孫と遊んでいます。
お料理は
お嫁ちゃんに任せて
71歳差の遊び友達(笑)
✨✨✨✨✨
ヨハン・パッヘルベル。
(1653-1706)
パッヘルベルは
ドイツの
ニュルンベルクに
生まれました。
幼い頃から
音楽と学問の分野で
着々と力を
つけていきます。
大学の教授たちは
パッヘルベルの
学問の才能に
感動していました。
パッヘルベルに
チャンスが
訪れたのは
1673年。
青年時代に
ウィーンの
シュテファン大聖堂の
副オルガニストに
応募して
採用されました。
パッヘルベルは
プロテスタントの街
ニュルンベルクで
キャリアを
スタートさせました。
その後
南ドイツや
イタリアなどで
カトリックの宗教曲に
触れる機会があり
厳格なルター派とは
対照的な
カトリックの音楽を
学びましたが
更にカトリックの
大都市ウィーンで
修行を重ねることに
なったのです。
又、パッヘルベルは
バッハ一族の
音楽教師を務め
のちの大バッハに
大きな影響を
与えました。
学問と音楽の両立は
もちろん
プロテスタントと
カトリックの教会音楽の
いずれも身につけた
バランス感覚に優れた
音楽家だったようです。
パッヘルベル
「カノン」
夜になり息子達が
帰省しました。
孫の声で家が
賑やかです。
✨✨✨✨✨
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ
(1714-1788)
大バッハの次男として
生まれたカール。
翌々日には
洗礼を受けますが
ゴッド・ファーザーは
テレマンでした。
テレマンは当時、ドイツで
最も有名な音楽家でした。
エマヌエルの
ミドルネームは
ゲオルグ・フィリップ・
テレマンの名前から
名付けられました。
はじめての音楽教育は
大バッハで
長男と同じように
英才教育でした。
その後、長男と同じく
ライプツィヒ大学法学部に
進学しますが
その後、
フランクフルト・アン・デア・オーデルの大学に
転学します。
学生として学びながら
鍵盤楽器を
教えていました。
その評判は
プロイセンの王子
フリードリヒに届き
フルートが得意の
王子のチェンバロ伴奏者と
なりました。
王子は
プロイセン国王に即位し
エマヌエルは
正式に
プロイセン宮廷音楽家に
採用され
ベルリンに移ります。
こうしてエマヌエルは
ドイツで
一番勢いのある宮廷に
召し抱えられました。
夜には息子達が
帰省します。
日頃、私物を
部屋中に
広げていますので
片付けに
追われています。
間に合うかな。💦💦
🥀🥀🥀🥀🥀
ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ
(1710-1784)
大バッハの
長男として生まれ
20人の子供のうちで
最も溺愛されます。
はじめての音楽教育は
父がおこないましたが
教科書として
≪ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのための小曲集≫
で楽典の基礎を
学んだあとに
≪インベンションとシンフォニア≫で
鍵盤の技術を学び
≪平均律クラヴィーア曲集≫でフ―ガを習います。
大バッハによる
完璧な英才教育を
受けます。
10歳になると
作曲のレッスンも
始まりました。
当時のドイツは
大変な学歴社会で
そのことを
思い知っていたバッハは
ライプツィヒに
転勤になった時
息子が
まだ13歳であるにも
関わらず
入学の手続きを
していました。
フリーデマンは
ライプツィヒ大学
法学部に入学。
音楽でも父の期待を
一身に背負い
ドレスデンで
オルガニストに
就任します。
このときの
履歴書や書類
試験曲の作曲まで
父親が書いた
ようです。
↓
ドレスデン
父親の過保護は
のちに
フリーデマンを
風変わりな人間へと
変貌させて
いきました。
大バッハの死後
フリーデマンの生活から
父の威光が失われると
フリーデマンは
不安定な生活と
だらしない性格から
相続分の
父親の自筆譜を
多く散逸させたばかりか
父の作品を
自作だと
偽っていました。
就職先も失い
その後は
放浪生活の日々を続け
貧窮の末に
世を去りました。
ディミトリ―・ショスタコーヴィチ
(1906―1975)
鉱山技師で音楽愛好家の父と
アマチュア・ピアニストの母
の間にペテルブルクで
生まれました。
1919年、13歳で
ペトログラード
音楽院に入学。
作曲の勉強を始めました。
音楽院時代には
グラズノフから
目をかけられ
18歳の卒業時には
「交響曲1番」を発表。
早くも国際的な
注目を浴びました。
1927年
第1回ショパン・コンク―ルに出場するために
ワルシャワ入りしましたが
盲腸炎を患い
手術する時間がないまま
投薬で痛みを堪えて
コンク―ルに臨みましたが
結果はレフ・オボ―リンが
1位となり
ショスタコ―ヴィッチは
上位入賞に留まります。
当時のソヴィエトは
スターリンの独裁時代。
言論、思想はもちろん
芸術活動に対しても
吊るし上げられ
シベリア送りや
処刑などの
厳しい懲罰が
待っていました。
窮地に立たされていた
ショスターコ―ヴィッチは
スターリンの植林事業を
称えた「森の歌」を作曲
これがスターリンの
大絶賛を受けます。
国家の体制と
板ばさみになりながらも
自身の高い芸術的基準を
満足させる作品を書き
特異な政治体制のもとを
不屈の精神で
生き抜きました。
🥀🥀🥀🥀🥀
幼い頃から
ジャズが大好きだった
ショスターコ―ヴィッチ。
ジャズ組曲を書いています。
映画「山猫」より
アラン・ドロン
クラウディア・カルディナーレ
玄関が
クリスマス・モ―ドに
なりました。
✨✨✨✨✨
パウル・ザッハ―
(1906―1999)
スイスの指揮者で作曲家
1906年にバ―ゼルに
生まれましたが
普通の子供でした。
学生の頃は
お金がなく
小さな子供達に
ヴァイオリンを教えて
なんとか学費を
賄っていました。
1926年に
バ―ゼル室内楽団を
設立しましたが
彼は世界的な製薬会社
エフ・ホフマン・ラ・ロシュ
の相続人マヤと
結婚します。
これにより
巨万の富を
得ることに
なりました。
パウル・ザッハ―
↓
巨額の資金を
手にしたザッハ―は
バ―ゼル室内楽団のために
著名な作曲家達に
次々と新作を
依頼するように
なります。
リヒャルト・シュトラウス
ストラヴィンスキ―
オネゲル、ヒンデミット、
ブリテン、バルト―クなど
20世紀を代表する
作曲家が作品を
書いています。
武満徹も依頼を受けて
書きました。
ロシュ社は
現在でも
世界屈指の
製薬会社として
知られていて
ロシュ社が
販売する薬に
インフルエンザの
特効薬「タミフル」が
あります。
彼の死亡時の資産は
2兆3800億円だった
ようです。
✨✨✨✨✨✨
夕方、レッスンに
やってきた断崖君!
またもや断崖絶壁の
ピンチです。💦💦
「Silent night」
✨✨✨✨✨
孫のところには
サンタさんが
やってきたようで
寝起きの顔で
プレゼントを開ける
嬉しそうな
動画が届きました。
私のところにも
素敵なプレゼントを
届けて頂きました。
深紅のゴ―ジャスな
アレンジメントに
気分は
クリスマス全開です。
そして更に……。
息子達が
帰省しますので
楽しみに頂きます。
普段は
家中に私物を広げて
自由に
生活していますので
息子達が生活できるように
片付けを頑張ります。(笑)
「アデステ・フィデレス」
(7‘17")
ヴァチカンのミサは
今朝、配信されましたが
長いので
昨年の入祭です。
今夜はクリスマス・イブ
孫はサンタさんを
待ちかねています。
(*^^*)
🥀🥀🥀🥀🥀
1842年に作曲された
「英雄ポロネ―ズ」は
ショパンの作品の中でも
人気を誇る名曲です。
「英雄」というタイトルは
ショパンがつけたものでは
ないのですが
人知れず「英雄」の名で
知れわたるように
なりました。
この曲は友人である
アウグステ・レオに
献呈されます。
ムッシュ―・アウグステ・
レオに捧げると書かれた
自筆譜
↓
アウグステ・レオは
メンデルスゾーン家が
経営する
メンデルスゾーン銀行
パリ支店の代表を
務めたあと
自身の銀行を
パリで開きました。
音楽好きの
レオのサロンには
沢山の音楽家達が
集まりました。
ショパンとレオは
ショパンがパリに
到着した翌年から
晩年まで
ずっと続きましたが
レオは資金に関する
アドヴァイザー
楽譜出版の時には
出版社との交渉の
代理人として
ショパンを
助けました。
ショパンはレオと
一度お金のいざこざを
おこしていますが
それを乗り越えて
堂々とした躍動感のある
この名曲を
献呈しています。
ハレルヤコ―ラスで
知られる
オラトリオ
「メサイア」は
年末になると
多くの合唱団が
とりあげる
ヘンデル作曲の人気曲。
彼はオペラのために
王室音楽アカデミーを
立上げて
ヨ―ロッパ中を
飛び回っていましたが
ロンドンに出現した
乞食オペラという
滑稽な内容のものに
人気をさらわれ
莫大な負債を抱えて
倒産します。
更に脳卒中で倒れ
右半身麻痺となります。
54歳の彼が
この悲嘆の中で
書き上げた作品が
「メサイア」でした。
メサイアの
成功を機に
お金のかかりすぎる
オペラから
簡素な舞台装置で
上演できる
オラトリオに切り替え
舞台の合間には
得意のオルガンを
左手で演奏して
ロンドンっ子を
魅了します。
74歳の時
コベント・ガ―デン
王立歌劇場で
指揮した直後
ステージで倒れて
8日後に安らかに
旅立ちました。
✨✨✨✨✨
メサイアはその後、
モ―ツァルトが
ウィーンで
演奏しましたが
この作品がポピュラーに
なったのは
サンドウィッチ伯爵などの
3人のヘンデルの熱狂者が
ロンドンの
ウェストミンスタ―寺院で
1784年に
「第1回ヘンデル音楽祭」を
開催して「メサイア」を
上演したことに始まります。
それ以後
音楽祭の定番となり、
国王の臨席も
なくてはならない
イベントに
なったのです。
「ハレルヤ」
今年一番の冷えこみで
昨日は
寒暖差アレルギーで
グズグズでした。
✨✨✨✨✨
夏のある日
レッスンに来た
中1のお嬢さん。
普段は無口ですが
突然に
「コンク―ルを受けたい」と
偶然にもすぐに
予選会が見つかり
受けたところ
本選、全国大会へと
進む事になりました。
彼女は本が大好きで
小学生の時に
「蜜蜂と遠雷」を
読んでいて
コンク―ルに
憧れを持っていた
ようです。
学校も部活も
レッスンも普段通りの
チャレンジでした。
落ち着いた演奏で
スタインウェイの
フルコンサ―トを
楽しんだようですが
入賞はできませんでした。
又、チャレンジしたいと
意欲満々ですが
中1・中2の部
曲のレベルが高く
プロコフィエフ・ソナタや
ラヴェル「水の戯れ」など
難曲がズラリ……
✨✨✨✨✨
遅目のランチは
カウンタ―での
一人ランチ。
今日はコンク―ルの本選会。
朝が早いので
名神高速に乗りましたら
30分で着きました。
「ピ―タ―と狼」や
「3つのオレンジの恋」
など多数の作品を書いた
セルゲイ・プロコフィエフ
(1891−1953)
著名なピアニスト、
作曲家として
活躍しました。
1917年
ロシア革命の嵐の中
シベリア横断鉄道に乗り
ウラジオストックに到着。
汽船に乗り換え
5月31日に敦賀港に上陸し
6月1日には東京に着いて
南米行きの船を探しますが
すでに出港したあとなので
8月まで日本に滞在する
ことにしました。
その間に東京、京都、奈良
軽井沢、箱根などを
訪れます。
音楽評論社の
大田黒元雄氏らが
彼を訪ねて
急遽、帝劇で
リサイタル開催と
なりましたが
大正7年の日本では
プロコフィエフの名前を
知る人はなく
客席に人はまばらだった
ようです。
8月2日
横浜港から
アメリカに向けて
出発しました。
ニューヨーク、シカゴ、
ロンドン、パリと
18年にわたる
亡命生活で
世界を駆け巡りました。
1935年、44歳で
ロシアに戻り
バレエ
「ロミオとジュリエット」
を発表して
大成功を収めます。
1953年3月5日に
この世を去りましたが
スターリンと同じ日。
天才作曲家の訃報は
紙面の片隅に
追いやられました。
「カルメン」は
フランスの作曲家
ジョルジュ・ビゼ―が
書いたオペラです。
兵士ホセが
ジプシ―のカルメンに恋し
結ばれたものの
気まぐれな彼女に捨てられ
嫉妬に狂ったホセが
カルメンを殺す物語。
初演後
カルメンの歌う
「ハバネラ」が
ビゼ―の
オリジナルではないと
訴えを起こされたのです。
ビゼ―は無断借用の
意識はなかったのですが
かつてお付き合いした
「元カノ」が歌っていた
歌とリズムが
いつまでも彼の脳裏に
残っていたようです。
ビゼ―が27歳の時
14歳年上の女優兼歌手と
逢瀬を重ねていましたが
彼女の持ち歌が
「アイ・チキ―タ」でした。
作者不詳の中南米民謡と
思い込んでいたビゼ―は
「ハバネラ」として
使用したのです。
初演直後に
気付いたビゼ―は
楽譜に借用であることを
明記していましたので
お咎め無しには
なりましたが
ビゼ―自身は
事の顛末を
見届けることは
ありませんでした。
彼は3ヶ月後の
6月3日には
この世の人では
なかったのです。
きれいな葉付きの
ミカンを頂きました。
✨✨✨✨✨
リムスキー・コルサコフ
(1844−1908)
ペテルブルクの南東
ノヴゴロドの
貴族の家系に
生まれました。
幼い頃から
ピアノを習いましたが
12歳の時に
海軍兵学校に入学。
1862年の秋には
士官候補生として
世界一周の遠洋航海に
出発します。
後年、彼は
オペラ「サトコ」や
交響詩「シェへラザ―ド」
などに航海で体験した
海の描写などを
反映させました。
1865年、コンサートで
歌手のナデ―ジタ・プルクゴルドと知り合います。
彼女はペテルブルク中の
画家が競って
モデルにしたがるほどの
美人で音楽の才能にも
恵まれていました。
1871年、27歳の彼は
ペテルブルク音楽院の
作曲家の教授に
招聘されましたが
教授就任の折に
相思相愛の
ナデ―ジタと結婚し
古今の音楽家の中でも
屈指の愛情ゆたかな
家庭生活を送りました。
彼の最後の作品は
オペラ「金鶏」です。
第2幕の「太陽の讃歌」を
ヤッシャ・ハイフェッツの
ヴァイオリン演奏で。
昨日は寒い朝。
肌を刺すような
冷たい強風で
震え上がりました。
✨✨✨✨✨✨
美味しいクッキーで
ティータイム。
休日の夜は
「クラシック音楽館」
ドイツ音楽です。
べ―ト―ヴェン
ピアノ協奏曲「皇帝」
ピアノは
レイフ・オヴェ・アンスネス
指揮 尾高忠明
心が浮き立つような
明るさで始まりました。
ピアニストの端正で美しい
いぶし銀のような
演奏を聴かせて
もらいました。
アンコ―ルは
ブラ―ムス「間奏曲」
Op.116−6
後半は
ブラ―ムス
交響曲第3番
第1番・第2番・第4番に
比べて
あまり演奏される
ことがない曲です。
どちらかといえば
交響曲というよりも
室内楽的で
3楽章は悲哀に満ちた
美しいメロディが
印象的です
4楽章の最後は
静かに終わるので
演奏は難しいのです。
しかし
フランソワーズ・サガンの
小説「ブラ―ムスはお好き」
を映画化した
「さよならをもう一度」で
世界的に有名になりました。
今夜の第3番
名演でしたね。
昨日は雨が
降ったり止んだり。
風も強くて
椋の木は
「最後の一葉」状態です。
✨✨✨✨✨
モンテヴェルディ
(1567−1643)は
世界で最初のオペラ
「オルフェオ」を
書きました
モンテヴェルディが
仕えたのは
ヴィンチェンツォ1世で
イタリアのマントヴァの
巨大なドゥカ―レ宮殿に
住んでいました。
↓
ヴィンチェンツォ公は
ケチで荒っぽいのですが
芸術が好きで
自身で詩を作り
作曲もしたようです。
モンテヴェルディ
画家のル―ベンスも
雇っていました。
ル―ヴェンス作
「ヴィンチェンツィオ1世」
↓
オペラ「オルフェオ」は
ギリシャ神話に登場する
吟遊詩人ですが
彼の冥府下りの物語です。
ドゥカ―レ宮殿の初演は
大好評で
ヴィンチェンツィオ公も
大満足で即座に再演。
イタリア各地に噂が広がり
上演依頼が相次ぎました。
このオペラは
モンテヴェルディの死後
忘れ去られていましたが
再び上演されるように
なったのは
20世紀になってからの
ことです。
このオペラの冒頭
「トッカ―タ」で演奏される
勇壮なファンファ―レ。
(4‘29‘‘)