
【今この瞬間の幸せに気づくこと】3695
小林正観さんの心に響く言葉より…
あるホテルでエレベーターを待っていたときのことです。
目の見えない方が2人、白い杖をつきながらエレベーターから降りてきました。
そして、「どなたかホテルの方はいますか?」と声を出しました。
私の後ろに荷物を押しているホテルの女性職員がいて「はい」と答えたので、2人は「大浴場はどちらですか?」と尋ねた。
職員は荷物のほうを向いていたので、2人が目の不自由な方とは気がつかなかったのでしょう、「あちらです」と指をさして言いました。
2人が「では肩を貸してください」と言ったので、職員も「あっ!」と気がつき、謝りながら2人に近づいて、肩に手を添えながら歩いていきました。
この光景を見て、思いました。
私は目が見えないという経験をしたことがありません。
だから「あちらです」と言われて不自由に感じたことはない。
日常のあたりまえの言葉なのです。
しかし、目が見えない人にとって、それはあたりまえの言葉ではなかった。
彼らは肩を借りて誘導してもらわなければいけないのです。
生まれてからずっと目が見えない人は、「1秒でもいい、いや0.1秒でもいいから、親の顔を見てみたい」「結婚した相手の顔を見てみたい」「子どもの顔を見てみたい」と思いながら生きているそうです。
私たちは、0.1秒どころが、生まれてこのかた目が見えないことなどないにもかかわらず、目が見えるということに対して、感謝することなどまずありません。
それどころか、「あれが欲しい」「これが欲しい」「あれをよこせ」「これをよこせ」と現状に対して不満ばかり口にしています。
私たちは小さい頃から、足りないものをリストアップして、それを手に入れなければ幸せになれないと教え込まれています。
そのように洗脳されているのです。
「自分がいかに恵まれているか」「自分がいかに幸せか」「自分がいかにありがたい状況に生きているか」ということに気づいたら、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」の「五戒」など口から出てきません。
願いがかなったら、望んだものが手に入ったら感謝する、というのは、本当の感謝ではありません。
何も要求することなく、不平不満を言うこともなく、いま目の前にあるものをありがたく味わう。
それこそが、本当の「感謝」なのです。
人は、自分がいかに幸せな状況のなかで生きているのかに気がつきません。
かぜをひいて、丸1日何も食べられなかったら、かぜが治ったときに食べた1杯のおかゆがとてつもなくおいしく感じられるでしょう。
元気いっぱいで毎日おいしいごちそうばかりを食べていたら、おかゆのおいしさはなかなかわからないでしょう。
では、かぜで丸1日食べられなかったことは、はたして不幸なことだったのでしょうか?
そうとはいえないでしょう。
私たちが「幸せ」を感じるためには、その前には一般的に「つらい、苦しい、大変」といわれる状況が起こるようです。
そういう構造になっている。
それは、時計の振り子にたとえてもよいでしょう。
真ん中から右側が、一般的にいう「不幸」。
つらい、悲しいと感じる領域です。
一方、左側に行けば、いわゆる「幸せ」だと思ってください。
「幸せを見せてください」と言われた神さまは、まず思いっきり右側に振り子を振ります。
そして私たちが「もう耐えきれない、ギブアップ」と言うと、神さまはその振り子から手を離します。
振り子は勢いがついて、真ん中を通り越して、大きく左側(幸せ)に行きます。
そのことに気づいたら、私たちはつらいこと、苦しいこと、大変なことに遭遇したときも、一喜一憂せずに、平静な心でいられるかもしれません。
『人生は4つの「おつきあい」』サンマーク出版
小林正観さんは、本書の中でこう語る。
『いまという瞬間に幸せを感じるということは、目の前にあるものを楽しみ、味わい、大事にすることです。
いま目の前にいる人を大事にして、できるかぎりのことをしてあげること。
それは「念を入れて生きる」と言い換えてもいいでしょう。
「念」という文字は、「今」の「心」と書きます。
「念を入れて生きる」とはどういうことなのか、すでに「念」という一文字の成り立ちに込められているのです。
それをお釈迦様は「刹那(せつな)、刹那」を生きること、言ったそうです。
1刹那とは、ほんの一瞬。
いまここのこの一瞬、一瞬が一生の長さだとお釈迦さまは説いたのです。
私たちはともすると、明日何をしようか、将来どうなっているかなどと考えて、いまの瞬間を過ごしてしまいます。
しかし、「刹那」を生きるということは、目の前にいる人、物、現象を大切にすること。
いまという瞬間を心をこめて生きることです。
良寛さんは「私の口から出る言葉は、すべて贈り物でありたい」と言いました。
貧しい僧侶であった良寛さんは、何か物をプレゼントしようと思っても、何も贈るものがない。
だからせめて、言葉を贈り物にしよう。
自分の口から発する言葉は、つねにやさしく、あたたかく、人を励まし、勇気づけ、心安らぐものでありたい…。
良寛さんは、たとえ人からどんなひどいことをされても、このことを実践しつづけたのです。
それが、この一瞬を大切に生きる。
すなわち、「念を入れて生きる」「刹那を生きる」ということです。
この一瞬を大切にしないで、いつ、誰を大切にするというのでしょう。
私たちは、いま目の前にいる人、いまここに起こっていることしか大切にすることはできません。
昨日会った人を抱きしめることはできないし、明日会う予定の人を抱きしめることもできません。
いま目の前の人を抱きしめること。
自分のとびっきりの笑顔を見せてあげること、できるかぎりのやさしい言葉を贈ってあげることです。』
我々は、ともすると、今この瞬間の幸せに気づかないことが多い。
目が見えること、手足が動くこと、息ができること、仕事に行けること、そして、生きていること…。
当たり前の幸せに気づかない。
不足を数える人は、今ある幸せに気づかない。
不足を数えれば数えるほど、不平不満、愚痴、泣き言、文句が出てくる。
良寛さんは「私の口から出る言葉は、すべて贈り物でありたい」と言ったという。
それが「愛語」。
心のこもったあたたかい言葉だ。
今この瞬間の幸せに気づき、愛語の実践を重ねたい。
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小林正観さんの心に響く言葉より…
あるホテルでエレベーターを待っていたときのことです。
目の見えない方が2人、白い杖をつきながらエレベーターから降りてきました。
そして、「どなたかホテルの方はいますか?」と声を出しました。
私の後ろに荷物を押しているホテルの女性職員がいて「はい」と答えたので、2人は「大浴場はどちらですか?」と尋ねた。
職員は荷物のほうを向いていたので、2人が目の不自由な方とは気がつかなかったのでしょう、「あちらです」と指をさして言いました。
2人が「では肩を貸してください」と言ったので、職員も「あっ!」と気がつき、謝りながら2人に近づいて、肩に手を添えながら歩いていきました。
この光景を見て、思いました。
私は目が見えないという経験をしたことがありません。
だから「あちらです」と言われて不自由に感じたことはない。
日常のあたりまえの言葉なのです。
しかし、目が見えない人にとって、それはあたりまえの言葉ではなかった。
彼らは肩を借りて誘導してもらわなければいけないのです。
生まれてからずっと目が見えない人は、「1秒でもいい、いや0.1秒でもいいから、親の顔を見てみたい」「結婚した相手の顔を見てみたい」「子どもの顔を見てみたい」と思いながら生きているそうです。
私たちは、0.1秒どころが、生まれてこのかた目が見えないことなどないにもかかわらず、目が見えるということに対して、感謝することなどまずありません。
それどころか、「あれが欲しい」「これが欲しい」「あれをよこせ」「これをよこせ」と現状に対して不満ばかり口にしています。
私たちは小さい頃から、足りないものをリストアップして、それを手に入れなければ幸せになれないと教え込まれています。
そのように洗脳されているのです。
「自分がいかに恵まれているか」「自分がいかに幸せか」「自分がいかにありがたい状況に生きているか」ということに気づいたら、「不平不満・愚痴・泣き言・悪口・文句」の「五戒」など口から出てきません。
願いがかなったら、望んだものが手に入ったら感謝する、というのは、本当の感謝ではありません。
何も要求することなく、不平不満を言うこともなく、いま目の前にあるものをありがたく味わう。
それこそが、本当の「感謝」なのです。
人は、自分がいかに幸せな状況のなかで生きているのかに気がつきません。
かぜをひいて、丸1日何も食べられなかったら、かぜが治ったときに食べた1杯のおかゆがとてつもなくおいしく感じられるでしょう。
元気いっぱいで毎日おいしいごちそうばかりを食べていたら、おかゆのおいしさはなかなかわからないでしょう。
では、かぜで丸1日食べられなかったことは、はたして不幸なことだったのでしょうか?
そうとはいえないでしょう。
私たちが「幸せ」を感じるためには、その前には一般的に「つらい、苦しい、大変」といわれる状況が起こるようです。
そういう構造になっている。
それは、時計の振り子にたとえてもよいでしょう。
真ん中から右側が、一般的にいう「不幸」。
つらい、悲しいと感じる領域です。
一方、左側に行けば、いわゆる「幸せ」だと思ってください。
「幸せを見せてください」と言われた神さまは、まず思いっきり右側に振り子を振ります。
そして私たちが「もう耐えきれない、ギブアップ」と言うと、神さまはその振り子から手を離します。
振り子は勢いがついて、真ん中を通り越して、大きく左側(幸せ)に行きます。
そのことに気づいたら、私たちはつらいこと、苦しいこと、大変なことに遭遇したときも、一喜一憂せずに、平静な心でいられるかもしれません。
『人生は4つの「おつきあい」』サンマーク出版
小林正観さんは、本書の中でこう語る。
『いまという瞬間に幸せを感じるということは、目の前にあるものを楽しみ、味わい、大事にすることです。
いま目の前にいる人を大事にして、できるかぎりのことをしてあげること。
それは「念を入れて生きる」と言い換えてもいいでしょう。
「念」という文字は、「今」の「心」と書きます。
「念を入れて生きる」とはどういうことなのか、すでに「念」という一文字の成り立ちに込められているのです。
それをお釈迦様は「刹那(せつな)、刹那」を生きること、言ったそうです。
1刹那とは、ほんの一瞬。
いまここのこの一瞬、一瞬が一生の長さだとお釈迦さまは説いたのです。
私たちはともすると、明日何をしようか、将来どうなっているかなどと考えて、いまの瞬間を過ごしてしまいます。
しかし、「刹那」を生きるということは、目の前にいる人、物、現象を大切にすること。
いまという瞬間を心をこめて生きることです。
良寛さんは「私の口から出る言葉は、すべて贈り物でありたい」と言いました。
貧しい僧侶であった良寛さんは、何か物をプレゼントしようと思っても、何も贈るものがない。
だからせめて、言葉を贈り物にしよう。
自分の口から発する言葉は、つねにやさしく、あたたかく、人を励まし、勇気づけ、心安らぐものでありたい…。
良寛さんは、たとえ人からどんなひどいことをされても、このことを実践しつづけたのです。
それが、この一瞬を大切に生きる。
すなわち、「念を入れて生きる」「刹那を生きる」ということです。
この一瞬を大切にしないで、いつ、誰を大切にするというのでしょう。
私たちは、いま目の前にいる人、いまここに起こっていることしか大切にすることはできません。
昨日会った人を抱きしめることはできないし、明日会う予定の人を抱きしめることもできません。
いま目の前の人を抱きしめること。
自分のとびっきりの笑顔を見せてあげること、できるかぎりのやさしい言葉を贈ってあげることです。』
我々は、ともすると、今この瞬間の幸せに気づかないことが多い。
目が見えること、手足が動くこと、息ができること、仕事に行けること、そして、生きていること…。
当たり前の幸せに気づかない。
不足を数える人は、今ある幸せに気づかない。
不足を数えれば数えるほど、不平不満、愚痴、泣き言、文句が出てくる。
良寛さんは「私の口から出る言葉は、すべて贈り物でありたい」と言ったという。
それが「愛語」。
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