(2023年4月16日投稿)
【はじめに】
今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
今回は、本論の次の各章の内容である。今回も、引き続き、清代の書について取り上げてみる。
●第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
●第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
●第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
●第43章 現代篆刻の表出
●第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
●第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現
ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。
【石川九楊『中国書史』はこちらから】
中国書史
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論
序章 書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
一、甲骨文――天からの文字
二、殷周金文――言葉への回路
三、列国正書体金文――天への文字
四、篆書――初代政治文字
五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
一、草書――地の果ての文字
二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
四、雑体書――閉塞下での畸型
五、狂草――筆蝕は発狂する
六、顔真卿――楷書という名の草書
七、蘇軾――隠れ古法主義者
八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
一、祝允明・徐渭――角度の深化
二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
三、朱耷・金農――無限折法の成立
四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
五、まとめ――擬古的結語
本論
第1章 天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章 列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章 象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章 波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章 石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章 紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章 書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現
結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
〇第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
・鄧石如
・日本の近代書と碑学
〇第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
・何紹基
・何紹基の書の特徴
〇第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
・明代の書
・趙之謙の書~書の終焉
〇第43章 現代篆刻の表出
・呉昌碩と斉白石の篆刻
〇第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
・篆刻の革命家としての呉昌碩
・篆刻としての書
〇第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現
・碑学の書
・篆刻という名の書
・斉白石の篆刻
・書の歴史(総括)
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
鄧石如
清代・鄧石如の書は中国書史上の一大転換をもたらした。石板や木版刷りの法帖よりも現存する石碑やその拓本を、書の原典の再現性において優位と考え、石碑上に残る隷書体や篆書体を新しい書体として描き出してみせる書のスタイルは、鄧石如に始まるという。
鄧石如と鄧石如以降の書は、新しい型を生み出すのではなく、秦漢の篆書体や隷書体を典型(モデル)としながら、それを毛筆によって擬古的に再現する新しい型を生み出すのである。鄧石如、呉熙載、楊沂孫、徐三庚、趙之謙はあたかも隷書体あるいは篆書体の習字の手本風の共通の表現相をもっている。
金農と鄭燮の生きた時代がそれぞれ、1687-1763年、1693-1765年である。また鄧石如(1743-1805年)、徐三庚(1826-1890年)、趙之謙(1829-1884年)。金農、鄭燮の活躍した18世紀初頭から18世紀半ば過ぎまでと、18世紀半ば以降19世紀の碑学派の書は表現を違える。書を見るかぎりにおいて、18世紀半ば頃に、中国書史には歴然たる亀裂があり、表現上の隔絶が見られるのである。
18世紀半ばにおける書の亀裂の姿は、金農の書と鄧石如の書を比較対照すれば理解しやすい。
横画超肥・長体の金農の隷書体の書や、ガリ版文字のような楷書体の書から、その出発点となった古典がいったい何であるかを思い浮かべるのは困難だが、鄧石如の篆書は「説文解字」や李陽冰と「泰山刻石」「瑯邪台刻石」、楊峴の隷書は「礼器碑」、徐三庚の篆書は「天発神讖碑」、趙之謙の楷書は「龍門造像記」などの北魏の楷書というように、鄧石如以降の碑学派の書はその出自が明らかであり、やすやすとその「お里が知れる」のである。
鄧石如以降のいわゆる碑学派の書は、書の生命であるところの筆蝕的抵抗力を失い、型式という外枠で辛うじて立っている。この意味において、物理的な紙のサイズや文字の寸法は大きいものの、書の表現のスケールそのものは小さくなった。篆刻の世界を「方寸」(一寸四方)と喩えるのにならって言えば、表現自体は小さく「方寸の紙」へと退縮した。
18世紀半ば以降で、画期的な質をもつ書と言えば、劉墉(1719-1804)と何紹基(1799-1873)であってみれば、この時期の清代はもはや新しい書を産み出す力を枯渇させていた、と石川氏はみている。
書自体は表現規模(スケール)の低下と、書史の終焉の始まりの姿を造形しはじめた。
(石川、1996年、351頁、356頁~357頁)
日本の近代書と碑学
鄧石如の書の出現後、法帖に依拠する帖学に対して、石碑、拓本の優位を説く阮元の『南北書派論』『北碑南帖論』が出版される。また包世臣が『芸舟双楫(げいしゅうそうしゅう)』で「逆入平出」を説き、徐三庚、趙之謙等のいわゆる碑学派の書家達が輩出する。
しかしながら、これらの論は、決して普遍的な書論、書史論ではなく、限定的・党派的な理論にすぎなかったようだ。
(この点について、日本の内藤湖南も批判している)
このいささか党派的な書の表現と書論とは、日本近代の書を次の三つの流派(エコール)に造形したと石川氏は捉えている。
① 日下部鳴鶴など、「六朝書」派
② 中村不折と河東碧梧桐による特異な「碑学受容」
③ 副島種臣による中国書史の独自の受容
① 日下部鳴鶴など、「六朝書」派
日下部鳴鶴、巌谷一六、西川春洞等近代初頭の書家達は、日本書史上欠落していた、石刻の書、刻る書の存在に驚き、「六朝書」という名称(スローガン)で、いわゆる北碑の書の学習と定着と普及につとめた。
比喩的、実際的に鄧石如、徐三庚、趙之謙の書の流れの後につながった。
そして、日下部、巌谷、西川春洞、西川寧に至る日本の書壇の主流は、日本における書字の一般的水準を、教育的、習字的側面において圧し上げた。
たとえば、日本の隷書体の看板文字や紙幣の基準体として存在しつづける隷書体は、いわば日本の近代初頭におけるこの「碑学の洗礼」によるものである。また、楷書体と上代様仮名を組み合わせた明朝体を基盤とする印刷文字も、この「碑学の洗礼」による楷書体の一般化のもとに達成されたものである。
この第一の道について、石川氏は次のような意義を見出している。日本書史は、江戸時代までの骨格を失った和様および唐様文字しかもたなかったが、近代という時空で中国石刻文字によって書字の骨格を学んだというのである。
② 第二の道は、中村不折や河東碧梧桐による特異な「碑学受容」である。
中村不折と井土霊山が康有為の『広芸舟双楫』を翻訳し、『六朝書道論』という書名で出版した。それは、「碑学」を語りつつも、石刻の書や刻る書以上に、「六朝期」を書史上のルネサンスととらえる史観で接近したものである。
つまり碑学を六朝書に拡張し、六朝書を「かたり」ながら、近代の書の表現を試みたものである。
その表現は、鄧石如、呉熙載、楊沂孫、楊峴、徐三庚、趙之謙等の型式化した篆書や隷書とはまったく異なるようだ。六朝期の「爨宝子碑」や「爨龍顔碑」等の隷楷体とでも呼ぶべき書風に目を止め、方形の素朴で可能性を孕んだ造型の書を基盤に据えている。そのことによって、西欧近代美術造型の意識を書に持ち込み、日本語の姿を、日本書史にも中国書史にも存在しない書法で描き表そうと試みた、と石川氏は説明している。
そして、この第二の道は、石刻文字の骨格よりも、むしろ中国「六朝期」を「古今集」「新古今集」に対する「万葉集」というような表現上のルネサンスととらえるところに最大の意味を有したとする。
③ 第三の道が副島種臣による中国書史の独自の受容である。
副島の訪清以降の一時期の書に、篆書や金文風の書が見られ、また、その書の「刻りの深さ」の中に碑学の影響が見受けられるそうだ。しかし、その篆書や隷書といえども、筆蝕表現上の厖大な容量はその字体に依存する度合いをはるかに凌ぎ、鄧石如以降の型式化した表現とは全く異なるものである。むしろそれは、鄧石如以前の金農、鄭燮に連なる碑学とでも考える方がよいと石川氏はみている。
京都の南画家・富岡鉄斎の隷書、篆書も金農、鄭燮に連なるとする。そして、しばしば、刀剣の銘文の刻り跡にも似た冴えを見せる中林梧竹の篆隷の書も、鄧石如以降の書史に連なると言うよりも、金農、鄭燮の書に連なりつつ、鄧石如的、篆隷筆法に辿りついたとされる。
このように、近代日本の書は、清朝碑学の受容をめぐる問題として、石川氏は総括している。
① 現在の書壇に連なる日下部鳴鶴、巌谷一六、西川春洞等は、後期碑学派・鄧石如以降の中国書史に連なった。
② 中村不折や河東碧梧桐は碑学派を「かたり」つつ、近代という時空での表現を模索した。
③ 副島種臣は後期碑学派的形骸化には目もくれずに、前期碑学派の後に自らの書を位置づけた。
この第三の道は、鄧石如以降のいくぶんか自閉し、党派化した書史を参照することなく、それ以前の書史に自らの書史をつなげ、新しい書史を日本において展開した。
以上のように、近代日本の書について、石川氏は理解している。
(石川、1996年、355頁~356頁)
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
何紹基
何紹基(1799-1873)の書はいつ見ても気持ちがいいという。濁りがなく澄明だ。運筆と気象がゆったりとしていて大きく、また正統でありながら、緻密な謀り事で大胆に定型を逸脱してもいる。その味わいはすがすがしく、書風の育ちの良さ、書風の貴族性は疑うことができない。
外観に反して、何紹基の隷書はのびやかで壮大な気宇をもっている。対して、趙之謙のそれは外観に反して、その構成法、展開法等を仔細に観察すると、とてもスケールが小さい。言ってみれば趙之謙の書は篆刻、「方寸の世界」なのだと言ってもいいだろうという。何紹基の隷書は繊細であり微細であり、きめ細かな思想を背負っているところの書そのものである。
何紹基の書は伝統的であり正統である。その例はひとつの文字の最終画を終わりの意味合いを込めて強くしっかりと書くことだけからも、理解できる。しかもその伝統、正統をふまえながら、それが従来の書に見られぬ書きぶりにまで引き上げたところに、何紹基の書の非凡さががある。
ただし、イメージの暴走と筆蝕の暴走もあるという。
(石川、1996年、359頁、362頁~364頁)
何紹基の書の特徴
清朝は碑学の盛んであった時代である。
帖学に代わって碑学の立場に立った書は多い。そして北魏、六朝の楷書や隷書、篆書、さらには古文を書いてみせた書家も多い。
ただ、作品に即してその中から碑学の最高峰の三人を選ぶとすると、石川氏は、金農、鄭燮、そして時代はずっと下がるが、何紹基を挙げている。
金農は、石碑の文字の、刻る書の秘密に到達して斬り削り、削ぎ落とすような書を残した。また鄭燮は、その石碑文字の奇怪さを知って奇怪な書を残した。
そして何紹基は、彼らとは異なって、碑学とは思わせないような書きぶりの中に隷書や北魏書の精髄を忍び込ませた。碑学的ではあるけれども、何紹基は、碑学主義者ではなかったと石川氏はみている。
たとえば、何紹基の隷書の屏「荘子逍遥遊篇」の作なども、その穏やかに見える書きぶりに反して、スケールのとても大きな作であると評している。
逆に入筆して、多くは下そり(字画の中ほどが下に下がる)に書かれるのびやかな横画が一気に書かれているわけでもないのに、穏やかでのびやかで、不思議に印象的である。
また、何紹基の「行草山谷題跋語四屏」は、書を書く楽しさが満ち溢れている。
生まれた文字達は曲折を秘めつつも、のびのびとその生を謳歌している。生まれ育ちのよい、幸福な文字達であると石川氏は表現している。
そこには北魏、隷書にとどまらず、蘇軾や黄庭堅の姿も見えるらしい。一辺倒の碑学派ではなく、帖学派もしっかりとふまえているという。
(それが時代とともにありながら、時代の流行に堕ちずに、生まれ育ちのよさを秘めている理由であると推察している)
何紹基の生きた時代は、碑学の諸家(スーパースター)が、ぐるりととり巻く碑学派全盛の時代であった。たとえば、何紹基の前に鄧石如、その後に徐三庚や趙之謙、同世代に呉熙載という碑学の諸家がいた。
しかし、何紹基の書は、いわゆる碑学派的ではなく、帖学派でもなく、碑学帖学という小さな党派闘争を超えた存在であったようだ。
その理由を石川氏は次の点に求めている。
何紹基は、「無限折法」を隷書や篆書に擬態的に組織するだけで満足せず、書字の現場をくぐらせることによって、行草書に用いるというスタイルを樹立したことにあるという。
(石川、1996年、368頁)
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
明代の書
明代になり、祝允明あたりから、とりわけ徐渭の書に至ると、書の荒れの迫力とでもいうような表現が定着されてくる。墨が渇れただけでなく、荒れたかすれが強く表現され、かすれそのものが筆蝕の速度や深度表現のひとつの武器となるのである。
筆が荒れることは、書の表現史上明代頃になって自覚的に出現してくる。王羲之や孫過庭の「書譜」など宋の時代においては偶然は別にして、祝允明や徐渭によって表現されたような形での「荒れ」や「かすみ」は決して描き出されえない。
微粒子的律動そのものが、その振幅を強めて露出した時、「荒れ」や「かすみ」が造形される。その振幅を強めた筆蝕=「微分折法」の成立が明代の徐渭の文字の極端な大小と落差を伴った大胆な書を成立させたのである。徐渭を経て、「渇れ」と「荒れ」の魅惑的な倪元璐の書も、各体をまぜた王鐸の「行書詩巻」のこすりつけるような筆蝕も、また黄道周や傅山、許友等の大胆な筆蝕の展開による狂ったような造形も可能になった。
明末連綿草と金農等の碑学派との間をつないだのが、書の表現の上から推量すれば、朱耷・八大山人の書である。いわば筆で「こすりつけただけ」にすぎない、俗に言う「みみずの這った」ような朱耷の書が、書史上異彩を放つのは三折法の枠組みを壊すまでにも至った「無限折法」「無限微分筆蝕」の姿をもつからである。
八大山人の書の魅力は、日本人が考えているような、愛らしさにあるのではなく、「無限微分筆蝕」にこそある。つまり朱耷の書はいわば明末連綿草と清朝碑学を結ぶ結節点の役目を担ったのである。
(石川、1996年、370頁~372頁)
趙之謙の書~書の終焉
清朝末期、時代は追いつめられ、書もまた追いつめられていることを趙之謙の書を見ると思い知らされるという。方寸の小さな枠組みという陣地の中に身を置くことによって、辛うじて書は守られているとも言える。ひとつの書の終焉の風景であり、これ以後、中国においては、郭沫若、毛沢東を除けば、これと言える書がほとんど出現しない理由である。中国の書が西欧世界を震源とする世界史の18~19世紀以降の激動と無縁でなくなってしまったせいであろう。
中国書史は東アジア的な枠組みにおいては趙之謙の書をもって終焉する。もっともその起源にまで溯れば、金農、鄭燮で終わりであり、どんなに下っても何紹基で終わったという言い方も可能であろう。
(石川、1996年、377頁)
第43章 現代篆刻の表出
呉昌碩と斉白石の篆刻
書とは異なった表出原理の上に成立する篆刻という芸術がある。
中国明清代から日本の近代、現代の篆刻の印譜(いんぷ、印影集)を時系列的に鑑察していくと、表出が変わったと指摘できるポイントがいくつかある。
中でも中国の呉昌碩(1844-1927)、斉白石(1863-1957)、日本では、河井荃廬(1871-1945)、中村蘭台二世(1892-1969)の印影では、時代を画するほど新しい篆刻世界が表出されている。
呉昌碩と河井荃廬でひとつの大きな変わり目があり、近代的表出であると石川氏は称している。そして斉白石や中村蘭台二世の篆刻が、きわめて斬新で現代的な表出に転じている事実は多くの人に共有されるようだ。
表出された印影自体に即して印影のどこがどのように転位したことが、近代的、現代的世界を表出していると言えるかどうかについて、具体的に石川氏は解説している。
石川氏は、印と書の表出上の最も本質的な差は輪郭の有無にあると考えている。
文字や絵が輪郭や枠で囲まれているのが印、囲まれていないで開放された場に文字が浮かび上がるのが書であるとする。その姿を思い描けば、印と書の本質的な差を確認できるという。
呉昌碩の篆刻がある近代性を備えているように見えるのは、その最も本質的な点で、篆刻が「風化」「風蝕」の美を再現することに気づき、文字の「風化」や「風蝕」の姿を人工的に描き出した点にあると石川氏は主張している。日本でその姿を再現したのは、河井荃廬だという。
輪郭の周囲を砕き、砕いた姿が人工的に再構成されている例として、呉昌碩の「石人子室」の朱文(文字が朱色で現れる)の印は代表的である。
呉昌碩の「石人子室」は、「風化」「風蝕」の美を抽象的、人工的に大胆に構築している。呉昌碩の印では刻ることがそのまま欠けることであるような刻法の段階(ステージ)にせり上がっている。この点で篆刻の世界では、呉昌碩を近代篆刻の父と考えるのは理由のないことではない、と石川氏は考えている。
そして、呉昌碩の到達した篆刻の表出段階(ステージ)をさらに推し進めたのは斉白石である。
白文「老白」の四隅は、自然のはたらきを連想させる「風化」や「風蝕」ではなくて、印面や輪郭、枠や輪辺の人工的変形という段階(ステージ)にまで圧し上げられている。「白山」の印のいわゆる欠けは、もはや「風化」や「風蝕」を再構成する姿から遠く隔たっており、代わって、白文の場合に字画の片側だけを斬り割(さ)く、単刀直截法によって、石を斬り割いたという雰囲気の字画が出現している。
ここでは印刀が石を斬り砕く刀痕=刻痕=刻蝕=筆蝕が露出している。
(この筆蝕の露出を好ましく思ったからこそ、彫刻家・高村光太郎は斉白石の刻した「光」の印を終生愛用しつづけたとされる)
趙之謙等によって自覚的に発見、再現された「風化」「風蝕」の欠けは、呉昌碩によって人工度を増して「風化」「風蝕」の範囲から、剝がれはじめる。ついに斉白石に至って、「風化」「風蝕」とのつながりを基本的に断って、刻蝕=筆蝕となり、刻面の構図、構成の現出のために従えられるようになった。
字画の輪郭の欠けは、自然との一体性から離れて表現の武器に転じたと石川氏は捉えている。つまり、篆刻の近代が「風化」「風蝕」の美を人工的に再現しようとしたのに対して、斉白石と中村蘭台二世は「風化」「風蝕」の美学の延長線上に、篆刻を新しい段階(ステージ)へせり上げた。異空間を形成する輪郭、輪辺こそ印の証しであったが、斉白石と中村蘭台二世はその輪郭を消し去ろうとした。
(そのおそらく無意識の試行は、篆刻が印であることから脱して書に近づこうとしている姿に違いないともいう)
斉白石の篆刻の斬り割いたような字画刻蝕、中村蘭台二世の斬り込み、刻み込む字画刻蝕は現代の書にも似た筆蝕を表出している。この頃からの書の「にじみ」や「かすれ」は、篆刻の「割れ」や「欠け」の比喩としてつながる構造が成立するようだ。
(現代日本の篆刻家や書家達が呉昌碩までは評価しえても、斉白石になると、「格調が低い」とか「泥くさい」とか評せざるをえないのは、斉白石段階(ステージ)の篆刻について評する言葉を新たに形成しえないでいるからだと石川氏は批判している)
(石川、1996年、378頁~384頁)
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
篆刻の革命家としての呉昌碩
呉昌碩は、自らの芸術を篆刻第一、書第二、画第三と評した。
石川氏は、やはり、呉昌碩は篆刻家であるとみている。篆刻にひとつの革命をもたらした大篆刻家であるというのである。つまり、呉昌碩の書も絵も評判の高いものであるが、それらは篆刻ほどのものとは思えないようだ。
(石川氏によれば、呉昌碩の書いた書は篆刻であり、描いた絵もまた篆刻であった。ここに呉昌碩の表現を解く鍵があるとする)
呉昌碩の篆刻が、趙之謙までの篆刻表現の水準を超えた最大の特徴点は、「境界の越境」にあると石川氏は主張している。ここに、呉昌碩による篆刻の革命があった。
たとえば、朱文「蘭阜髙興」の印を例に挙げている。この印では、文字と飾り枠が一体化している。この表記は伝統的に言えば、きわめて異様な構成法である。文字の本体をなす字画と輪郭と結界線は異質の水準のものであるにもかかわらず、呉昌碩は同質のものととらえている。
篆刻の本質を「風化風蝕」の美学に高めた呉昌碩は、「風化風蝕」の比喩として字画や輪郭を徹底的に欠かす。つまり、字画と、輪郭と区切り線の境界の越境である。
呉昌碩の印の中でも傑出した作である「大龢(和)元気」にも、その姿を見ることができる。「龢」字においては、字画の中央まで虫に食われたような状態に刻られており、かつその姿がなかなか見事な決まり方をしていると評している。
このように、呉昌碩は、篆刻の美の秘密が「風化風蝕」にあることを知り、かつ表現した。呉昌碩は、字画と非字画、輪郭と非輪郭の間の境界を越境し、両者の対立をぼかし崩している。
呉昌碩の印は穏やかだが、また鈍重である。
対して趙之謙の方は、字画間に緊張があり鮮やかで鋭く、また刻られなかった朱の部分も鮮やかに目にしみるという。趙之謙の白文の印の緊張は、朱を鮮明にきわめ立たせ、疎・密、すなわち朱と白との対立的戦略(篆刻法)を駆使している。呉昌碩と較べれば、趙之謙は字画構成も水平・垂直に近づけ、また字画の太さも均質にし、字画の両端も抑制的に整えている。
呉昌碩は、字画構成の疎・密においても、その疎密の境界を越境し、取りはらおうとしている。趙之謙によって鮮やかになった疎密を再び越境しようとしている。
趙之謙は極限と対位法を知り、それに拘泥した一級の篆刻家であった。その趙之謙の書は、もっぱら「逆入平出」の運筆法に従ったように、印もひとつの定法を発見した後は、その法に従った。趙之謙の印は、おおむね白文の字画は太く、朱文のそれは細い。
一方、呉昌碩は、白文も、朱文印も、ともに字画が太いか、あるいは中間的であり、対位法の無頓着、あるいは対位法の越境の姿を見せている。
趙之謙の印も呉昌碩の印も、ともに日本では、人気のある篆刻である。
むろん対位法を際立たせた鮮やかで都会的な趙之謙よりも、さまざまな段階で境界を「くずし」「ぼかし」た暖かみ(ママ)と野趣がある呉昌碩の方が人気が高いそうだ。
しかし、その野趣に見えるところが単なる野趣にとどまらず、字画と輪郭、字画と非字画、存在と非在の境界を溶かしてみせるというような、通常は思いつかない革命的な仕掛けをもっているところが、呉昌碩の篆刻の真の非凡さであると、石川氏は評している。
(石川、1996年、385頁~388頁)
篆刻としての書
呉昌碩の「壽蘇詞」は、呉昌碩が長尾雨山に送った書である。
これは篆刻家の書である。書家なら決してこうは書かないし、書家としてはありえない書であると石川氏はみている。
この書は比喩的に言えば、隷書体的字画で書かれ、字画が密に描かれているところは篆刻的篆書を思わせている。
清代の王澍は、その著『論書賸語』の中で、
「結字、すべからく整斉中に参差あらしむるべし」
「篆書に三要あり。一に曰く円、二に曰く痩、三に曰く参差」
と記している。
書は整斉と参差を武器として成立する表現である。整斉とは、均質と統一、つまり和音、参差とは微妙な差、落差つまり音階であると石川氏は説明している。
整斉であると同時に、参差の微妙は書の表現に不可欠の要素である。書は和音(反和音)と音階(反音階)の美学でもあるというのである。
そして、呉昌碩の「壽蘇詞」という書は、整斉はともかく、参差の表現の微妙度が足りないと評している。この書は、いわば「和音あって、音階なし」の画一の世界として描き出されているという。
(石川、1996年、389頁~391頁)
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現
碑学の書
碑学の書と一口に言っても、いわゆる楊州八怪の金農や鄭燮の碑学の書は、その後の鄧石如、呉熙載、楊沂孫、張裕釗、徐三庚、趙之謙等の書と相当貌立ちを異にしている。後者の中で異色の存在が何紹基であり、多少異質な存在が張裕釗であり、その碑学の書の最後に趙之謙が位置するという。
これらの碑学の書の中で魅力的なものは、金農や鄭燮のいわば前期碑学派の書である。
ところが鄧石如、徐三庚や趙之謙ともなると、書はある種の型として膠着し、安定した趣のものと化している(石川、1996年、第42章の372頁)。
篆刻という名の書
鄧石如、呉熙載、何紹基、楊峴、張裕釗、徐三庚、趙之謙等の活躍した中国の18世紀後半から19世紀は、中国碑学の黄金時代であった。
ところが、一転して20世紀に入ると書として見るべきものは少ない。呉昌碩や康有為の書あたりでは、ちょっと首をかしげざるをえない。毛沢東の奇筆と郭沫若の正系の書には興味をそそられるが、これらとて書史上の何事かであるとは言い難い。だが、呉昌碩と斉白石の篆刻は注視に値するという。
(石川、1996年、395頁)
斉白石の篆刻
彫刻のような高村光太郎の書の傍らに添えられた刻蝕の鮮やかな「光」の印がある。この「光」の印は斉白石(1863-1957)の手で刻られたものである。
呉昌碩と斉白石の篆刻は注視に値すると石川氏は評価している。
呉昌碩の篆刻が、近代の篆刻の中で、標準(スタンダード)の位置を占めるのは、それが、篆刻の美学を風化・風蝕の美学として実践的に確立した点にあるとされる。文字の字画や輪郭や輪辺を欠かし、その欠けをあたかも自然の営為による風化・風蝕であるかのように、再構成したと石川氏は捉えている。
一方、斉白石の篆刻はどうか。
その鮮やかさは、字画や輪辺の欠けや割れの背後に幻視された自然の風化、風蝕の厚みを鮮やかに剝ぎ取って、直截的な字画や輪辺の割れや欠けをそれ自体として、つまり字画の変形、歪形として提示している点にあるという。
この点で、斉白石は呉昌碩の表出の段階(ステージ)をはるかに抜きん出ていったようだ。
斉白石のいわゆる「単刀直截」法による、ガリガリと石を削る音の聞こえるような字画は、篆刻の表出の次元を変えた。伝統的な見かたからすれば、篆刻をねじ曲げている。
20世紀に入って魅了する中国書の少ない中で、斉白石の篆刻は、光を放っている。中国の書は、20世紀に印という小さな表現空間に立て籠ることによって、書の段階(ステージ)を圧し上げたと石川氏は評している。
少なくとも斉白石の篆刻には、東アジア漢字文化圏の芸術がひとつの臨界に届いて苦しみ、かつ自らの可能性を全開している姿があるとみなす。
ただ、斉白石の篆刻には、「格の低さ」という評価が、最近の日本の篆刻界には定着している。
斉白石の篆刻の世界が深さと重厚さを欠如し、表層的浮薄に見える点が指摘されている。正方形の四つの角を人工的に少し丸めただけという不自然な輪辺作法(さくほう)が、印面の厚み感を欠落させ、薄っぺらな感じをふりまいているという。
この点、薄ぺらな印面と深く鮮やかな字画刻蝕という対位が斉白石の篆刻の特異性であると石川氏は考えている。
(石川、1996年、395頁~398頁)
書の歴史(総括)
甲骨文に始まり、金文、篆書、隷書、草書、行書、楷書という書体の転遷を達成し、古代宗教文字から政治文字、文明文字そして言葉の文字へと転生し、その内部にあっては文字を書くことから字画を書くこと、さらに筆触、そして筆蝕を書くことへと展開し、また二折法から三折法、三折法から多折法、多折法から無限折法、無限微分筆蝕へと書史は発展した。その背後に、刻蝕と筆触との争闘の歴史があり、今なおその闘いを永続しているのであるという。
(石川、1996年、398頁)
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