
【善人なほもって往生をとぐ】5424
明治大学教授、齋藤孝氏の心に響く言葉より…
「善人なほもって往生をとぐ。いはんや悪人をや」
知らない人はいない、というほど「歎異抄』で一番有名な言葉です。
「善人でさえ浄土に往生できるのだから、まして悪人はいうまでもない」。
これは「悪人正機」といわれている教えで、「正機」とは「仏の教えや救いの対象となる人」のことです。
ところで、一般の考え方を言葉にするなら、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」 で、「悪人が往生して浄土に行けるのならば、善人なら、なおさら行けるはず」。
これがふつうの考え方です。
そこへ逆に、「善人ですら往生できるのだから、悪人はもちろん救われるわけだ」という考え方を提出しているわけです。
これはどういうことなのでしょう。
これを理解するには、まずここでいう「善人」と「悪 人」とは、どういうものを表しているのか、親鸞の語っていることから導き出してみましょう。
まず「善人」とは「自力作善の人」、つまり自分の力で、修行や善い行いをすることができる人のことだとわかります。
偉い聖人のように「自力」で修行をしてさとりを開いて、この世で仏になることができる人たちです。
このような人たちは、なにも阿弥陀仏の力に頼って救っていただく必要はないわけですから、「他力」を信じる心がけではなく、阿弥陀仏の本願には背を向けていることになります。
これに対して「悪人」とは「煩悩具足のわれら」のことで、日々煩悩にとらわれてしまい、 修行などはとてもできない私たちのことです。
どんなに修行をしたとしても、この迷いの世からどうしても逃れられない。
実際、多くの人にとって、自力での往生はかないませんね。
「悪人」を、ふつうイメージするような、罪を犯して刑務所に入るような人たちとすると、 少し意味が狭くなりすぎます。
自分の力でさとる才能をもっている人に比べると、そうした能力のない人たち、煩悩まみれで罪深い、と感じている人たちを「悪人」といっているのです。
ちなみに、「煩悩」とは、人の心を煩わせて苦しめ悩ますもののことで、「百八煩悩」といわれるように、 欲望、 怒り、 愚痴、疑いなどたくさんあります。
このように、どうやっても、この世でさとることができないほとんどの人たち、さらにはほんとうに悪をなしてきた人たちですら、阿弥陀仏はあわれに思われて、手を差し伸べて救いとろうとされる本願をおこされたのです。
もし、自力で修行してさとることができる人がいれば、阿弥陀仏はその人に救いの手を差し伸べなくてもいいわけですね。
ですから、阿弥陀仏の本願をたのみとするほかは何の力ももっていない「悪人」こそが、 浄土に往生させていただくにふさわしいことになるのです。
というわけで、「善人なほもって往生をとぐ。いはんや悪人をや」は、親鸞一流の逆説がみごとにヒットしたところですね。
《善人とは自力でやっていける人であり 悪人とは他力にすがるしかない人だ》
『図解 歎異抄 たよる まかせる おもいきる』ウェッジ
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聖書の中に、「人を裁く」という有名な話がある。
姦通の罪に問われた女性がみんなの前に引き立てられ、律法学者はイエスに問いました。
彼女を律法にしたがって、石打ちの刑(死刑)にすべきか、と。
その判断を求められたイエスは、「あなた方の中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」。
すると、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去り、最後はイエスと、その女性だけが残った、という。
まさに、親鸞のいう「悪人」だ。
悪人とは、日頃、煩悩にとらわれ、様々な罪を犯してしまう凡夫のことでもある。
「善人なほもって往生をとぐ」という言葉を胸に刻みたい。
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「善人なほもって往生をとぐ。いはんや悪人をや」
知らない人はいない、というほど「歎異抄』で一番有名な言葉です。
「善人でさえ浄土に往生できるのだから、まして悪人はいうまでもない」。
これは「悪人正機」といわれている教えで、「正機」とは「仏の教えや救いの対象となる人」のことです。
ところで、一般の考え方を言葉にするなら、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」 で、「悪人が往生して浄土に行けるのならば、善人なら、なおさら行けるはず」。
これがふつうの考え方です。
そこへ逆に、「善人ですら往生できるのだから、悪人はもちろん救われるわけだ」という考え方を提出しているわけです。
これはどういうことなのでしょう。
これを理解するには、まずここでいう「善人」と「悪 人」とは、どういうものを表しているのか、親鸞の語っていることから導き出してみましょう。
まず「善人」とは「自力作善の人」、つまり自分の力で、修行や善い行いをすることができる人のことだとわかります。
偉い聖人のように「自力」で修行をしてさとりを開いて、この世で仏になることができる人たちです。
このような人たちは、なにも阿弥陀仏の力に頼って救っていただく必要はないわけですから、「他力」を信じる心がけではなく、阿弥陀仏の本願には背を向けていることになります。
これに対して「悪人」とは「煩悩具足のわれら」のことで、日々煩悩にとらわれてしまい、 修行などはとてもできない私たちのことです。
どんなに修行をしたとしても、この迷いの世からどうしても逃れられない。
実際、多くの人にとって、自力での往生はかないませんね。
「悪人」を、ふつうイメージするような、罪を犯して刑務所に入るような人たちとすると、 少し意味が狭くなりすぎます。
自分の力でさとる才能をもっている人に比べると、そうした能力のない人たち、煩悩まみれで罪深い、と感じている人たちを「悪人」といっているのです。
ちなみに、「煩悩」とは、人の心を煩わせて苦しめ悩ますもののことで、「百八煩悩」といわれるように、 欲望、 怒り、 愚痴、疑いなどたくさんあります。
このように、どうやっても、この世でさとることができないほとんどの人たち、さらにはほんとうに悪をなしてきた人たちですら、阿弥陀仏はあわれに思われて、手を差し伸べて救いとろうとされる本願をおこされたのです。
もし、自力で修行してさとることができる人がいれば、阿弥陀仏はその人に救いの手を差し伸べなくてもいいわけですね。
ですから、阿弥陀仏の本願をたのみとするほかは何の力ももっていない「悪人」こそが、 浄土に往生させていただくにふさわしいことになるのです。
というわけで、「善人なほもって往生をとぐ。いはんや悪人をや」は、親鸞一流の逆説がみごとにヒットしたところですね。
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姦通の罪に問われた女性がみんなの前に引き立てられ、律法学者はイエスに問いました。
彼女を律法にしたがって、石打ちの刑(死刑)にすべきか、と。
その判断を求められたイエスは、「あなた方の中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」。
すると、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去り、最後はイエスと、その女性だけが残った、という。
まさに、親鸞のいう「悪人」だ。
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