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【いまいちのときは老子】4697
精神科医、野村総一郎氏の心に響く言葉より…
私は精神科医として、4年間、延べ10万人以上の患者さんと向き合ってきました。
そのなかには、
●自分は能力が低く、誰にも評価されない
●あの人はズルくて要領がいいのに、自分は不器用で損ばかりしている
●友人たちは、充実した生活を送っていて妬ましい という思いを抱えた人たちがたくさんいました。
そういった悩みや不安の根本的な原因は、どこにあるのでしょう?
大きな理由の一つは「いつも他人と比べてしまっている」というところにあると、私は考えています。
「他人と自分」という関係に悩み、過分に苦しめられているのです。
この悩みに対して、とても有効な方法が一つあります。
それは「ジャッジフリー」という思考を取り入れることです。
「ジャッジフリー」ってどういうこと?と思われる方も多いでしょう。
「ジャッジ」とは「判定する」「判断を下す」という意味の言葉。
さらに言うなら「何が正しいのかを決める」という意味合いを含んでいます。
この「ジャッジすることを、意識的にやめる」というのが「ジャッジフリー」という思考です。
じつは、私たちはさまざまな局面で、この「ジャッジ」という。 な局面で、この「ジャッジ」というものをほとんど無意識にしてしまっています。
優劣をつけ、勝ち負けを意識し、上に見たり、下に見たりしているということです。
●お金がある人は幸せ。ない人は不幸。
●顔がいい人は幸せ。そうでない人は不幸。
●仕事で評価されている人は偉い。されていない人はダメ。
●友人が多い人は素敵。少ない人は寂しい。
●話が上手な人はかっこいい。ロべたな人はかっこ悪い。
こんなふうに、数え上げればキリがないほど、世の中は「ジャッジ」にあふれています。
精神科のクリニックにも、こうした「ジャッジ」に苦しんでいる人がたくさんます。
そんなとき私は患者さんたちに「自分で勝手に優劣をつけてしまっているだけでは ありませんか?」と問いかけ、「その行為をしている事実」をまず理解してもらうよう努めます。
そして「ジャッジしないことの大切さ」をていねいにお話ししていきます。
ジャッジフリーという言葉は私の造語なのですが、ストレスのない生活を「ストレスフリー」なんて言うでしょう。
そのストレスを生み出している原因の一つが「ジャッ ジ」にあります。
ですから、ストレスフリーを目指すなら、まず「ジャッジフリー」から始めてみてほしいのです。
ただ、この考え方は、私のオリジナルではありません。 じつはこれ、古代中国の思想家・老子のメッセージなのです。
老子と聞くと「昔のすごい人? 名前くらいは知ってるけど」という方が多いのではないでしょうか。
老子は、紀元前8世紀ごろの中国の春秋戦国時代と呼ばれる動乱期に活躍したと言われる思想家。
しかし、その出生も、実在したかどうかさえ謎に包まれているという、とても神秘的な存在です。
そんなふしぎな人物の言葉が、2500年以上の時を超え、国をも超えて、今なお多くの人の心に影響を与え続けている。
これは、考えてみるととてもすごいことです。
それだけ各時代の人たちが「これをまとめて、後世に伝えなければ!」という強い思いを持ち、継承されてきたわけです。
ある意味「真理」である証拠とも言えるでしょう。
『人生に、上下も勝ち負けもありません』文響社
https://amzn.to/2VddHCo
本書の中に「元気なときの孔子、いまいちなときの老子」という興味深い一節があった。
『老子が活躍した古代中国の春秋戦国時代というのは、まさに世紀の動乱期で、さまざまな価値観、思想が噴出した時代でもありました。
その時代を代表する思想家が、孔子と老子です。
似たような名前ですが、考え方は正反対といってもいいくらい違っていて、その二人を対比した表現に「上り坂の儒家、下り坂の老荘」という言葉があるほどです。
まず「儒家」とは儒教、孔子の教えであり、「老荘」とは老子哲学のことです。
「老荘」の「老」とは老子のこと、そして「荘」とは、同じく古代中国の思想家「荘子」のことです。
荘子は老子哲学を継承しているので、広い意味で「老荘=老子哲学」 と言って差し支えないと思います。
「孔子の教え、すなわち『論語』というのは、社会の中で生きる術を書いたもの。
礼儀を重んじ、自らを厳しく戒めるような思想です。
一方、老子はそんな社会の外側に立って「まあまあ、それでいいじゃないか」とい う考え方なのです。
ですから、人生が上り坂でイケイケのとき、物事がうまく運んでいるときは、孔子の教えに従って、厳しめに自らを律していくとよい。
しかし、人生が下り坂で、いまいち元気がない。
そんなふうに行き詰まっているときは、老子特有の「ゆるさ」や「自由気ままさ」に寄り添ってみてはどうか。
それが「上り坂の儒家、下り坂の老荘」という言葉の意味です。
老子は…(本書の中から意訳)
ものごとがうまくいかないときや、嫌なことがつづくとき、「そういう時もある、それもまたよし」と。
努力をしているのだが、なかなか成果がでないというようなとき、「努力することだけで素晴らしい。それで宜(よろ)し」と。
1年以上にわたってコロナに耐えて耐えてきたのだが、もうこれまでかもしれないと思ったようなとき、「やまない雨はない、明けない夜はない、もう少しだけじっとして、嵐が過ぎるのを待とう、いつかは必ず終わる」と。
「まあ、それでいいじゃないか」
「それも一つの人生」
「弱くても、華々しくなくても、それでいい、むしろ弱いほうがしぶとく生きられることもある」
いまいちのときは老子の言葉を思い出したい。
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精神科医、野村総一郎氏の心に響く言葉より…
私は精神科医として、4年間、延べ10万人以上の患者さんと向き合ってきました。
そのなかには、
●自分は能力が低く、誰にも評価されない
●あの人はズルくて要領がいいのに、自分は不器用で損ばかりしている
●友人たちは、充実した生活を送っていて妬ましい という思いを抱えた人たちがたくさんいました。
そういった悩みや不安の根本的な原因は、どこにあるのでしょう?
大きな理由の一つは「いつも他人と比べてしまっている」というところにあると、私は考えています。
「他人と自分」という関係に悩み、過分に苦しめられているのです。
この悩みに対して、とても有効な方法が一つあります。
それは「ジャッジフリー」という思考を取り入れることです。
「ジャッジフリー」ってどういうこと?と思われる方も多いでしょう。
「ジャッジ」とは「判定する」「判断を下す」という意味の言葉。
さらに言うなら「何が正しいのかを決める」という意味合いを含んでいます。
この「ジャッジすることを、意識的にやめる」というのが「ジャッジフリー」という思考です。
じつは、私たちはさまざまな局面で、この「ジャッジ」という。 な局面で、この「ジャッジ」というものをほとんど無意識にしてしまっています。
優劣をつけ、勝ち負けを意識し、上に見たり、下に見たりしているということです。
●お金がある人は幸せ。ない人は不幸。
●顔がいい人は幸せ。そうでない人は不幸。
●仕事で評価されている人は偉い。されていない人はダメ。
●友人が多い人は素敵。少ない人は寂しい。
●話が上手な人はかっこいい。ロべたな人はかっこ悪い。
こんなふうに、数え上げればキリがないほど、世の中は「ジャッジ」にあふれています。
精神科のクリニックにも、こうした「ジャッジ」に苦しんでいる人がたくさんます。
そんなとき私は患者さんたちに「自分で勝手に優劣をつけてしまっているだけでは ありませんか?」と問いかけ、「その行為をしている事実」をまず理解してもらうよう努めます。
そして「ジャッジしないことの大切さ」をていねいにお話ししていきます。
ジャッジフリーという言葉は私の造語なのですが、ストレスのない生活を「ストレスフリー」なんて言うでしょう。
そのストレスを生み出している原因の一つが「ジャッ ジ」にあります。
ですから、ストレスフリーを目指すなら、まず「ジャッジフリー」から始めてみてほしいのです。
ただ、この考え方は、私のオリジナルではありません。 じつはこれ、古代中国の思想家・老子のメッセージなのです。
老子と聞くと「昔のすごい人? 名前くらいは知ってるけど」という方が多いのではないでしょうか。
老子は、紀元前8世紀ごろの中国の春秋戦国時代と呼ばれる動乱期に活躍したと言われる思想家。
しかし、その出生も、実在したかどうかさえ謎に包まれているという、とても神秘的な存在です。
そんなふしぎな人物の言葉が、2500年以上の時を超え、国をも超えて、今なお多くの人の心に影響を与え続けている。
これは、考えてみるととてもすごいことです。
それだけ各時代の人たちが「これをまとめて、後世に伝えなければ!」という強い思いを持ち、継承されてきたわけです。
ある意味「真理」である証拠とも言えるでしょう。
『人生に、上下も勝ち負けもありません』文響社
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本書の中に「元気なときの孔子、いまいちなときの老子」という興味深い一節があった。
『老子が活躍した古代中国の春秋戦国時代というのは、まさに世紀の動乱期で、さまざまな価値観、思想が噴出した時代でもありました。
その時代を代表する思想家が、孔子と老子です。
似たような名前ですが、考え方は正反対といってもいいくらい違っていて、その二人を対比した表現に「上り坂の儒家、下り坂の老荘」という言葉があるほどです。
まず「儒家」とは儒教、孔子の教えであり、「老荘」とは老子哲学のことです。
「老荘」の「老」とは老子のこと、そして「荘」とは、同じく古代中国の思想家「荘子」のことです。
荘子は老子哲学を継承しているので、広い意味で「老荘=老子哲学」 と言って差し支えないと思います。
「孔子の教え、すなわち『論語』というのは、社会の中で生きる術を書いたもの。
礼儀を重んじ、自らを厳しく戒めるような思想です。
一方、老子はそんな社会の外側に立って「まあまあ、それでいいじゃないか」とい う考え方なのです。
ですから、人生が上り坂でイケイケのとき、物事がうまく運んでいるときは、孔子の教えに従って、厳しめに自らを律していくとよい。
しかし、人生が下り坂で、いまいち元気がない。
そんなふうに行き詰まっているときは、老子特有の「ゆるさ」や「自由気ままさ」に寄り添ってみてはどうか。
それが「上り坂の儒家、下り坂の老荘」という言葉の意味です。
老子は…(本書の中から意訳)
ものごとがうまくいかないときや、嫌なことがつづくとき、「そういう時もある、それもまたよし」と。
努力をしているのだが、なかなか成果がでないというようなとき、「努力することだけで素晴らしい。それで宜(よろ)し」と。
1年以上にわたってコロナに耐えて耐えてきたのだが、もうこれまでかもしれないと思ったようなとき、「やまない雨はない、明けない夜はない、もう少しだけじっとして、嵐が過ぎるのを待とう、いつかは必ず終わる」と。
「まあ、それでいいじゃないか」
「それも一つの人生」
「弱くても、華々しくなくても、それでいい、むしろ弱いほうがしぶとく生きられることもある」
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