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【「いま、ここ、わたし」をしっかり生きる】5607
ひろさちや氏の心に響く言葉より…
ここで大事なことは、
1.未来がどうなるか、われわれには分からない。
2.したがって、欲得計算にもとづいて未来を設計しても無意味である。
ということです。
それを一言でいえば、〈欲を捨てよ!!〉になります。
この場合、欲というのは、未来を自分の思うがままにしたいという望みにほかなりません。
だとすれば、「欲を捨てよ!」ということは、〈希望を持つな!〉です。たぶんこう言えば、人々は驚かれるでしょう。
わたしたちは「希望を持て!」と教え込まれてきました。
しかし、希望というものは、そういう名前の欲望です。
わたしたちは、変な希望は持たないほうがよいと思います。
希望は別名を「夢」といいます。
宝くじがありますが、あれが希望と夢の象徴です。
「希望を持て!」ということは、「宝くじを買え!」になりそうです。
ですから、われわれはあやふやな未来を期待することなく、ひたすら現在をしっかりと生きるようにすればいいのです。
サイコロ(を振って決める)による仏の判断が、「この会社に残る」となったら、転職のことなど考えず、その会社でしっかりやればいいのです。
でも、誤解してはいけませんよ。
しっかりやるということは、がんばることではありません。
その会社で、のんびり・ゆったり・ほどほどにやっていくのです。
そのことを、禅の世界では、〈即今・当処・自己〉といいます。
〈即今〉は「いま」です。
〈当処〉は「ここ」です。
そして〈自己〉は「わたし」。
わたしたちは、いま、ここで、わたしが生きているのです。
〈あのとき、あんなことをしなけれ ば、こんなに苦しまなくてすんだのに・・・> と、いくら後悔したところで、あなたがいまおちいっている苦境は変わりません。
あなたは、いま、ここで、そのあなた自身を生きねばならないのです。
だから、苦しいときには苦しめばいいのです。
苦しみを軽減させようとしてはいけません。
どっぷりと苦しみにふける。
逆に、楽しいときには、どっぷりと楽しみに生きる。
悲しいときには、わんわんと泣けばいい。
病気になれば、どっぷりと病気に浸かって生きればいい。
老いれば、じっくりと老いの苦悩を味わえばいいのです。
つまり、「なりきる」のです。
病人になりきり、貧乏人になりきり、老人になりきる。
『「がんばらない」お稽古』PHP
https://amzn.to/3HK8WET
「希望」や「夢」を持つな、と言われると、凡夫(ぼんぷ)の我々はとまどってしまう。
子どもの頃から、「希望」や「夢」という言葉が、どっぷりと心に沁み込んでいるからだ。
しかし、仏教においても、神道においても、明日というものはなく、「今、ここ」しかないのだ、と言われる。
それは、明日になっても、明後日になっても、気がつけば、我々の目の前には、「今、ここ」しかないからだ。
つまり、我々にできることは「今、ここ」をしっかり生きることしかないということ。
「しっかり生きる」とは、〈のんびり・ゆったり・ほどほどにやっていく〉こと。
それは、「人生を楽しむ」ということでもあり、もっというなら、「人生を遊ぶ」ということ。
「楽しむ」には、「苦しむ」という対義語があるが、「遊ぶ」には対義語がない、仏教的な絶対の境地。
たとえば、「遊行(ゆぎょう)」とは、僧侶があちらこちらをめぐり歩くことであり、行脚(あんぎゃ)とも言われる。
また、山田無文老師は「遊戯三昧(ゆげざんまい)」について、「働くことがそのまま遊びなんです。人のためにすることがそのまま遊びなんです。苦しい目に逢うこともまたそのまま遊びなんです」という。(禅、「あたま」の整理/知的生き方文庫)より
つまり、この世の道中を、道草したり、寄り道したり、遠回りしたり、迷ったりして、それを面白がって、楽しみながら、遊ぶように生きるということ。
遊ぶように生きる…
「いま、ここ、わたし」をしっかりと生きてゆきたい。
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ひろさちや氏の心に響く言葉より…
ここで大事なことは、
1.未来がどうなるか、われわれには分からない。
2.したがって、欲得計算にもとづいて未来を設計しても無意味である。
ということです。
それを一言でいえば、〈欲を捨てよ!!〉になります。
この場合、欲というのは、未来を自分の思うがままにしたいという望みにほかなりません。
だとすれば、「欲を捨てよ!」ということは、〈希望を持つな!〉です。たぶんこう言えば、人々は驚かれるでしょう。
わたしたちは「希望を持て!」と教え込まれてきました。
しかし、希望というものは、そういう名前の欲望です。
わたしたちは、変な希望は持たないほうがよいと思います。
希望は別名を「夢」といいます。
宝くじがありますが、あれが希望と夢の象徴です。
「希望を持て!」ということは、「宝くじを買え!」になりそうです。
ですから、われわれはあやふやな未来を期待することなく、ひたすら現在をしっかりと生きるようにすればいいのです。
サイコロ(を振って決める)による仏の判断が、「この会社に残る」となったら、転職のことなど考えず、その会社でしっかりやればいいのです。
でも、誤解してはいけませんよ。
しっかりやるということは、がんばることではありません。
その会社で、のんびり・ゆったり・ほどほどにやっていくのです。
そのことを、禅の世界では、〈即今・当処・自己〉といいます。
〈即今〉は「いま」です。
〈当処〉は「ここ」です。
そして〈自己〉は「わたし」。
わたしたちは、いま、ここで、わたしが生きているのです。
〈あのとき、あんなことをしなけれ ば、こんなに苦しまなくてすんだのに・・・> と、いくら後悔したところで、あなたがいまおちいっている苦境は変わりません。
あなたは、いま、ここで、そのあなた自身を生きねばならないのです。
だから、苦しいときには苦しめばいいのです。
苦しみを軽減させようとしてはいけません。
どっぷりと苦しみにふける。
逆に、楽しいときには、どっぷりと楽しみに生きる。
悲しいときには、わんわんと泣けばいい。
病気になれば、どっぷりと病気に浸かって生きればいい。
老いれば、じっくりと老いの苦悩を味わえばいいのです。
つまり、「なりきる」のです。
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「希望」や「夢」を持つな、と言われると、凡夫(ぼんぷ)の我々はとまどってしまう。
子どもの頃から、「希望」や「夢」という言葉が、どっぷりと心に沁み込んでいるからだ。
しかし、仏教においても、神道においても、明日というものはなく、「今、ここ」しかないのだ、と言われる。
それは、明日になっても、明後日になっても、気がつけば、我々の目の前には、「今、ここ」しかないからだ。
つまり、我々にできることは「今、ここ」をしっかり生きることしかないということ。
「しっかり生きる」とは、〈のんびり・ゆったり・ほどほどにやっていく〉こと。
それは、「人生を楽しむ」ということでもあり、もっというなら、「人生を遊ぶ」ということ。
「楽しむ」には、「苦しむ」という対義語があるが、「遊ぶ」には対義語がない、仏教的な絶対の境地。
たとえば、「遊行(ゆぎょう)」とは、僧侶があちらこちらをめぐり歩くことであり、行脚(あんぎゃ)とも言われる。
また、山田無文老師は「遊戯三昧(ゆげざんまい)」について、「働くことがそのまま遊びなんです。人のためにすることがそのまま遊びなんです。苦しい目に逢うこともまたそのまま遊びなんです」という。(禅、「あたま」の整理/知的生き方文庫)より
つまり、この世の道中を、道草したり、寄り道したり、遠回りしたり、迷ったりして、それを面白がって、楽しみながら、遊ぶように生きるということ。
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