朔太郎の気楽な一日

ミニチュアダックスフンドの朔太郎です。よろぴく!

神仏を拝む自己のあり方

2009年11月14日 | 日常雑記
昨日幼友達から聞かれたことに
子供が病気のときに神仏を拝んだ
それって・・・
自分から拝んでたつもりが拝まれてた・・・
回向・・・とか、
(偉そうに)みんな捨て去ることや・・・
門徒さんやから
下記の歎異抄からの言葉がヒントになるように思います。


煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、
そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことに
ておわします、とこそ(親鸞聖人の)おおせはそうらいしか。(歎異抄・後序) 
 
〈わたし〉を否定するとは、親鸞にとっては、具体的には“師”とならない、
ということでした。つまり、自我を喜ばすようなものは“捨てる”ということで
す。また、〈社会〉を否定するとは、具体的には“教団”を“捨てる”というこ
とでした。親鸞は、この世での評価など見向きもしなかったのです。
 
 仏との対話だけの生活、信仰だけに生きて、〈わたし〉も〈社会〉も捨てる、
厳しい生活です。わたしは、「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」という言葉に、
人には決して媚びない親鸞の、孤高の精神を感じます。

 親鸞、僧の儀を改め俗名を賜う。仍って僧に非ず、俗に非ず。然る間、禿の字を以て姓となす。
奏問経られ了わんぬ。彼の御申し状は、今も外記庁に納まると云々。流罪以後、愚禿親鸞と
書かしめ給う也。  (歎異抄・流罪記録)

 僧に非ず、俗に非ず、とは、泥にまみれ、ひょっとしたら庶民よりも貧しい生
活をしているかもしれないが、わたしは、庶民(世間の人たち)が価値とするよ
うな、地位や名誉に縛られている訳ではない、との親鸞の宣言なのでしょう。わ
たしは、ここに仏教徒としての生活の原型を見るように思います。今日、明日の
生活に汲々としていても、生活に心労することはない、と。サラリーマンのわた
しも、足下にも及ばぬとはいえ、見習いたいと思っています。

 このような、親鸞の厳しい求道精神を見ても、わたしたちは、親鸞についてま
いります、と言えるものでしょうか。安逸な生活に流され、それでも不平不満が
絶えないわたしたちのようなものに、親鸞という存在は、あたかも、肥満した白
い脇腹に匕首が触れるような“危険性”を感じるのではないでしょうか。

 教化活動に人生の生き甲斐を見いだし、その成果、すなわち念仏者の数を数え
て喜ぶというような趣味は、親鸞にはなかったということでしょう。人生に何の
期待するものもなく、また、生きた証に執することもない、すべてを“捨て”き
って生きる凄まじい生きざまに、わたしはとてもついていけない、と告白せざ
るをえません。

 大乗仏教の根本的な立場
 さて、仏教は、〈無我〉を理屈としてではなく、体験的に理解(体得)する教
えですから、どこかで〈無我〉を体験しなくてはなりませんが、歎異抄では、
その宗教的な体験を回心(えしん)と呼んで、説明してくれています。 

 一向専修のひとにおいては、回心ということ、ただひとたびあるべし。
その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、
日ごろのこころにては、往生かなうべからずとおもいて、
もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするをこそ、回心とはもうしそうらえ。
(歎異抄・第16章)
 日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、とは、たとえ20年間、聞法していても、
信心獲得の体験がなければ、それは「真宗をしらざるひと」です。厳しい教えで
はないでしょうか。「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず」(第1章)
ともいい、聞法の経験年数や、男女、僧籍にあるなし、一切関係がないというの
です。それは、会社でいえば、年功序列など一切関係がない、実績だけが勝負だ
という危険、過激な経営思想とでもいうべきものです。

 また、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらする、とありますが、
この「もとのこころ」とは、わたしたちが、日頃頼みとしているところの自分の
心、すなわち“自我意識”のことです。この自我を「ひきかえて」回心(えしん)
しと言っているのです。しかし、この自我がなかなか解体できないのでしょう。
釈尊は、「君たちが苦しんでいるのは、その根本原因は“我執”ゆえだ、
“自我の執(とら)われ”からである」と説かれた。
ところが、その自我は「五蘊無我」といって、「色(肉体)・受、想、行、識(精神)
という構成要素(五蘊)が、かりに和合(仮和合)して、自我というものを形づくっているにすぎない。
それなのに、そのありもしない(非実体・無自性)自我に執われて、迷っているのは愚かではないか」
と説かれたのである。それこそが、釈尊の説かれた仏教であった。
        秋月龍著「間違いだらけの仏教」(柏樹社)

日頃の心ではあかんのやとおっしゃってます。
下げる頭 から
下がる頭 さらに
上がらぬ頭 へ これが回心 厳しいぞ!!