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【むやみに奇跡を願わないほうがよい】4721
ひろさちや氏の心に響く言葉より…
「神さまはきっと凡人を愛しておられるにちがいない。だから神さまは、凡人をたくさんつくっておられるんだ」
これは、アメリカの第16代大統領であったエイブラハム・リンカーンの言葉である。
なかなかいい言葉だ。
「キリスト教では、神が人間をつくったと考える。
神のつくった人間には、特別な才能に恵まれた人もいれば、平凡な普通人もいる。
凡人が多数で、天才はごくわずかだ。
そして、常識的には、特別な才能を付与された人間が神にかわいがられた人だと思 われている。
べつだんこれといった理由はないが、非凡な人間のほうが神さまの寵児のように思えるのだ。
多数の凡人は、神さまの粗製乱造の製品のように受け取られる。
それをリンカーンは引っくり返したのである。
神さまは、たくさんいる普通の人間がかわいくてならないからこそ、好きだからこそ、こんなにたくさんおつくりになったのだ――。
彼はそう言っている。
この考え方、わたしも同感である。
そうなんだ。
わたしたちはなにも偉くなる必要はない。
ただの人でいいのだ。
ただ生きている――それだけでいいのだと思う。
なんの代わり映えもしない、平凡な、普通に生きている人――。
その人を神さまが 愛しておられるのだと思う。
『捨てちゃえ、捨てちゃえ』PHP研究所
https://amzn.to/3sQyo3m
本書の中に「奇跡」という話があった。
『イギリスの短篇作家、W・W・ジェイコブズは「猿の手」という作品を発表した。
三つの願いをかなえてくれる魔法の猿の手を譲り受けた夫婦が、200ポンドを授けてくれと願いごとをする。
すると夫婦に、200ポンドが届けられる。
だが、その金は、息子の事故死の賠償金であった。
そこで夫婦は、息子を生き返らせてくれと願う。
その願いが実現しそうになったとき、恐ろしくなった夫婦は、第三番目 の願いとして、先の願いを取り消してくれとたのむ。
なかなかよくできた短篇小説である。
この話は、奇跡には犠牲がともなうのだということを教えてくれている。
大金を手に入れることは、ある意味で簡単である。
しかし、大金が手に入ったとき、わたしたちは何か大事なものを失っているのだ。
息子の命が犠牲になり、あるいは働き過ぎで健康を失ったり、守銭奴になったために友人を失って孤独地獄に堕ちたりする。
その犠牲の大きさを考えるなら、わたしたちは、ほんとうは奇跡を願わないほうがいいのである。
それに、奇跡を願った結果が、もとの状態がいちばんよかったことになっている。
だとすれば、わたしたちは、むやみに奇跡を願わないほうがよい。
いや、わたしたちが奇跡を願わぬ強い心を持つことが、いちばんすばらしい奇跡ではなかろうか。
わたしはそのように考えている。』
我々は往々にして奇跡を願う。
お金、仕事、健康、入学や就職…。
しかしながら、運は振り子と同じで、右に大きく振れたら、こんどは左に大きく振れる。
つまり、「禍福は糾える縄のごとし」で、わざわいが福となり、福がわざわいの元となったりする。
運不運、幸不幸は、カードの裏表なのだ。
運を願うということは、同時に不運も願っていることになる。
「無事是れ貴人」という禅の言葉がある。
何もしないこと、あるがままでいること、その平凡な日常こそが尊いということ。
何もしないとは、ダラダラと怠惰に過ごすことではなければ、自分では何も動かずただひたすらに奇跡を願うことでもない。
野に咲く花は、手を加えずとも、そこにあるだけで美しい。
淡々と過ぎる何もない平凡な毎日こそが「有り難い」こと。
それこそが滅多にない、有ることが難しいこと。
むやみに奇跡を願わず…
感謝の毎日をおくりたい。
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ひろさちや氏の心に響く言葉より…
「神さまはきっと凡人を愛しておられるにちがいない。だから神さまは、凡人をたくさんつくっておられるんだ」
これは、アメリカの第16代大統領であったエイブラハム・リンカーンの言葉である。
なかなかいい言葉だ。
「キリスト教では、神が人間をつくったと考える。
神のつくった人間には、特別な才能に恵まれた人もいれば、平凡な普通人もいる。
凡人が多数で、天才はごくわずかだ。
そして、常識的には、特別な才能を付与された人間が神にかわいがられた人だと思 われている。
べつだんこれといった理由はないが、非凡な人間のほうが神さまの寵児のように思えるのだ。
多数の凡人は、神さまの粗製乱造の製品のように受け取られる。
それをリンカーンは引っくり返したのである。
神さまは、たくさんいる普通の人間がかわいくてならないからこそ、好きだからこそ、こんなにたくさんおつくりになったのだ――。
彼はそう言っている。
この考え方、わたしも同感である。
そうなんだ。
わたしたちはなにも偉くなる必要はない。
ただの人でいいのだ。
ただ生きている――それだけでいいのだと思う。
なんの代わり映えもしない、平凡な、普通に生きている人――。
その人を神さまが 愛しておられるのだと思う。
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本書の中に「奇跡」という話があった。
『イギリスの短篇作家、W・W・ジェイコブズは「猿の手」という作品を発表した。
三つの願いをかなえてくれる魔法の猿の手を譲り受けた夫婦が、200ポンドを授けてくれと願いごとをする。
すると夫婦に、200ポンドが届けられる。
だが、その金は、息子の事故死の賠償金であった。
そこで夫婦は、息子を生き返らせてくれと願う。
その願いが実現しそうになったとき、恐ろしくなった夫婦は、第三番目 の願いとして、先の願いを取り消してくれとたのむ。
なかなかよくできた短篇小説である。
この話は、奇跡には犠牲がともなうのだということを教えてくれている。
大金を手に入れることは、ある意味で簡単である。
しかし、大金が手に入ったとき、わたしたちは何か大事なものを失っているのだ。
息子の命が犠牲になり、あるいは働き過ぎで健康を失ったり、守銭奴になったために友人を失って孤独地獄に堕ちたりする。
その犠牲の大きさを考えるなら、わたしたちは、ほんとうは奇跡を願わないほうがいいのである。
それに、奇跡を願った結果が、もとの状態がいちばんよかったことになっている。
だとすれば、わたしたちは、むやみに奇跡を願わないほうがよい。
いや、わたしたちが奇跡を願わぬ強い心を持つことが、いちばんすばらしい奇跡ではなかろうか。
わたしはそのように考えている。』
我々は往々にして奇跡を願う。
お金、仕事、健康、入学や就職…。
しかしながら、運は振り子と同じで、右に大きく振れたら、こんどは左に大きく振れる。
つまり、「禍福は糾える縄のごとし」で、わざわいが福となり、福がわざわいの元となったりする。
運不運、幸不幸は、カードの裏表なのだ。
運を願うということは、同時に不運も願っていることになる。
「無事是れ貴人」という禅の言葉がある。
何もしないこと、あるがままでいること、その平凡な日常こそが尊いということ。
何もしないとは、ダラダラと怠惰に過ごすことではなければ、自分では何も動かずただひたすらに奇跡を願うことでもない。
野に咲く花は、手を加えずとも、そこにあるだけで美しい。
淡々と過ぎる何もない平凡な毎日こそが「有り難い」こと。
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