SHAンパンでもいかが?

「最終楽章 気分はAdagio」
77歳の一人暮らし。

先駆者

2024-01-11 09:12:00 | 日記

瀧 廉太郎
(1879−1903)

明治12年
瀧廉太郎は東京で生まれ
生家は
新橋と虎ノ門の間でした。
官僚だった父の
転勤にともなって
横浜に移り
暫く暮らします。

横浜は外国人が住み
教会が多くありました。
隣に住む松川家は
カトリック信者の一家で
家庭音楽会に
招かれます。

その後、
父の転勤で
富山、東京と移り
1891年には
大分の竹田市で
高等小学校に転入します。
彼はこの学校にあった
リードオルガンに
触れることを許さるた
唯一の生徒でした。

1894年
14歳の時に
一人で東京に戻り
現在の
東京芸術大学音楽学部
に合格します。
4年後には
本科を首席で卒業して
研究科に進み
ピアニストとしてデビュー
この頃には作曲も初め
ました。

留学を決めたのは1901年
その前年に
日本聖公会の教会で
洗礼を受けます。

留学先は
ドイツ・ライプツィヒ。



メンデルスゾーンが
設立した
ライプツィヒ音楽院に
初めて入学した
日本人でした。

5ヶ月ほど経った頃に
肺結核を発病し
入院します。
長い治療が続きますが
良くならず
翌年の7月には
帰国を余儀なく
されます。
ロンドン経由で
横浜に戻り
その後
大分で療養生活を
送りますが
翌年、23歳の若さで
この世を去りました。

ライプツィヒには
記念碑が設立されました。
「日本で敬愛された作曲家
瀧廉太郎は1901年から
1902年までフェルディナンド通り7番に住み
ライプツィヒ音楽院で
学んだ。短い一生の中で
彼は数々の名曲を残し
日本の近代音楽の扉を
開いた功績は
永遠に輝き続ける」と
日本語とドイツ後で
記されています。



≪花≫
ウィーン少年合唱団