
【今こそ、リスクをとろう】4974
山口周氏の心に響く言葉より…
2005年から2008年にかけて世界各国で実施された世界価値観調査によると、日本は世界でもっともリスク回避傾向が強いという結果が出ています。
転職についてネガティブな先入観を持っている人は、このデータを見て「ほら見ろ、だから転職は日本の民族性や文化には合わないのだ。やはり一度入った会社で勤め上げるのが日本人には合っている」と言い放ちそうですが、私はちょっと違う考え方をします。
違う考え方とはすなわち、日本ではむしろリスクをとったほうが有利だ、という考え方です。
なぜか?
理由は単純で、リスクをとる人が少ないからです。
リスクをとる人が少ないということは、 「チャンスがそこにある」というときに、リスクをとってそれを獲得しようとする人が少な い、ということを意味します。
これを競争戦略の枠組みで言えば、心理的な参入障壁が高いために競合が少ない、ということになります。
いま、目の前に大きなぶどうの房がぶらさがっているというとき、リスク性向の強い国、例えば米国や韓国のような社会では、大勢の人が「よし、木に登ってぶどうを取ってやろう」と考えます。
当然、樹上での争いは熾烈になるでしょう。
落っこちて怪我をするかも知れません。
一方、日本では、目の前に大きなぶどうの房がぶらさがっているというとき、「落ちて怪我をするかも」といった懸念や「あの人が動かないのに先に動けないな」といった遠慮が邪魔をして誰も動けません。
皆、互いに目を合わせてモジモジしているだけです。
ここでもし、リスクをとってぶどうを取ってやろうという人――典型的には楽天の三木谷浩史さんやソフトバンクの孫正義さんのような人たち――が出てきた場合、米国や韓国と比較して、相対的に容易に果実を手にすることができる可能性があります。
日本はリスク回避傾向が強い、と聞くと反射的に「では転職は日本人には向いていないな」と思われるかも知れませんが、個人個人での最適解を考えれば、むしろリスク回避性向が強い日本だからこそ、積極的にリスクをとりにいく期待効用は大きい、と考えることもできます。
《必要に迫られた際に大胆で不敵であるのは、思慮に富むのと同意である》 (マキャヴェッリ)『フィレンツェ史』
リスクをとらずにぶどうの房がもがれるのをただ眺めていた人たちは、後になって「あのぶどうはきっと酸っぱいに違いない」と話し合って自分を慰めたりします。
こういった人たちが囚われる羨望と嫉妬と劣等感が複雑に入り混じった感情を、デンマークの思想家セーレン・キルケゴールはルサンチマンと名付けました。
ニーチェは著書の中で、ルサンチマンを持つ人々は非常に受身で自ら変化を主導しない(できない)ため、「他人と同じである」ことに最大の価値を見出す、つまり他人と同じであることを「道徳的」と見なすようになると述べています。
これは大変耳の痛い話で、日本で起こっている状況を実に的確に表していると思います。
日本では、「拔け駆け」に対する社会的な圧力や規範に、我々が強く縛られているといます。
「出る杭は打たれる」ということです。
これはまた、日本企業が全般的に退職者に対して冷淡な理由とも符合します。
なぜ冷淡な のか?
退職者が、退職後により幸福になったり裕福になったりすると、組織がルサンチマンに侵されるからです。
ニーチェは、その著作を通じて激烈にルサンを攻撃しましたが、それはルサンチマンが人間を向上させるのではなく、むしろ貶(おとし)めることによって安心感を得させようという心理的圧力として働くからです。
これは要するに「高みにある人々を貶めることで平等性を確保せよ」と言っているわけで、ルサンチマンに囚われた人の典型的な思考パラダイムだと言えます。
「ひたすら皆と同じことを道徳的であるとして求める人々」ばかりになってしまった社会では、進歩・発展が望むべくもないということは想像に難くありません。
かつてジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた “日本株式会社” システムの制度疲労が明らかとなった90年代初頭から、すでに四半世紀を経ているにもかかわらず、この国の新しい絵姿はなかなか見えてきません。
陳腐で私自身も辟易する比較論ですが、やはりなぜ米国にできて、わが国にできないのか? ということは考え続けなければならない問題でしょう。
そして、その大きな理由の一つに、ルサンチマンに囚われやすい国民性があると思っています。
「皆と同じ」であることが道徳的とされ、集団から飛び出して甘いぶどうを取った 人々をナンダカンダと難癖をつけてイジメることで、強引に「酸っぱいぶどう」に仕立ててしまう傾向が強い社会では、世界をリードするような新しいライフスタイルや技術イノベー ションが生まれるはずもありません。
『仕事選びのアートとサイエンス』光文社新書
https://amzn.to/3OXeNJs
2019年、グローバル・アントレプレナーシップ・モニター(GEM)は、世界50ヵ国で、18〜64歳の「起業意識」について調査した。
「周囲に起業家がいる(過去2年間に新しく事業を始めた人を知っている)」「周囲に起業家に有利な機会がある」「起業するために必要な知識、能力、経験がある」「失敗への恐怖が理由で起業しない」「起業に興味があるか」の5項目の調査。
結果は、ほぼ全部の項目で最下位。
昨今、スタートアップとかアントレプレナーシップの教育が行われる機会が多くなってきたが、しかし現実は起業意識は、世界の中でもダントツに低い。
その大きな理由の一つが、リスクを取りたがらない国民性にある。
また、失敗に対する寛容性の欠如もある。
起業家が資金調達するとき、投資家から「過去の失敗経験について」の質問を受ける。
アメリカでは失敗経験がある人はポジティブな印象を持たれる。
一度失敗していれば、次に失敗を犯すリスクが減るからだ。
しかし、日本ではその逆だ。
挑戦することと失敗することは、セットになっている。
つまり、失敗できない人は、挑戦もしていないということ。
それは、リスクを恐れているということでもある。
混沌とした今こそ、リスクをとれる人でありたい。
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山口周氏の心に響く言葉より…
2005年から2008年にかけて世界各国で実施された世界価値観調査によると、日本は世界でもっともリスク回避傾向が強いという結果が出ています。
転職についてネガティブな先入観を持っている人は、このデータを見て「ほら見ろ、だから転職は日本の民族性や文化には合わないのだ。やはり一度入った会社で勤め上げるのが日本人には合っている」と言い放ちそうですが、私はちょっと違う考え方をします。
違う考え方とはすなわち、日本ではむしろリスクをとったほうが有利だ、という考え方です。
なぜか?
理由は単純で、リスクをとる人が少ないからです。
リスクをとる人が少ないということは、 「チャンスがそこにある」というときに、リスクをとってそれを獲得しようとする人が少な い、ということを意味します。
これを競争戦略の枠組みで言えば、心理的な参入障壁が高いために競合が少ない、ということになります。
いま、目の前に大きなぶどうの房がぶらさがっているというとき、リスク性向の強い国、例えば米国や韓国のような社会では、大勢の人が「よし、木に登ってぶどうを取ってやろう」と考えます。
当然、樹上での争いは熾烈になるでしょう。
落っこちて怪我をするかも知れません。
一方、日本では、目の前に大きなぶどうの房がぶらさがっているというとき、「落ちて怪我をするかも」といった懸念や「あの人が動かないのに先に動けないな」といった遠慮が邪魔をして誰も動けません。
皆、互いに目を合わせてモジモジしているだけです。
ここでもし、リスクをとってぶどうを取ってやろうという人――典型的には楽天の三木谷浩史さんやソフトバンクの孫正義さんのような人たち――が出てきた場合、米国や韓国と比較して、相対的に容易に果実を手にすることができる可能性があります。
日本はリスク回避傾向が強い、と聞くと反射的に「では転職は日本人には向いていないな」と思われるかも知れませんが、個人個人での最適解を考えれば、むしろリスク回避性向が強い日本だからこそ、積極的にリスクをとりにいく期待効用は大きい、と考えることもできます。
《必要に迫られた際に大胆で不敵であるのは、思慮に富むのと同意である》 (マキャヴェッリ)『フィレンツェ史』
リスクをとらずにぶどうの房がもがれるのをただ眺めていた人たちは、後になって「あのぶどうはきっと酸っぱいに違いない」と話し合って自分を慰めたりします。
こういった人たちが囚われる羨望と嫉妬と劣等感が複雑に入り混じった感情を、デンマークの思想家セーレン・キルケゴールはルサンチマンと名付けました。
ニーチェは著書の中で、ルサンチマンを持つ人々は非常に受身で自ら変化を主導しない(できない)ため、「他人と同じである」ことに最大の価値を見出す、つまり他人と同じであることを「道徳的」と見なすようになると述べています。
これは大変耳の痛い話で、日本で起こっている状況を実に的確に表していると思います。
日本では、「拔け駆け」に対する社会的な圧力や規範に、我々が強く縛られているといます。
「出る杭は打たれる」ということです。
これはまた、日本企業が全般的に退職者に対して冷淡な理由とも符合します。
なぜ冷淡な のか?
退職者が、退職後により幸福になったり裕福になったりすると、組織がルサンチマンに侵されるからです。
ニーチェは、その著作を通じて激烈にルサンを攻撃しましたが、それはルサンチマンが人間を向上させるのではなく、むしろ貶(おとし)めることによって安心感を得させようという心理的圧力として働くからです。
これは要するに「高みにある人々を貶めることで平等性を確保せよ」と言っているわけで、ルサンチマンに囚われた人の典型的な思考パラダイムだと言えます。
「ひたすら皆と同じことを道徳的であるとして求める人々」ばかりになってしまった社会では、進歩・発展が望むべくもないということは想像に難くありません。
かつてジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた “日本株式会社” システムの制度疲労が明らかとなった90年代初頭から、すでに四半世紀を経ているにもかかわらず、この国の新しい絵姿はなかなか見えてきません。
陳腐で私自身も辟易する比較論ですが、やはりなぜ米国にできて、わが国にできないのか? ということは考え続けなければならない問題でしょう。
そして、その大きな理由の一つに、ルサンチマンに囚われやすい国民性があると思っています。
「皆と同じ」であることが道徳的とされ、集団から飛び出して甘いぶどうを取った 人々をナンダカンダと難癖をつけてイジメることで、強引に「酸っぱいぶどう」に仕立ててしまう傾向が強い社会では、世界をリードするような新しいライフスタイルや技術イノベー ションが生まれるはずもありません。
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2019年、グローバル・アントレプレナーシップ・モニター(GEM)は、世界50ヵ国で、18〜64歳の「起業意識」について調査した。
「周囲に起業家がいる(過去2年間に新しく事業を始めた人を知っている)」「周囲に起業家に有利な機会がある」「起業するために必要な知識、能力、経験がある」「失敗への恐怖が理由で起業しない」「起業に興味があるか」の5項目の調査。
結果は、ほぼ全部の項目で最下位。
昨今、スタートアップとかアントレプレナーシップの教育が行われる機会が多くなってきたが、しかし現実は起業意識は、世界の中でもダントツに低い。
その大きな理由の一つが、リスクを取りたがらない国民性にある。
また、失敗に対する寛容性の欠如もある。
起業家が資金調達するとき、投資家から「過去の失敗経験について」の質問を受ける。
アメリカでは失敗経験がある人はポジティブな印象を持たれる。
一度失敗していれば、次に失敗を犯すリスクが減るからだ。
しかし、日本ではその逆だ。
挑戦することと失敗することは、セットになっている。
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