一年延期した東京五輪の開催を是非とも成功させる強い想いを前提として、今よりも更なる不要不急の外出
を控え、密を避け、より一層の感染予防の為に都民には不自由な思いをさせてしまう事を理解した上で東京
都民に「犠牲を払う必要がある。」と言い表わした事が、それ程までに都民の気持ちを傷付け刺激したとも
思えず、五輪開催があるからと言って感染対策は当然の事のような傲慢な態度も見せず、謙った(へりくだっ
た)態度はIOC側からの開催国日本への配慮のはずでしたが、裏目に出て自民党寄りのコメンテーターに舐め
られる状況を作ってしまい、IOCバッハ会長は軽く見られてしまう結果になってしまった。
私はバッハ会長のコメントを全文訊いてコロナ禍の中でも個々人の自由権を尊重する欧米人らしいスタンス
も感じただけでなく、強制でも無く、お願いレベルでもなく、五輪の国際的な公益性をより理解してもらう
姿勢は納得ができた。しかしそれを「上から目線」や「金目当て」とされ「犠牲」の言葉だけを切り取りお
得意の印象操作で炎上させた某所には非常に理解に苦しむ。
これが五輪開催から約2ヶ月前の5月下旬の事なのですが、五輪開催5日前にしてもまだこのIOCバッハ会長を
叩く批判的な意見がメディアでも燻っております。
今IOCバッハ会長は東京五輪開催を直前にして無観客での開催をどうにかして観客有りでの開催にしようとギ
リギリの所で尽力を出している。 果たしてコロナ対策の為に東京五輪を無観客で開催する事が本当の「正義」
となるか私は疑問に思う。 私もバッハ会長と同じように観客がいる五輪開催にしたい気持ちがある。できれば
感染状況が良くなって1万人の限定でも良いので観客を入れた開催を僅かな希望として持っている。
もしも日本政府の決めた無観客による五輪開催がコロナ対策の上で「正義」とするのならば、私はバッハ会長が
「犠牲」として日本国民により一層の強い自粛を求めた事の方が本当の「正義」だと思う。
そもそも「犠牲」とは不要不急の外出を自粛する事なのか、それとも断腸の思いで東京五輪を無観客で開催する
事が「犠牲」なのか、気が付けば「正義」と「犠牲」の言葉は同じ意味で使われて区別が付かなくなっている。
某所が切り抜いて炎上させた「犠牲」の言葉は誤解が消える過程で五輪開催の為の「滅私奉公」を仲介に「正義」
と結びついてしまた。
五輪ファーストでは無いが、東京五輪開催を一つの目標として国民が東京都民が団結をすると期待したのでは無
かったのかのか、それさえも失ったのは菅義偉政権の言う東京五輪が震災からの復興の証でも無く、人類がコロナ
に打ち勝った証でも無いからだ。 IOCバッハ会長への批判はそのまま菅義偉に返って来る。「上から目線」「金
目当て」「ノーベル賞狙い」「無責任」などなど、散々非難されたIOCバッハ会長の歓迎会に人知れずひっそりと
参加した政治家の面々がそれを物語るようで参加した政治家に「犠牲≒正義」を求めたい。
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