【述べて作らず】4857
藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
《先哲の言葉に光を当てる》
孔子は「述べて作らず」(述而第七)といいました。
私は自分の意見なんか何もいっていないよ、先人の教えを皆さんに伝えているだけだ、と。
これは安岡先生もまったく同じです。 安岡先生はこういう言葉を残しています。
「僕の人生は、古今東西の名言や記録の渉猟(しょうりょう)に明け暮れてきたが、その功徳は僕にとっても大変なものがあった。これをまた、分け与えるのが僕の使命である」
古今東西のあらゆる先知先哲の文献の渉猟に、時の経つのを忘れていたというのです。
そして、そこから学んだことをみんなに分け与える。
それが使命だと。
だから、安岡先生の一生はまさに孔子の「述べて作らず」と同じです。
先生は膨大な範囲の、膨大な深さの、先人の教えを皆に提供し続けた。
まさに、それが先生の人生だった。
歴史の中に埋もれた先哲の言葉に光を当てて、その古い言葉に命を吹きこんで蘇(よみがえ)らせていったというのが先生の人生だったと思います。
禅宗の公案を集めた『無門関』に野狐(やこ)禅の話があります。
安岡先生はよくこのお話もされました。
これ、私の大好きな話です。
あるとき百丈というお坊さんが説法をしていたら、一人の老人がやって来て、いつ も熱心に話を聴いていた。
あるとき、みんなが帰っても帰らない。
そこで、百丈が質問をするわけです。
「一体、あなたは誰か」と。
すると老人は言いました。
「自分は人間ではない。昔、この山に寺の住職として住んでいたものだ。
あるとき、修行者が私に問うた。
『和尚さん、大修行した人は因果律に落ちますか、 落ちませんか?』と。
すかさず私は答えた。
『不落因果、大修業した人間は因果律を飛び越えているから、因果律に落ちることはない』と。
そうしたら、たちまちにして野狐になってしまい、五百回も生まれ変わって今日に至ってしまった。
あのとき私は、本当はどう答えたらよかったのでしょうか?
どうか正しい見解を教えていただきたい」
そう言って、百丈に同じ問いを投げかけるんです。
「大修行した人は因果律に落ちるか、落ちないか?」と。
そこで百丈は即座に答えた。
「不昧因果」
すると、それを聞いた老人は一瞬にして悟った。
不昧因果とはどういうことでしょうか?
「不昧」というのは「くらまさず」という意味です。
だから、これは「因果の法則をくらましてはいけない」。
要するに、はっきりさせることだ、といっているわけです。
この言葉を聞いた老人は、野狐の身を脱することができた。
このあと百丈は裏山に死んだ野狐を見つけて、手厚く葬るんですね。
因果の法則は誰も飛び越えることができない。
これはすごいことをいっていますよ。
私は『致知』の取材を通して、いろんな経営者に会っていますが、いまだに覚えている言葉があります。
功なり名を遂げて、一財産どころじゃない、三財産も五財産もつくった経営者が晩年、私にこういいました。
「藤尾君、もう僕はこの世の中に恐いものはない」
恐いものはない、といい切ったんです。
私はそのとき、そんな境地があるのかと思ったのですが、その後その人はうまくいかなくなってしまったんです。
恐いものなんかないと慢心していたら、必ず因果の法則でひっくり返るんですよ。
松下幸之助さんはそうじゃないですよ。
これは谷井さんという元社長さんから聞いた話です。
社長になられた直後の谷井さんに、あなたが松下幸之助さんに教わったことは何ですか、と私が質問したら、このように答えました。
「松下さんが僕によくいったのは、感謝と畏れを持ちなさいということだ」と。
感謝を持ちなさいという経営者はたくさんいます。
しかし、畏れを持ちなさいといったのは松下さん一人だと思います。
この世の中、この宇宙には、人知を超えた存在がある。
人知を超えた因果の法則がある。
その因果の法則に対して、絶えず敬虔な畏れの気持ちを持っていかないと経営も人生も絶対にうまくいかないぞと松下さんはいいたかったのではないかと思います。
私はこの松下さんの言葉を聞いたとき、ものすごく感動しました。
同じように大成功しても、一方の人は「自分には恐いものなんか何もない」といい、松下さんは「感謝と畏れを持ちなさい」といった。
その結果はどうなったか。 こうしたことを教えているのが、「不落因果、不昧因果」なんです。
安岡先生は、そういう人生の大則を、手を替え、品を替え、事あるごとに教えていったのです。
『安岡正篤 心に残る言葉』致知出版社
https://amzn.to/331mPxK
昨今、デザイン思考ということがよく言われる。
変化が激しく、一寸先が読めないVUCAの時代はデザイナーのような発想が必要だということだ。
それは、新しい価値観やライフスタイルを生み出せる、つまり「イノベーション」を起こせる思考法が必要だということ。
しかし、それとは別に「温故知新(おんこちしん)」という発想もある。
温故知新とは、歴史や昔の教えを、もう一度調べ直したり、見直して、別の角度からその事柄や言葉にスポットライトをあてるということ。
「子日(しいわ)く、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る、以(も)って師と為るべし」
孔子先生は、古くからの教えを大切にして、新しい知識を得ることができれば、人の師になることができる、と。
新しい発想も、古くからの教えの中にヒントが隠されていることが多い。
ジェームズ・W・ヤングは「アイデアのつくり方」という本の中でこう述べている。
「アイデアは既存の要素の新しい組み合わせ」
そもそも、まったく新しい発想や発明と言っても、それは今まであるものの組み合わせに過ぎない、と。
安岡正篤師には及ぶべくもないが…
先哲の言葉に光を当て、
「述べて作らず」という生き方もある。
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藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
《先哲の言葉に光を当てる》
孔子は「述べて作らず」(述而第七)といいました。
私は自分の意見なんか何もいっていないよ、先人の教えを皆さんに伝えているだけだ、と。
これは安岡先生もまったく同じです。 安岡先生はこういう言葉を残しています。
「僕の人生は、古今東西の名言や記録の渉猟(しょうりょう)に明け暮れてきたが、その功徳は僕にとっても大変なものがあった。これをまた、分け与えるのが僕の使命である」
古今東西のあらゆる先知先哲の文献の渉猟に、時の経つのを忘れていたというのです。
そして、そこから学んだことをみんなに分け与える。
それが使命だと。
だから、安岡先生の一生はまさに孔子の「述べて作らず」と同じです。
先生は膨大な範囲の、膨大な深さの、先人の教えを皆に提供し続けた。
まさに、それが先生の人生だった。
歴史の中に埋もれた先哲の言葉に光を当てて、その古い言葉に命を吹きこんで蘇(よみがえ)らせていったというのが先生の人生だったと思います。
禅宗の公案を集めた『無門関』に野狐(やこ)禅の話があります。
安岡先生はよくこのお話もされました。
これ、私の大好きな話です。
あるとき百丈というお坊さんが説法をしていたら、一人の老人がやって来て、いつ も熱心に話を聴いていた。
あるとき、みんなが帰っても帰らない。
そこで、百丈が質問をするわけです。
「一体、あなたは誰か」と。
すると老人は言いました。
「自分は人間ではない。昔、この山に寺の住職として住んでいたものだ。
あるとき、修行者が私に問うた。
『和尚さん、大修行した人は因果律に落ちますか、 落ちませんか?』と。
すかさず私は答えた。
『不落因果、大修業した人間は因果律を飛び越えているから、因果律に落ちることはない』と。
そうしたら、たちまちにして野狐になってしまい、五百回も生まれ変わって今日に至ってしまった。
あのとき私は、本当はどう答えたらよかったのでしょうか?
どうか正しい見解を教えていただきたい」
そう言って、百丈に同じ問いを投げかけるんです。
「大修行した人は因果律に落ちるか、落ちないか?」と。
そこで百丈は即座に答えた。
「不昧因果」
すると、それを聞いた老人は一瞬にして悟った。
不昧因果とはどういうことでしょうか?
「不昧」というのは「くらまさず」という意味です。
だから、これは「因果の法則をくらましてはいけない」。
要するに、はっきりさせることだ、といっているわけです。
この言葉を聞いた老人は、野狐の身を脱することができた。
このあと百丈は裏山に死んだ野狐を見つけて、手厚く葬るんですね。
因果の法則は誰も飛び越えることができない。
これはすごいことをいっていますよ。
私は『致知』の取材を通して、いろんな経営者に会っていますが、いまだに覚えている言葉があります。
功なり名を遂げて、一財産どころじゃない、三財産も五財産もつくった経営者が晩年、私にこういいました。
「藤尾君、もう僕はこの世の中に恐いものはない」
恐いものはない、といい切ったんです。
私はそのとき、そんな境地があるのかと思ったのですが、その後その人はうまくいかなくなってしまったんです。
恐いものなんかないと慢心していたら、必ず因果の法則でひっくり返るんですよ。
松下幸之助さんはそうじゃないですよ。
これは谷井さんという元社長さんから聞いた話です。
社長になられた直後の谷井さんに、あなたが松下幸之助さんに教わったことは何ですか、と私が質問したら、このように答えました。
「松下さんが僕によくいったのは、感謝と畏れを持ちなさいということだ」と。
感謝を持ちなさいという経営者はたくさんいます。
しかし、畏れを持ちなさいといったのは松下さん一人だと思います。
この世の中、この宇宙には、人知を超えた存在がある。
人知を超えた因果の法則がある。
その因果の法則に対して、絶えず敬虔な畏れの気持ちを持っていかないと経営も人生も絶対にうまくいかないぞと松下さんはいいたかったのではないかと思います。
私はこの松下さんの言葉を聞いたとき、ものすごく感動しました。
同じように大成功しても、一方の人は「自分には恐いものなんか何もない」といい、松下さんは「感謝と畏れを持ちなさい」といった。
その結果はどうなったか。 こうしたことを教えているのが、「不落因果、不昧因果」なんです。
安岡先生は、そういう人生の大則を、手を替え、品を替え、事あるごとに教えていったのです。
『安岡正篤 心に残る言葉』致知出版社
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昨今、デザイン思考ということがよく言われる。
変化が激しく、一寸先が読めないVUCAの時代はデザイナーのような発想が必要だということだ。
それは、新しい価値観やライフスタイルを生み出せる、つまり「イノベーション」を起こせる思考法が必要だということ。
しかし、それとは別に「温故知新(おんこちしん)」という発想もある。
温故知新とは、歴史や昔の教えを、もう一度調べ直したり、見直して、別の角度からその事柄や言葉にスポットライトをあてるということ。
「子日(しいわ)く、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る、以(も)って師と為るべし」
孔子先生は、古くからの教えを大切にして、新しい知識を得ることができれば、人の師になることができる、と。
新しい発想も、古くからの教えの中にヒントが隠されていることが多い。
ジェームズ・W・ヤングは「アイデアのつくり方」という本の中でこう述べている。
「アイデアは既存の要素の新しい組み合わせ」
そもそも、まったく新しい発想や発明と言っても、それは今まであるものの組み合わせに過ぎない、と。
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