「逆風満帆」の俵万智
1911年3月11日、俵万智は仕事で東京の読売新聞社にいた。大きく揺れ動く会議室で、両親と息子・たくみんを思った。電話が繋がらない。飛行機とバスを乗り継ぎ、5日かけて仙台に着いた。朝日Beに三回連載の▲「逆風満帆」は今日が最終回・{下}である。高校生の俵万智の失恋から始まった30年余の彼女の歴史、その一部を辿ってみたい。
♦ バンザイの姿勢で眠りいる吾子よ そうだバンザイ生まれてバンザイ
♦ みどりごと散歩をすれば人が木が光が話しかけてくるなり
2003年に息子「たくみん」が誕生してからの俵万智の歌には、喜びと愛情があふれている。未婚で産んだことへの詮索や押しつけも、もちろんあった。「シングルマザー代表」として意見を求められ、戸惑ったこともあった。
♦ 開花宣言聞いて桜が咲くものかシングルマザーらしくなんて
東京電力福島第一原発の事故の状況は、俵にはっきりわかっていたわけではない。とりあえず西に避難すると決め、七つの子とふたり、チケットの取れた便を乗り継ぎ、那覇へ向かった。那覇では2週間ほどホテルに滞在、友人の松村由利子の住む石垣島へゆく。
♦ 子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え
島に来てたくみんはみるみる元気になった。島のマンションを契約し、仙台から荷物を引き払った。「政治的スローガンは詠まない」と決めている俵が、昨夏、国会を詠んだ。
♦ 下校した子らと一緒に見ておれば大乱闘となる参議院
「私の人生、えらい変化球ですね、でもどんな逆境でも歌ってしまう」 と彼女は語る。
生きることはうたうこと。うたうことは生きること。と『サラダ記念日』に書いた30年前から、それは変わらない。老いても変わらないであろう俵万智は。
3月25日 松井多絵子