六枚目のコイン

つぶやき、趣味,占星術,

styx(スティクス)Ⅳ

2020年06月24日 10時56分22秒 | つぶやき

STYX(Ⅳ)です。

三途の川を越えるところから、

私たちの、

輪廻を越える道が開かれるんだという。

 

では、

三途の川とは、いったい、どういうものなのでしょうか?

三途の川は、三瀬川とも言われます。

三種類に分かれる川。

一つは、貪りの心が川の一部に流れているわけです。

もう一つは、その川を瞋りの心が流れている。

もう一つは、その川の中に愚痴の心が流れている。

 

つまり、《貪・瞋・痴》の三つの根本煩悩の心が、

その三途の川を流れている。

その三つの煩悩が、

餓鬼世界、地獄世界、畜生世界の

三つの世界に赴かせる根本の心なんだということなんですね。

 

すると、

人はみんななにがしかの三つの心を持ち合わせているから、

やがて人は、死を迎えた後、

三つの悪い世界に赴くことになるわけですね?

 

そう聞かれて、その通りだと答えざるを得ないです。

だって、それは本当だから。

事実だから、“否!”とは言えないのです。

 

そうなんですね、

人はみんな死んで後、

三種類のどれかの悪しき世界に赴いていく。

だから、人間を「凡夫」というのです。

三途の川を飛び終えられないで、

やがては、三瀬川のどれかに飲み込まれて、

その人の業に応じた、しかるべき世界に赴いて、

今世において、また前世のおいて為したところの、

業に応じた報いを受ける場所。

それが餓鬼・地獄・畜生の三界なんです。

そして、

三途の川は、悪趣世界への入り口だというわけです。

 

だから、人はその心を取り除くことが、

三途の川を飛び越える必須条件なんですね。

 

だけど、

その三途の川を飛び越える者がいるんです。

それが『聖者』なんです。

業の重みに打ち勝って、

わが身を浮かせて、

その川を越えていく推進力をともなった存在。

それが、《聖者》という存在。

そして、その聖者は、

輪廻の輪から抜け出た存在となるわけです。

生まれ変わりは、まだ続くのですが、

普通の生まれ変わりではない生き死にを、

その聖者たちは行うようになる。

 

それを普通の人間たちの、

過去から因縁を持ったまま行う生き死には、

「分断生死」と、仏教では呼ばれます。

それに対して、

聖者の生き死には、「変易生死」とこう呼ばれるのです。

聖者になると、

生まれ変わるたびに、

悪業を切り悪因縁を切っていくからです。

そして、三つの煩悩を切っていくからです。

そして、

魂の上昇をつづける生き死にを行うのです。

 

そして、

やがて、ついにはオメガポイントに到達していく。

これ以上の高い領域はないという、

霊界の究極の場に到達する。

 

それが仏教には説かれていて、

それを『成仏』と呼ぶのですね。

ですが、

キリスト教世界やイスラム世界などの、

他の宗教においては、その方法がない。

具体的に、説かれていないのです。

まだ、憧れの世界でしかないからです。

 

仏教においても、

大乗仏教と呼ばれる仏教の宗旨・宗派では、

その成仏の方法が説かれませんから、

既存の教団などの、大乗仏教の宗派では、

成仏はできないのです、不可能なんですね。

 

へーっ、成仏できないのに、仏教教団と名乗っているのですか?

そうなんですね、その通りなんです。

それは、

例えば、

日本の仏教は中国を経て伝わってきた、

支那仏教ですから、

中国人の考え方に合わせた仏教に変容しているのです。

つまり、

お釈迦様が説かれたインドの教えは、

中国に入った時点で、中身が変容したものになったのです。

中国人が理解のできる、中国人に都合の良いものに変わった。

それが、日本に伝わったものですから、

成仏のできない仏教が、日本には入っていって、

そのままこれまで、信仰されてきたわけです。

 

それを我々日本人は、ありがたく取り入れて、

成仏のできない仏教を、これまで拝んできたわけです。

では、

空だ空だと言って、悟りを得たかのような禅宗などはどうなんですか?

と言われると、

これもまた、成仏したかのような錯覚の修行を続けてきた!

としか言いようがないのです。

禅宗では、《見性を得ると申しますが、

それは悟ったつもりの修行ですから、

実際に成仏するのとは、また別の話なんですね。

 

なぜならば、

成仏するためには、こういうことを修行せよという、

お釈迦様が説かれた内容は、《阿含経》という一連の経典にのみ、

説かれているからです。

それが本当の真実の話なんです。

 

だから、

これまで日本の仏教は、成仏を説いていながら、

だれも成仏できない教えを、

後生大事に信仰してきたということですね。

すると、これまで成仏したお坊さんはいないのか?

と、いうところまで疑問は続きますねえ。

 

そのところは、

各々みなさんにお任せするといたしましょう。

とにかく、

この教えと方法を、今後の全世界の人たちが理解し、

実践していくよりほかに、

本当の幸せを得ることはできない。

これからは、

キリスト教でもない、

イスラム教でもない、

そして、

それらの宗教を生んだ大本のユダヤ教でもない。

もちろん、

他のスピリチュアルと称する神秘学でもない。

 

三途の川を越えて、聖者の道を歩んで行けるのは、

唯一、阿含経を修行して、成仏力を備えた宗教しかないのです。

それこそ本当の、魂の救済が可能な宗教なんです。

それを知った上で、

私たちは、これからの本当の世界を歩んで行くのだ。

ということになるのではないでしょうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

STYX(スティクス)Ⅲです

2020年06月23日 04時25分29秒 | つぶやき

STYX(Ⅲ)です。 

そうです、三途の川を越えることが、

まづ第一の人生のテーマになるべきなのです。

それが私たちの人生の飛躍につながっていくのですね。

 

三途の川が越えられないと、

魂は上昇のしようがないわけです。

「輪廻転生」というけれど、

永遠に同じところをグルグルと回り続けるのか、

それとも、

らせん階段を上るように、上昇を続けていくのか?

 

その違いは、

同じ輪廻転生という、輪を回るように生まれ変わり、

死に変わりするのとでは、まったく意味が変わってくる。

同じ生まれ変わりをするのであれば、

次の人生へのステップとなるような、

生まれ変わりをしたいものですよね。

 

だから、

私たちには、先祖供養が必要なのです。

私たちを規定づける、ある種、枠づけているもの。

それは仏教では因縁と呼ばれているものですが、

それを取り除くことは、

実はとても大変重要なことなんです。

 

私たちがこの世に生まれてくるとき、

両親を縁として、生まれてきますが、

その両親は家系の因縁というものを持っている。

その家系の因縁を引き継いで、

私たちは生まれてくるわけですよね。

 

その証として、父親の頭脳を備えて生まれてくるし、

母親の性格を持って生まれてくるわけです。

中には、美人とは言えないけれども、

なんとなく憎めない、

そんな母親の容貌を受け継いで、

生まれてくるなんていうこともあるわけでしょう。

 

そして、

前世の業をもまた引き継いで生まれるわけです。

今言った、憎めない母親の容貌を引き継いで生まれるというのも、

これは前世の業が原因となっているわけです。

それは、彼女を幸せな人生に導く、

大きな要素のひとつになるのでしょう。

反対に、

美貌の持ち主ではあるけれども、

なんとなく冷たい表情だと、

人間関係において、

かなりマイナスの悪影響が予想されるわけですからね。

 

ですから、

前世において積まれた行為のすべてが、

この世における、持って生まれる「因縁」の元になるのですねえ。

どうしてこんな不細工な顔に、親は作ってくれたのか?なんて、

親を憎むのはお止しなさいよ。

すべては、

自分の為した行いが元にあるわけですからね。

誰も責められないんです。辛いね~。

 

(もっとも、誰かのせいにすることほど、

楽なことはないですよね。)

 

「因」とは、その人の前世における業そのもの。

「縁」とは、この世における、業の結果。

前世の行いの報いの結果となったものが、

現世における自分自身であり、

環境・条件なんだということですね。

 

こんな家に生まれなきゃ良かった!なんていう嘆きは、

もっともな叫びですけどね。

しかし、

その嘆きが、あなたの人生を向上させる元にもなりうるわけですから、

物事の捉えようであり、考え次第であるわけです。

プラスに考えていきましょうよ。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

STYX(スティクス)Ⅱ

2020年06月23日 04時25分29秒 | つぶやき
STYX(Ⅱ)です。
『三途の川』の意味があるということですね。

前回、ここまで来たわけですね。
すると、
話は早いわけです。

霊世界の話をする上で、
三途の川は世界共通の概念なんだという。
そうすると、
霊世界の話は事実であるということで、
開祖のお話も嘘だと言えなくなるわけです。

エドガーケーシーという有名な預言者&ヒーラーが、
アメリカバージニア州の1900年代前半に、
その名を知らしめました。
そのケーシーは、
キリスト教的見地から、
霊的存在としての魂は、生まれ変わり死に変わりして、
究極的な地点としてのオメガポイントを目指す存在である。
そういうような見解を述べているようです。

ですが、
これは仏教としての密教的な立場からすれば、
そう簡単にはいかないようです。
理想論としては、そう言えるのでしょうが、
なかなか人間として、うまくいかないのが現実なんですね。

人はさまざまな理由から、
三途の川を越えられない存在なんですねえ。
それが、チベット密教でも言われていて、
本来持つ人間の業のゆえに、
俗生としての存在であるがゆえに、
無知な存在であるがゆえに、
人は三途の川を越えて、冥界に到達することが困難なのですね。

死に際の臨終の一念のゆえに、
生前における煩悩だらけの生命活動のゆえに、
人はその今世を未練をもって死にきれない。
また、
その苦しみのゆえに、
成仏への道を歩むことがむずかしい。

私たちは、
本来的未熟性のために、
この世から冥界に渡ることがむずかしい。

だから、
この世で体験したことにこだわって、
冥界を目指すことができない。
そのゆえに、自身は《中有》存在となって、
この世とあの世で、
宙ぶらりん状態で存在し続ける。

そのために、
この世と縁を切ることができないで、
自らの悪因縁を、子孫に及ぼすことになる。

それが、家系の因縁となって、
家の業を重くするのです。

魂が輪廻する存在として、
三途の川を越えることが、
まず第一の関門であることを、
私たちは知らねばならないのです。
そうしないと、
魂の安息は来ないことを知るべきなのです。

それを知ることで、
私たちは人生の生き方を学ぶのです。
何が良いことで何がよくないことなのかを。

そうすると、
人生において羽目を外しても良いこと、
この点においては、羽目は外すべきではないこと。
そういう処世上の守るべきルールに目覚めます。

少なくとも、その人は、
少しでも業を重くしないで、今世を終えられるわけです。
それは、次の人生への飛躍への力となるのです。

私たちは、悪業のよる不徳と、
善業による徳の価値判断を持つべきなのです。
それらが、
やがて次の人生を少しでも充実させる差を生み出すのです。
だって、
苦しい人生を生きたいか、
それとも、楽しい充実した人生を生きたいのか?
誰だって、快い人生を楽しみたいでしょう?
その基本的な価値観を学ぶのが、
まず第一の、人間の一番大事なことだと思うのです。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

styx(スティクス)

2020年06月22日 19時04分08秒 | つぶやき

styx(スティックス)ていう名前、
聞いたこと有りますか?

実は、これってロックバンド名でして、
私は知り合いのバンド連中が聞いていて、
それを一緒に聞いていたことがあるんです。
もうずいぶん前のことです。

その当時は、
〚パラダイス ・シアター〛というアルバムが売れていて、
これもよく聴きましたね。

そして、
今ごろになって、youtubeで、
もう一度聞いたんですけど、・
えーっ、こんな感じだったの?なんて、
バンドや曲のイメージを再認識したわけです。

で何気なく、
styxの名前の由来を調べてみて、驚いたんですね。
なんと、
その名前はこう説明してありました。
「ギリシャ語で地下を流れ、現世と冥界を分けるとされる大河。
また、それを神格化した女神を意味する。
また、冥王星の衛星のひとつ。」
と、こう説明されているんです。

解釈すると、《三途の川》。
それを神格化した女神の名前だと解釈すればいいのでしょうね。
彼らは元々、プログレッシブ・バンドだったので、
そんな常識破れの名前を付けても構わないのでしょうが、
「三途の川」なんていう意味の名前をバンド名にするなんて、
ものすごい枠を外れた、
言うならば、
常識外れの名前を付けるなんて、
凄いなあ!と、
改めて感心するのですけどね。

《三途の川》なんていう名前を、バンド名にするなんて、
ちょっと驚きですね。

そこで、思ったんですね。
西洋でも、《三途の川》の概念はあるんだと。
つまり、
三途の川のイメージは、日本だけかと思っていたわけです。
ところが、
これがギリシャでも同様にあったことは、
世界共通の概念なんだと考えて良いことですね。

東洋だけの概念ではなくて、
西洋でも同じようにあるんだと。
それならば簡単だと。

西洋でも三途の川のイメージが存在するならば、
霊世界のことを説明するのは不可能じゃない。
私たちが魂とか霊の状態を説明するのに、
不可能なことではないんだと。
そう喜んだわけです。

人が臨終を迎えて、転生するまでの間、
人は、《中有》の状態を経るわけです。

私たちが死んで次の生の状態をたどるまで、
《中有身》の状態で、次の生を待つわけです。

中有身となって、
次の生命を経過しようとするわけですが、
三途の川を飛び越えればならないのですね。
それが死んでからの第一の試練になるわけです。

ところが、
これがなかなかクリアできない。
私たちの持つところの業が邪魔するわけです。

その業の重さによって、
三途の川を越えることができない。
それが元となって、
私たちは此の岸から、転生を繰り返すことになるのです。
(つづき)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気分転換!

2020年06月20日 19時32分38秒 | つぶやき
さきほど、帰宅途中に、
何気なく空を見上げたら、
いい感じの雲が出ていました。

それで、思わず写真に撮ったんです。
どうですか、良いでしょう?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする