、旧来の国家では交換様式Bが支配的であったのに対して、近代国家では、それが支配的な交換様式Cの体裁をとるようになった。

☆一方、資本主義的社会構成体では、互酬的交換Aはどうなるか。
 そこでは、農業共同体は商品経済の浸透によって解体されるし、それと対応した宗教的共同体も解体される。
 ゆえに、Aは解消されてしまうが、別のかたちで回復されるといってよい。それがネーションである。
 ネーションは、互酬的な関係をベースにした「想像の共同体」(アンダーソン)である。
 それは、資本制がもたらす階級的な対立や諸矛盾を越えた共同性を想像的にもたらす。こうして、資本主義的な社会構成体は、資本=ネーション=国家という結合体(ボロメオの環)としてあるということができる。

以上が、マルクスが提示した社会構成体を、交換様式からとらえなおしたものであるという。

〇しかし、実は、これだけでは不十分である、と柄谷氏は批判している。
 もう一つの交換様式Dについて述べなければならないとする。
 それが交換様式Aの高次元での回復であり、資本・ネーション・国家を越えるXとしてあらわれる。
・が、それは一つの社会構成体の中で見たものでしかない。
 社会構成体はつねに他の社会構成体との関係においてである。
 (いいかえれば、世界システムの中にある)
 そして、交換様式Dは、複数の社会構成体が関係する世界システムのレベルでも考えられるべきである。
 というより、むしろそれは一つの社会構成体だけでは考えることができない。資本=ネーション=国家の揚棄は、新たな世界システムとしてのみ実現されるという。
・ミニ世界システムは交換様式Aによって、世界=帝国は交換様式Bによって、世界=経済(近代世界システム)は、交換様式Cによって形成されてきた。
 そのことがわかれば、それを越える世界システムXがいかにして可能であるかがわかる。
 それは、交換様式Aの高次元での回復によって形成される。
 具体的にいえば、それは軍事的な力や貨幣の力ではなく、贈与の力によって形成される。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、42頁~46頁)

〇柄谷氏の考えでは、カントが「世界共和国」と呼んだのは、そのような世界システムの理念である。
 以上を図示すると、図3のようになる。

【図3 世界システム】
世界=帝国 ミニ世界システム

世界=経済
(近代世界システム) 世界共和国

第1章以下では、次のような問題を論じている。
〇基礎的な交換様式を考察し、それらの接合としてある社会構成体と世界システムが、いかにして資本=ネーション=国家というかたちをとるにいたったか。
〇また、いかにしてそれを越えることが可能なのか。

その前に、幾つかのことを述べている。
・四つの基礎的な交換様式を、それぞれ別個に扱う。
 実は、それらは相関的であり、一つだけを切り離して扱うことができない。
 が、それらの連関を見るためには、それぞれが存立する位相を明確にしておく必要がある。
 マルクスは『資本論』において、他の交換様式をカッコに入れて、商品交換が形成するシステムを明らかにしようとした。柄谷氏は、それと似たことを、国家やネーションについておこなうという。
・その上で、国家、資本、ネーションなどがどう連関するかを見る。
 つまり、それらの基礎的な交換様式が歴史的にどのように連関するかを見る。
 その場合、これを四つの段階に分けて考察するという。
➡国家以前のミニ世界システム、資本制以前の世界=帝国、資本制以後の世界=経済、さらに、現在と未来の四つである。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、46頁)

序説の最後で、「私がここで書こうとするのは、歴史学者が扱うような世界史ではない」と、柄谷氏は断っている。
 柄谷氏が目指すのは次のようなことであるという。
〇複数の基礎的な交換様式の連関を超越論的に解明すること。
〇それはまた、世界史に起こった三つの「移行」を構造論的に明らかにすることである。
〇さらに、そのことによって、四つめの移行、すなわち世界共和国への移行に関する手がかりを見出すことである。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、47頁)

ここから序説以外


第1部第1章 定住革命


第1部第1章 定住革命
3 成層化
・贈与の互酬によって、共同体は他の共同体との間にある「自然状態」を脱し、平和状態を創出する。
※国家も自然状態の克服であるが、贈与によって得られる平和は、それとは根本的に異なっている。贈与によって上位共同体が形成されるのである。それは、国家の下で組織される農業共同体とは異質である。
・互酬によって形成される高次の共同体は、国家が農業共同体を統合・従属させるのと違って、下位共同体を統合・従属させるものではない。
 部族社会では、たとえ上位の共同体が形成されても、下位の共同体の独立性は消えない。
 その意味で、部族内部にも敵対性が残りつづける。このため、贈与は、他の共同体との間に友好的関係を築くものであると同時に、しばしば競争的なものとなる。

・贈与の互酬は、クラ交易が示すように、多数共同体の連合体、いわば「世界システム」を形成する。
 こうした連邦は固定したものではなく、つねに葛藤をはらんでいるから、時折新たな贈与の互酬によって再確認されなければならない。
 互酬によって形成される共同体の結合は環節的である。
 つまり、上からそれを統治するような組織、すなわち、国家にはならない。
※こうした部族連合体の延長に、首長制国家(chiefdom)を置くことができる。それは国家のすぐ手前にある。
しかし、ここでもあくまで国家に抗する互酬の原理が働く。国家が出現するのは、互酬的でない交換様式が支配的になるときである。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、63頁~65頁)

4 定住革命


・互酬性を、中核において共同寄託的であり、周辺において否定的互酬的であるような空間的配置においてとらえた(サーリンズの見解)。
 これを時間的な発展という軸に置き換えるとどうなるか。
 共同寄託的なバンド集団が始原にあり、そして、それらが互いに互酬的な関係を結び、その社会を成層的に広げてきた、ということができる。

☆問題は、なぜいかにして、そのような変化が生じたのか、である。
・バンド社会は共同寄託、つまり、再分配による平等を原理とする。
 これは狩猟採集の遊動性と不可分離である。
 ⇒彼らはたえず移動するため、収穫物を備蓄することができない。
  ゆえに、それを私有する意味がないから、全員で均等に分配してしまう。あるいは、客人にも振る舞う。
これは純粋贈与であって、互酬的ではない。
 (収穫物を蓄積しないということは、明日のことを考えないということである。また、昨日のことを覚えていないということである)
※遊動的なバンド社会では、遊動性(自由)こそが平等をもたらすのである。

・贈与とお返しという互酬が成立するのは、定住し蓄積することが可能になったときからであるという。
 では、なぜ彼らは定住したのか。
<注意>
・それを考えるとき、一つの偏見を取り除く必要があるとする。
 つまり、人が本来、定住する者であり、条件に恵まれたら定住する者だという偏見である。
 たとえば、食料が十分にあれば定住するかといえば、そうではない。
 それだけでは、霊長類の段階から続けてきた遊動的バンドの生活様式を放棄するはずがない。 
 定住を嫌ったのは、さまざまな困難をもたらすからであるらしい。
<定住にまつわる困難>
①バンドの内と外における対人的な葛藤や対立である。遊動生活の場合、たんに人々は移動すればよい。
 ところが、定住すれば、人口増大とともに増える葛藤や対立を何とか処理しなければならない。
⇒多数の氏族や部族を、より上位の共同体を形成することによって、環節的に統合すること、
 また、成員を固定的に拘束することが必要となる。
②対人的な葛藤はたんに生きている者との間にあるだけではない。定住は、死者の処理を困難にする。
 アニミズムでは、死者は生者を恨む、と考えられる。
 遊動生活の場合、死者を埋葬して立ち去ればよかった。
 しかし、定住すると、死者の傍で共存しなければならない。それが死者への観念、および死の観念そのものを変える。
 定住した共同体はリニージにもとづき、死者を先祖神として仰ぐ組織として再編成される。 
  こうした共同体を形成する原理が互酬交換である、という。
⇒このように、定住は、それまで移動によって免れた諸困難に直面させる。
 
☆とすれば、なぜ狩猟採集民があえて定住することになったのか。
 この点、根本的には気候変動のためだ、と柄谷氏は考えている。
 人類は氷河期の間、熱帯から中緯度地帯に進出し、数万年前の後期旧石器時代には、高緯度の寒帯にまで広がった。これは大型獣の狩猟を中心にしたものである。
 しかし、氷河期の後の温暖化とともに、中緯度の温帯地域に森林化が進んで、大型獣が消え、また採集に関しては、季節的な変動が大きくなった。
 そのとき、人々は向かったのは漁業である。
 ⇒漁業は、狩猟と違って、簡単に持ち運びできない漁具を必要とする。ゆえに、定住するほかなかったようだ。
 おそらく、最初の定住地は河口であったと考えられている。

・また、定住は、意図しなかった結果をもたらしている。
 たとえば、簡単な栽培や飼育は、定住とともに、ほとんど自然発生的に生じた。
 栽培に関しては、人間が一定の空間に居住すること自体が、周辺の原始林を食料となる種子をふくむような植生に変える。定住によって栽培が採集の延長として始まるように、狩猟の延長として、動物の飼育が生じる。
 ⇒この意味で、定住こそが、農耕・牧畜に先立っているとする。
※こうした栽培・飼育は、「新石器革命」に直結しなかった。
 しかし、定住は、ある意味で、新石器革命以上に重要な変化をもたらした、と柄谷氏は考える。それが、互酬原理による氏族社会であるという。

【定住と女性の地位の問題】
・定住は、女性の地位に関しても、問題をもたらしたようだ。 
 狩猟採集民は、定住すると、事実上、漁労や簡単な栽培・飼育によって生きるようになるが、
狩猟採集以来の生活スタイルを保持した。つまり、男が狩猟し女が採集するという「分業」が続いた。
 しかし、実際には、男の狩猟は儀礼的なものにすぎない。定住化とともに、必要な生産はますます女によってなされるようになる。
 だが、このこと女性の地位を高めるよりもむしろ、低下させたとみる。
 (何も生産せずに、ただ象徴的な生産や管理に従事する男性が優位に立った)

(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、65頁~72頁)



第1部第2章 贈与と呪術


第1部第2章 贈与と呪術
3 移行の問題
〇定住によって遊動的バンド社会から氏族社会への移行が生じた、と柄谷氏は考えている。
 疑問は、なぜ定住から国家社会に移行したのかではなく、なぜ氏族社会に移行したのかということにある。
いいかえれば、なぜ戦争・階級社会・集権化ではなく、平和・平等化・環節的社会への道がとられたのかということ。
※このようなコースをとられる必然はなかった。現にそうであったから、必然だと思われているにすぎない。むしろ、定住化から階級社会、そして、国家が始まることのほうが蓋然性が高いともいえる。
 だから、氏族社会の形成を、国家形成の前段階としてではなく、定住化から国家社会への道を回避する最初の企てとして見るべきである、と柄谷氏は考えている。
(そのかぎりで、氏族社会はたんなる“未開”ではなく、或る未来の可能性を開示するものである)

〇この問題に関して、フロイトの『トーテムとタブー』(1912年)が重要である、と柄谷氏は主張している。
・フロイトが考えたのは、トーテムというよりもむしろ、未開社会における「兄弟同盟」がいかにして形成され維持されるのかという問題である。
・フロイトは、部族社会における氏族の平等性・独立性がいかにして生じたかという問題について、その原因を息子たちによる「原父殺し」という出来事に見出そうとした。これは、エディプス・コンプレクスという精神分析の概念を人類史に適用するものである。
⇒その際、フロイトは当時の学者の意見(特にダーウィン、アトキンソン、ロバートソン・スミス)を参照し、その理論を借用している。
※ただし、今日の人類学者は、このような理論を斥けている。古代に「原父」のようなものは存在しない。そのような原父は、むしろ専制的な王権国家が成立したのちの王や家父長の姿を、氏族社会以前に投射したものだというべきであるとする。

・だが、フロイトの「原父殺し」および反復的儀式という見方の意義が無くなることはない、と柄谷氏は考えている。フロイトは、氏族社会の「兄弟同盟」システムが、なぜいかにして維持されているのかを問うたのだという。

【柄谷氏の解説と批判】
・遊動的バンド社会において、「原父」のようなものは存在しなかった。むしろ、バンドの結合も家族の結合も脆弱であった。(この意味で、フロイトが依拠した理論はまちがっている。)
・しかし、定住化とともに、不平等や戦争が生じる可能性、つまり、国家=原父が形成される可能性は確かにあったのである。
 が、それを抑制することによって、氏族社会=兄弟同盟が形成された。
⇒こう考えると、フロイトの説明は納得がいくという。
 それは氏族社会がなぜ国家に転化しないかを説明するものである。いわば、氏族社会は、放っておくと必ず生じる「原父」を、たえずあらかじめ殺しているのだ。その意味で、原父殺しは経験的に存在しないにもかかわらず、互酬性によって作られる構造を支えている「原因」なのであるとする。

・フロイトは未開社会のシステムを「抑圧されたものの回帰」として説明した。
 一度抑圧され忘却されたものが回帰してくるとき、それはたんなる想起ではなく、強迫的なものとなるという。
 氏族社会に関するフロイトの理論では、回帰してくるのは殺された原父である。しかし、柄谷氏の考えでは、回帰してくる「抑圧されたもの」とは、定住によって失われた遊動性(自由)であるという。それは、なぜ互酬性原理が強迫的に機能するかを説明する。

〇マルクスは生産様式から社会構成体の歴史を考えた。
 生産様式から見るとは、いいかえれば、誰が生産手段を所有するかという観点から見ることである。
 マルクスのヴィジョンは、原始共産主義では共同の所有であり、それが階級社会では、生産手段を所有する支配階級とそうでない支配階級の間に「階級闘争」があり、最終的に共同体所有が高次元で回復されるということになる。
 ※この観点では、遊動的段階の社会と定住的氏族社会が区別されていない、と柄谷氏は批判している。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、85頁~89頁)

第2部第1章 国家


第2部第1章 国家
5 アジア的国家と農業共同体
・マルクスは、アジア的共同体を「全般的隷従制」と呼んだ。
 それは、奴隷制でも農奴制でもない。
 各人は自治的な共同体の一員である。
 だが、その共同体全体が王の所有である。
 人々は共同体の一員であることによって拘束される。
・ゆえに、共同体の自治を通じて、国家は共同体を支配することができる。
・したがって、国家と農業共同体はまったく別のものであるが、分離して存在するのではない。

〇農業共同体とは専制的国家によって枠組を与えられた「想像の共同体」である。
・それは近代のネーションと同様に、集権的国家の枠組が先行することなしにありえない。
・アジア的専制国家は、いわば、専制国家=農業共同体という接合体として存在する。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、119頁)

<アジア的専制国家に対する誤解>
①奴隷制とまちがえる
 アジア的国家では、大衆は残虐に扱われたわけではなく、手厚く保護された。
(たとえば、ピラミッドの工事は、失業者対策、政府による有効需要創出政策としてなされた。ケインズが注目。『雇用、利子および貨幣の一般理論』)
②アジア的国家は、統治のすみずみまで及ぶ強固な専制的体制だという見方
・王権を確保するために、宗教、姻戚関係、封による主従関係、官僚制などが用いられる。
 その結果、神官・祭司、豪族、家産官僚らが、王権に対抗する勢力となる。さらに、内部の混乱を見て、外から遊牧民が侵入してくる。こうして、王朝は崩壊する。その後に、再び、王朝が形成される。
(⇒「アジア的諸国家の絶え間なき崩壊と再建、および休みなき王朝の交替」(マルクス))

※「休みなき王朝の交替」にもかかわらず不変的なのは、なぜか?
 ⇒アジア的な農業共同体であるよりもむしろ、専制国家の構造そのものにある。
  形式的には集権的な国家として完成された形態、つまり官僚制と常備軍というシステムにある。
(真に永続的なのは、農業共同体よりも、それを上から統治する官僚制・常備軍などの国家機構である)
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、119頁~122頁)



☆なぜギリシアやローマで、専制国家の体制ができなかったのか。
 それはギリシアやローマが社会として「進んだ」段階にあったからではない。
 その逆に「未開」であったからである、と柄谷氏は理解する。
 つまり、晩年のマルクスが注目したように、ギリシア・ローマの都市国家では、支配共同体(市民)の間に、集権的な国家に抗する氏族社会の互酬原理が強く残ったからである。
 そのため集権的な官僚的体制が作られなかった。
 また、国家が管理しない市場経済が発展した。しかし、そのことはまた、彼らが、征服した共同体を農業共同体として再編するような専制国家の統治、あるいは、征服した多数の国家・共同体を組み込む帝国の統治ができなかったこととつながっている。
(もちろん、ローマは最終的に広大な帝国となったが、それはむしろ、アジアの帝国システムを基本的に受け継ぐことによってである。)
 ゆえに、アジアに出現した専制国家を、たんに初期的なものとしてではなく、広域国家(帝国)として(形式的には)完成されたものとして考察すべきであるという。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、122頁~123頁)

<柄谷氏によるマルクス批判>
・マルクスはギリシア・ローマの社会構成体を「奴隷制生産様式」から説明しようとした。
 しかし、ギリシア・ローマにアジア的専制国家とは異なる画期的な特質を見るのであれば、それを奴隷制生産から説明することはできない、と柄谷氏は批判している。
・アジア的専制国家(世界=帝国)がとったのは、他の国家や共同体に賦役貢納を課すが、その内部に介入しないという支配の仕方である。そこにも奴隷はいたが、「奴隷制生産」のようなものはなかった。
 一方、ギリシア・ローマでは、賦役貢納国家の方向に向かわず、国家官僚に管理されない、市場と交易が発達したのである。
 ギリシア・ローマに特有の奴隷制生産は、そのような世界=経済がもたらした結果である。
 したがって、重要なのは、ギリシア・ローマにおいて、なぜいかにして世界=経済が発展したのかを問うことである、と柄谷氏は主張している。

〇ギリシア・ローマに生じた現象は「亜周辺」に特徴的なものである。
 たとえば、ギリシアの場合、先行するミュケナイ文明は「周辺的」であった。つまり、エジプト的な集権的国家の影響下にあった。
・ところが、ギリシア人は「亜周辺的」であった。
彼らは、西アジアから鉄器の技術を受け入れ、また、シュメールの楔形文字からフェニキア人が発展させた文字を受け入れたが、帝国中枢の政治システムだけは受け入れなかった。逆に、その結果として、彼ら自身、世界=帝国を築こうとしても築けなかった。
(そもそもアテネもスパルタも、ギリシアの多数のポリスを統合することさえできなかった)
・つぎに、ローマはギリシアのポリスと同様の都市国家であったが、征服した都市国家や部族の有力者を市民として組み込むことによって、また、普遍的な法による支配を通して、版図を広げた。
(つまり、ポリスの排他的な共同体原理を抑制することによって、世界=帝国を形成しえた)
 だが、ローマはポリスの原理を全面的に放棄することができなかった。
⇒ローマ帝国の根底には、ポリスと帝国の原理的相克が存在し続けた。

※ローマ帝国は、それまでのペルシア帝国の版図をさらに越え、西ヨーロッパをふくむ史上最大の帝国となった。しかし、ローマ帝国に注目するのは、そのためではない。
 ⇒それがポリスと帝国の原理的相克を最も明瞭に示すからである。
☆この問題は、近代においてネーション=ステートと、帝国主義・地域主義の問題として反復される。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、175頁~177頁)

<柄谷氏による注目すべき見解>
・古代ギリシアというと、一般にアテネが中心とみなされる。しかし、ギリシアの文明を真にユニークにしたのは、アテネではなく、イオニアの諸都市であるという。
 海外交易の拠点となったイオニア諸都市では、商工業が発展した。そこには、エジプト、メソポタミア、インドなどアジア全域の科学知識、宗教、思想が集積された。
しかし、彼らがけっして受け入れなかったのが、アジア的専制国家で発達したシステム、すなわち、官僚制、常備軍ないし傭兵である。
 通貨の鋳造を開始したイオニアの人々は、アジアの専制国家のように国家官僚による価格統制を行わず、それを市場に任せた。
 価格の決定を、官僚ではなく市場に任せたということが、アルファベットの改良とならんで、ギリシアの民主政をもたらした要因だとする。それらはすべてイオニアで開始された。
(ホメロスの叙事詩が書かれ且つ普及したのも、イオニアにおいてである)

・一般に民主政はアテネに始まり、他のポリスに広がったと見なされている。しかし、それは本来、イオニアに始まった原理にもとづいている、と柄谷氏はいう。
 それは、民主主義ではなく、イソノミアと呼ばれていた。
 柄谷氏によれば、イソノミアという原理は、イオニアに始まり、他のポリスに広がった。
 その原理は、植民者によって形成されたイオニア諸都市に見出される。
 というのも、そこでは植民者たちがそれまでの氏族・部族的な伝統を一度切断し、それまでの拘束や特権を放棄して、新たに盟約共同体を創設することができたからであるという。
(それに比べると、アテネやスパルタのようなポリスは、従来の部族の(盟約)連合体としてできたため、旧来の氏族の伝統を濃厚に留めたままであった。それがポリスの中の不平等、あるいは階級対立として残った)

※アテネにおける民主主義は、多数者である貧困者が少数の富裕階級を抑え、再分配によって平等を実現することである。しかし、イソノミアとは、自由であることが平等であるような原理である。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、179頁~182頁)

第2部第1章 国家


「第2部第1章 国家 6 官僚制」では次のようなことが述べてある。

6 官僚制


・古代文明は、大河川流域に発生し、大規模な灌漑農業をもっていた。
 したがって、マルクスは東洋的専制国家を灌漑農業と結びつけた。
 ウェーバーもまた、つぎのようにいっている。
「官僚制化の機縁を与えるものとしては、行政事務の範囲の外延的・量的な拡大よりも、その内包的・質的な拡大と内面的な展開との方が、より重要である。この場合、行政事務の内面的発展の向う方向とこの発展を生み出す機縁とは、極めて種々さまざまでありうる。官僚制的国家行政の最古の国たるエジプトにおいては、書記や官僚の機構を作り出す機縁をなしたのは、上から全国的・共同経済的に治水をおこなうことが、技術的・経済的にみて不可避的であったという事情である。(下略)」
(ウェーバー『支配の社会学』Ⅰ、世良晃志郎訳、創文社、88~89頁)

<ウィットフォーゲルの見解>
〇マルクスとウェーバーの観点を受け継いだのが、ウィットフォーゲル
・東洋的専制国家が大規模な灌漑農業を通して形成されたと考えた。
・さらに、地理的な限定をとりのぞいて、それを「水力社会」と命名した。
(このような考えに関して、専制国家と灌漑農業は必然的な結びつきがないという批判がある。また、ロシアのように灌漑農業をもたない地域にも専制国家が成立しているという批判がある。)
・ウィットフォーゲル自身がその後に、ロシアのように「水力的」でない地域に専制国家ができた理由を説明しようとして、それを外からの影響に求めた。ロシアには、モンゴルによる支配を通して、アジア的な専制国家が導入されたという。

※この点に関して、柄谷氏は次のように考えている。
・このこと自体、専制国家が灌漑農業とは別個に考える必要がある。
 「水力社会」が実現した「文明」とは、自然を支配する技術である以上に、むしろ人間を統治する技術、すなわち国家機構、常備軍・官僚制、文字や通信のネットワークである。
 ゆえに、それは灌漑と縁がないような他の地域(たとえばモンゴルの遊牧民)にも伝えられた。人間を統治する技術が、自然を統治する技術に先行した。

☆官僚制はどのようにできたのか。
 巨大な土木事業から官僚制が発達したのは確かであるが、考えるべきなのは、そのような工事に従事する人間はどこから来たのか、また、それらを管理する官僚はどこから来たのか、であるとする。
・氏族社会の人々は従属的な農民となることを嫌う。遊牧民も同様。
 ⇒彼らは支配者となっても、官僚になることを嫌い、戦士=農民にとどまろうとする。
 ※ギリシアのポリスで官僚制がまったく発達しなかったことはその一例。
  ローマでは、官僚制がないために、私人に租税徴収を請け負わせた。
 ゆえに、人がすすんで官僚になることはない、と考えなければならない。

<ウェーバーの見解>
・ウェーバーは、エジプトの官僚は、事実上、ファラオの奴隷であり、ローマの荘園領主は、直接の現金出納を奴隷に託していた、という。
 その理由として、「奴隷に対しては拷問を用いえたからである」という。
 アッシリアでは、官僚の多くが宦官(かんがん)であった。
※この点、柄谷氏は次の点を指摘している。
 それは、互酬的な原理にもとづく共同体の成員の場合、官僚制はありえないということを意味している。(いいかえれば、官僚制は、王と臣下の間に互酬的な独立性が全面的に失われたときに生まれた)
 
・ウェーバーによれば、その後に、官僚制は保証された貨幣俸給制にもとづくようになる。
 その意味で、貨幣経済の完全な発展が、官僚制化の前提条件である、とウェーバーはいう。
 貨幣俸給制によって、官僚は、偶然や恣意のみに左右されない昇進のチャンス、規律と統制、身分的名誉感情をもつようになる。
 さらに、官僚は、頻繁に替わる支配者(王権)に代わって、実質的に国家の支配階級となる。
 だが、官僚は根本的には「奴隷」なのであり、それゆえに主人となる。専制的な君主は、官僚なしには何もできないから。
(ヘーゲルのいう「主人と奴隷」の弁証法は、ここに見出される)

・もう一つ、官僚制の基盤は文字にある。
 文字は、多数の部族や国家を統治する帝国の段階において不可欠のものとなった。文字言語から標準的な音声言語が作られた。
⇒シュメールにおいてもそうであったが、エジプトでは、複数の複雑な文字体系を習得することが、官僚の必要条件であった。
(官僚の「力」は、何よりも文字を知っていることになる)

<柄谷行人氏の補足説明>
・過去および現在の文献を読み書きできないならば、国家的統治はできない。
 中国において、官僚制が連綿として続いたのは、それが何よりも漢字・漢文学の習得を必要としたからである。
・古代中国で専制国家の形態が完成されたのは、漢王朝においてである。
 それ以後、遊牧民による征服が幾度も起こった。しかし、征服王朝はそれまであった国家官僚機構を破壊せず、その上に乗っかっただけであった。
 度重なる征服は、逆に、国家機構を氏族・部族の共同体的紐帯から切れた、中立的なものとする方向に向かわせた。
・8世紀、隋王朝から始まった官僚の選抜試験制度、すなわち、科挙は、官僚制を、どんな支配者(王朝)にも仕えるような独立した機関たらしめた。
 それは、「絶え間なき崩壊と再建、および休みなき王朝の交替」にもかかわらず、モンゴルが支配した一時期をのぞいて、20世紀にいたるまで存続した。
⇒中国で始まった科挙と文官支配は、その周辺国家(朝鮮・ベトナム)でも受け入れられた。
 高麗王朝は、10世紀に科挙制度と文官支配を確立した。
 しかし、日本では、中国の諸制度をことごとく受け入れたにもかかわらず、官僚制度だけはまったく根づかなかった。基本的に戦士的な文化が保持された。(513頁注(18))
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、123頁~127頁、513頁注(18))



第2部第3章 世界帝国


第2部第3章 世界帝国 5 封建制

5 封建制


※マルクスが「アジア的」、「古典古代的」、「封建的」と区別したものが、継起的段階ではなく、世界=帝国という空間における位置関係として見られることがわかる、と柄谷氏は理解している。(198頁~199頁)

a ゲルマン的封建制と自由都市(193頁~198頁)
・ゲルマン的封建制とは、一言でいえば、誰も絶対的な優位に立ちえない多元的な状態である(198頁)
・王、貴族、教会、都市らが、たえず対立し連合した。
 したがって、封建制はつねに戦争状態としてあった。
 王や諸侯たちの戦争による分散化・多中心化が、統一的な国家の形成を妨げた。
 ⇒そこから、王が絶対的な主権を握ったのが、15・16世紀の絶対主義王権国家である。
  王は封建諸侯を制圧し、常備軍と官僚機構を確立した。
※これはある意味で、すでに東洋的な専制国家においてあったものを実現することだった。
※絶対主義王権が東洋的専制国家と異なる点
 ⇒商品交換(交換様式C)を抑えるどころか、その優位を確保し促進することによって成立したということ。
(それが結局ブルジョア革命にいたるのは当然)

〇封建制は、それ以後に資本主義の発展と西ヨーロッパの優位に帰結したため、何か西ヨーロッパに固有の原理のように思われている。
 しかし、ギリシアやローマの特性がエジプトなどオリエントの帝国の亜周辺に位置したことから来ているのと同様に、西ヨーロッパの封建制もローマ帝国、さらにイスラム帝国の亜周辺に生じた現象であると捉える。
 つまり、このような特性は、「オキシデント」一般の特徴ではなく、中核、周辺、亜周辺という位置と関係にもとづくものだというべきである。

〇そのことは、東アジアの日本の封建制を例にとることで明らかになるという。
 マルクスもウェーバーも日本に封建制が成立したことに注目した。
 (この場合の封建制は、人的誠実関係、すなわち、主人と家臣の間の封土-忠誠という相互的な契約関係にもとづく体制を意味する。
  アナール学派のマルク・ブロックやブローデルもこの事実に注意を払った)
 しかし、柄谷氏の見るかぎり、なぜそれがありえたのかを説得的に説明したのは、ウィットフォーゲルだけであるという。(ウィットフォーゲル『オリエンタル・デスポティズム』
 ウィットフォーゲルは、日本の封建制を、中国の帝国に対して亜周辺に位置したことから説明した。

<「周辺」の朝鮮と「亜周辺」の日本との相違>
・中国の「周辺」である朝鮮においては、中国の制度が早くから導入されていたが、島国の日本ではそれが遅れていた。
 日本で、中国の制度を導入して律令制国家が作られたのは7世紀から8世紀にかけてである。
 しかし、それはかたちだけで、国家の集権性は弱かった。
 ⇒導入された官僚機構や公地公民制は十分に機能しなかった。
  そのような国家機構の外部に(とりわけ東国地方で)、開墾による土地の私有化と荘園制が進んだ。
 そこに生まれた戦士=農民共同体から、封土-忠誠という人格関係にもとづく封建制が育ち、旧来の国家体制を侵食しはじめた。
 13世紀以後、武家の政権が19世紀後半まで続いた。

・一方、その間、朝鮮では、中国化がますます進み、10世紀には高麗王朝で科挙(官僚の試験選抜制度)が採用された。
 文官の武官に対する圧倒的優位が確立された。以来、官僚制は20世紀まで続いた。
 
・しかし、日本では、すべてにおいて中国を範と仰いでいたにもかかわらず、科挙は一度も採用されなかった。
 文官を嫌う、戦士=農民共同体の伝統が強く残った。
 とはいえ、古代の天皇制と律令国家の体制はかたちの上で残され、権威として機能しつづけた。
(それは、封建的国家が、旧来の王権を一掃するかわりにそれを崇めることで、正統性を確保したからである。それが可能だったのは、外部からの征服者がいなかったせいでもある)

※だが、このように旧来の権威を利用することは、封建制的な要素を抑制することになる。
 すなわち、そこにあった双務的(互酬的)な関係を弱めてしまう。
 マルク・ブロックは、日本の封建制がヨーロッパのそれと酷似するにもかかわらず、そこに「権力を拘束しうる契約という観念」が希薄である理由を、「日本では[国家と封建制という]二つの制度は相互に浸透することなく併存していた点に見出している。

・16世紀の戦国時代を経て覇権を握った徳川幕府は、朝鮮王朝から朱子学を導入し、集権的な官僚体制を作ろうとした。さらに、幕府の正統性を、古代からの天皇制国家の連続性の下に位置づけた。
 ゆえに、徳川時代において、封建制よりも集権的な国家の側面が強まったことは確かである。
 しかし、事実上、封建的な体制と文化が維持された。
 (たとえば、武士には「敵討ち」の権利と義務が与えられた。国家の法秩序とは別に、主君との人格的な忠誠関係が重視された。官僚であるよりも、戦士(サムライ)であることに価値が置かれた。別の観点からいえば、理論的・体系的であるよりも、美的あるいはプラグマティックであることに価値がおかれた)

※このように、帝国に発する文明を選択的にしか受け入れないということは、日本の特徴というよりもむしろ、亜周辺に共通した特徴である。
 たとえば、同じ西ヨーロッパの中でも、ローマ帝国に対する関係という面から見て、「周辺的」と「亜周辺的」の違いが存在する。
 フランスやドイツがローマ帝国以来の観念と形式を体系的に受け継ごうとする「周辺的」傾向があったのに対して、イギリスは「亜周辺的」であった。そこでは、より柔軟、プラグマティック、非体系的、折衷的な態度がとられてきた。
 ⇒イギリスは、大陸に向かわず、「海洋帝国」を築き、近代世界システム(世界=経済)の中心となったのは、そのためである、と柄谷氏は考えている。
 (柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、198頁~202頁)
 

第4部第1章 世界資本主義の段階と反復


第4部第1章 世界資本主義の段階と反復

<歴史家ウォーラーステイン氏と柄谷行人氏の考え>
・重商主義、自由主義、帝国主義などを、近代世界システム(世界資本主義)におけるヘゲモニーの問題としてとらえた。つまり、国家を能動的な主体として、歴史家ウォーラーステインは導入した。
・自由主義とはヘゲモニー国家がとる政策である。
 ゆえに、それは19世紀半ばの一時期に限定されない。実際、その他の時期にもあった。
 ただ、ウォーラーステインの考察によれば、そのようなヘゲモニー国家は近代の世界経済の中に三つしかなかった。オランダ、イギリス、そしてアメリカ(合衆国)である。
・オランダは、ヘゲモニー国家として自由主義的であった。
 その間(16世紀後半から17世紀半ばまで)は、イギリスは重商主義(保護主義的政策)をとっていた。
 オランダは政治的にも絶対王政ではなく共和政であり、イギリスよりはるかに自由であった。
(たとえば、首都アムステルダムはデカルトやロックが亡命し、スピノザが安住できたような、当時のヨーロッパで例外的な都市であった)

・ウォーラーステインは、ヘゲモニーの交代はつぎのようなパターンで生じる、という。
≪農=工業における生産効率の点で圧倒的で優位に立った結果、世界商業の面で優越することができる。こうなると、世界商業のセンターとしての利益と「見えない商品」、つまり、運輸・通信・保険などをおさえることによってえられる貿易外収益という、互いに関係した二種類の利益がもたらされる。こうした商業上の覇権は、金融部門での支配権をもたらす。ここでいう金融とは、為替、預金、信用などの銀行業務と(直接またはポートフォリオへの間接の)投資活動のことである≫
(ウォーラーステイン『近代世界システム 1600-1750』川北稔訳、名古屋大学出版会、45頁~46頁)

※このように国家は、生産から商業、さらに、金融という次元に進んでヘゲモニーを確立する。
 しかし、ヘゲモニーは実にはかないもので、確立されたとたんに崩壊し始める。と同時に、生産においてヘゲモニーを無くしても、商業や金融においてヘゲモニーは維持される。

・オランダは製造業においてイギリスに追い抜かれた18世紀後半になっても、流通や金融の領域ではヘゲモニーをもっていた。
 イギリスが完全に優越するようになったのは、ほとんど19世紀になってからである。それが、「自由主義」段階と呼ばれる時期である。
 ただ、自由主義はヘゲモニー国家の政策である。世界資本主義においてイギリスが覇権をもった時期を自由主義と呼ぶなら、オランダが覇権をもった時期もそう呼ぶべきである。
 他方、重商主義とは、ヘゲモニー国家が存在しない時期、すなわち、オランダがヘゲモニーを失い、イギリスとフランスがその後釜を狙って戦った時期である。
 1870年以後の帝国主義と呼ばれる段階も、それと同様である。
 それはイギリスが製造業においてヘゲモニーを失い、他方、アメリカとドイツ、日本などがその後釜を狙って争い始めた時期である。
 このため、重商主義的な段階と帝国主義段階は類似してくる。
 (柄谷氏は、それらを「帝国主義的」と呼ぶことにしている)
 そこで、世界資本主義の諸段階は、表1のようになる。
⇒このように見ると、世界資本主義の諸段階は、資本と国家の結合そのものの変化としてあらわれること、
また、それはリニアな発展ではなく、循環的なものであることがわかる。

・たとえば、表1で「重商主義」(1750-1810年)と呼ぶものは、たんにイギリスがとった経済政策あるいは経済的段階ではない。それは、オランダによる自由主義からイギリスの自由主義にいたるまでの過渡的段階、つまり、オランダが没落しつつあった一方、イギリスとフランスがそれにとってかわろうと熾烈な抗争を続けた「帝国主義的」な段階を意味する。
・同様に、1870年以降の帝国主義とは、たんに金融資本や資本の輸出によって特徴づけられる段階ではなく、ヘゲモニー国家イギリスが衰退する中で、ドイツやアメリカ、そして日本が台頭して争った時代である。
(帝国主義戦争は、新興勢力が「重商主義」時代に獲得された英仏蘭の領土を再分割しようとするものであった。)

※かくして、世界資本主義の段階は、一方で、生産力の高度化によってリニアな発展をするともに、他方で、「自由主義的」な段階と「帝国主義的」な段階が交互に続く、というかたちをとる。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、437頁~438頁)

<柄谷行人氏の見解>
〇こうした諸段階は、それぞれ「世界商品」と呼ぶべき基軸商品の変化によっても特徴づけられる。
 重商主義段階は羊毛工業、自由主義段階は綿工業、帝国主義段階は重工業、後期資本主義段階は、耐久消費財(車と電気製品)である。
 後期資本主義段階は、1980年代から進行してきた新段階(ここではいわば「情報」が世界商品だといってよい)にとってかわれる。
(柄谷行人『世界史の構造』岩波現代文庫、2015年[2021年版]、431頁~432頁)



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