【幸せは感じるもの】5558
小林正観さんの心に響く言葉より…
「幸せ」というものを追い続けていった結果、私の中でわかったことがあります。
それは、すべての人が指をさして「これが幸せだ」と言える事物や現象は地球上に(宇宙にも)存在しない、ということでした。
「幸せ」というのは、その人が「幸せだ」 と思ったら、その人にのみ帰属して存在する、というのが私が到達した宇宙的な結論なのです。
では、「幸せ」は「感じるもの」であるならば、なぜ皆がそれを感じることができないのでしょうか。
「幸せ」の構造は大変簡単であるにもかかわらず、多くの人が「幸せ」を手に入れているとは思えません。
なぜか。
それは、「競うこと」「比べること」 「争うこと」を前提として生きることを教え込まれてしまったからです。
人と競うこと、比べること、争うことで人より抜きん出て、初めて「えらい」とか「立派だ」とか「素晴らしい」という評価をされる、という価値観で生きる日々を送ってきました。
もともと学校教育というものがそうでした。
「相対評価」というものでクラスの中の上位何%にいる人を「5」、下位何%にいる人を「1」とランク付けし、そのランク付けの競い合いの中で人材を育成するという教育方法を日本の教育界はとってきたわけです。
その結果、私たちは「幸せとは、競うこと・比べること・争うことで初めて手に入るのだ。 人より抜きん出て、勝ち続けることが、幸せを手に入れる唯一の道である」と信じ込まされてきました。
「優勝」という言葉は、実は「優勝劣敗」という四文字熟語の上の二文字です。
「優勝劣敗」 とは、つまり「優れたものは勝ち、劣ったものは負ける」という思想です。
あまり楽しい言葉ではありません。
しかし、私たちは「勝つことが正しいことであり、勝つことや抜きん出ることが優れていることの証である」と教え込まれてきました。
その20世紀的な価値観から、そろそろ抜け出してよい時期に来ているのではないでしょうか。
21世紀は「競うこと」「比べること」「争うこと」を基礎的な価値観とするのではなく、 「競わないこと」 「比べないこと」 「争わないこと」を基礎的な価値観とすることはできないものでしょうか。
競うことではなく、自分が楽しいと思えるような(この瞬間だけでなく、未来にわたって継続できるような、楽しい) 生き方をするということにほかなりません。
自分の生活の中で「他人と比べない」「世間と比べない」ということが身についたら、生きることがどれほど楽になるかわかりません。
『ただしい人から たのしい人へ』弘園社
https://amzn.to/3RjHvGD
こんな寓話がある。
ある旅人が、町の入り口に座っているおじいさんに話しかけた。
「この町はどんな町ですか?」
おじいさんは
「あなたが今までいた町はどういう町でしたか?」
旅人は
「とっても嫌な人が多く、ぞっとするような町でした」
おじいさんは
「ああ、この町も同じで、ぞっとするような町でしょう。」
するとほどなくして、別の旅人が来てまた、おじいさんに同じことを尋ねた。
おじいさんは
「あなたが今までいた町はどういう町でしたか?」と尋ねた。
すると、別の旅人は
「すごくいい人ばかりで、毎日がとても楽しかったです」
おじいさんはニコニコしながら
「この町も同じで、とってもいい人ばかりでしょう。」
と答えたという。
どんな町にも、いいところと悪いところはある。
いいところばかり見て暮らしている人は、どこへ行ってもいいところを探し出す。
ダメなところばかり見て暮らしている人は、どこへ行ってもダメなところばかり探してしまう。
仕事も同じだ。
「仕事」の中に「楽しい仕事」や「つまらない仕事」があるのではない。
その「仕事」を楽しいと感じる(楽しくしている)のか、つまらないと感じる(つまらなくしている)のかの違いがあるだけだ。
面白くしようとしている人には、面白いことが起こる。
「競うクセのある人」 「比べるクセのある人」 「争うクセのある人」は、いいところを見つけ出したり、探すことができない。
「競わない人」 「比べない人」 「争わない人」は、いいところを見つけたり、探すことができる。
すべては、見方次第、感じ方次第なのだ。
これは、「幸せ」の構造と同じ。
「幸せは感じるもの」という言葉を胸に刻みたい。
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「幸せ」というものを追い続けていった結果、私の中でわかったことがあります。
それは、すべての人が指をさして「これが幸せだ」と言える事物や現象は地球上に(宇宙にも)存在しない、ということでした。
「幸せ」というのは、その人が「幸せだ」 と思ったら、その人にのみ帰属して存在する、というのが私が到達した宇宙的な結論なのです。
では、「幸せ」は「感じるもの」であるならば、なぜ皆がそれを感じることができないのでしょうか。
「幸せ」の構造は大変簡単であるにもかかわらず、多くの人が「幸せ」を手に入れているとは思えません。
なぜか。
それは、「競うこと」「比べること」 「争うこと」を前提として生きることを教え込まれてしまったからです。
人と競うこと、比べること、争うことで人より抜きん出て、初めて「えらい」とか「立派だ」とか「素晴らしい」という評価をされる、という価値観で生きる日々を送ってきました。
もともと学校教育というものがそうでした。
「相対評価」というものでクラスの中の上位何%にいる人を「5」、下位何%にいる人を「1」とランク付けし、そのランク付けの競い合いの中で人材を育成するという教育方法を日本の教育界はとってきたわけです。
その結果、私たちは「幸せとは、競うこと・比べること・争うことで初めて手に入るのだ。 人より抜きん出て、勝ち続けることが、幸せを手に入れる唯一の道である」と信じ込まされてきました。
「優勝」という言葉は、実は「優勝劣敗」という四文字熟語の上の二文字です。
「優勝劣敗」 とは、つまり「優れたものは勝ち、劣ったものは負ける」という思想です。
あまり楽しい言葉ではありません。
しかし、私たちは「勝つことが正しいことであり、勝つことや抜きん出ることが優れていることの証である」と教え込まれてきました。
その20世紀的な価値観から、そろそろ抜け出してよい時期に来ているのではないでしょうか。
21世紀は「競うこと」「比べること」「争うこと」を基礎的な価値観とするのではなく、 「競わないこと」 「比べないこと」 「争わないこと」を基礎的な価値観とすることはできないものでしょうか。
競うことではなく、自分が楽しいと思えるような(この瞬間だけでなく、未来にわたって継続できるような、楽しい) 生き方をするということにほかなりません。
自分の生活の中で「他人と比べない」「世間と比べない」ということが身についたら、生きることがどれほど楽になるかわかりません。
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こんな寓話がある。
ある旅人が、町の入り口に座っているおじいさんに話しかけた。
「この町はどんな町ですか?」
おじいさんは
「あなたが今までいた町はどういう町でしたか?」
旅人は
「とっても嫌な人が多く、ぞっとするような町でした」
おじいさんは
「ああ、この町も同じで、ぞっとするような町でしょう。」
するとほどなくして、別の旅人が来てまた、おじいさんに同じことを尋ねた。
おじいさんは
「あなたが今までいた町はどういう町でしたか?」と尋ねた。
すると、別の旅人は
「すごくいい人ばかりで、毎日がとても楽しかったです」
おじいさんはニコニコしながら
「この町も同じで、とってもいい人ばかりでしょう。」
と答えたという。
どんな町にも、いいところと悪いところはある。
いいところばかり見て暮らしている人は、どこへ行ってもいいところを探し出す。
ダメなところばかり見て暮らしている人は、どこへ行ってもダメなところばかり探してしまう。
仕事も同じだ。
「仕事」の中に「楽しい仕事」や「つまらない仕事」があるのではない。
その「仕事」を楽しいと感じる(楽しくしている)のか、つまらないと感じる(つまらなくしている)のかの違いがあるだけだ。
面白くしようとしている人には、面白いことが起こる。
「競うクセのある人」 「比べるクセのある人」 「争うクセのある人」は、いいところを見つけ出したり、探すことができない。
「競わない人」 「比べない人」 「争わない人」は、いいところを見つけたり、探すことができる。
すべては、見方次第、感じ方次第なのだ。
これは、「幸せ」の構造と同じ。
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