- 松永史談会 -

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東京帝大教授永井潜の講義内容(大正3-4年度)

2014年09月03日 | 教養(Culture)
1914-15年度の東京帝大医科での生理学講義のノートで、永井は40歳。丁度助教授から教授に昇進する時期のもの。ノートの持ち主は戦後労働基準法の制定に寄与し、昭和25年5月24日58歳で死去した東京大学医学部教授(労働衛生→公衆衛生)石川知福のもの。公衆衛生院時代は環境生理学部門のトップを務めた。まさに永井潜の直弟子の一人だったのだ。一年間の講義ノートの分量が凄い。永井の講義も一年間で一冊の著書分のボリュームの代物だったようだ。私の経験では大学ノート2~3冊分(プリント配布の場合はクリアーブック60枚一冊)が一年分だが、こちらはボリューム的にはその数倍、大学ノート10冊超/年分はあるだろか。

大学ノートのままではなく製本されているが2冊で厚さ13センチ。下側の小型の方には順序正しく付箋が張られており、これら講義ノートが生理学の教科書として折に触れ参照され活用されていたことが伺える。



学者向きの優秀な学生は共通して几帳面。石川はその典型。
むかし、鎌倉にある県立史料館にて外務大臣となる陸奥宗光のアメリカ留学時代の講義ノートを見たことがあるが、彼の場合は毎日講義ノートを家で清書していたようだ。無論講義の中身はすべて英文。明治時代の留学生たちの学力の高さには敬服させられたものだ。横文字の多さではわたしの時代(1970-80年代)の講義でも見受けられたが、東京帝大学生だった石川のドイツ語の力にも舌を巻く。明治・大正期には口述本が数多く書籍として活字化され出版されているが・・当時の東京帝大(医学)生の筆記能力の高さには脱帽

永井は明治18年ころ、松永の漢学塾浚明館(長谷川櫻南館長、石井竹荘設立)で神童といわれた。ここで松永小学校の教員だった高島平三郎と出会い、漢学塾から広島師範付属小学校へ転校。以後誠之館から第一高等学校(ドイツ語専修)、無試験で東京帝大医科に。


永井の講義風景(昭和10年)、手前最上段席の学生はノートも取らず居眠り状態


昭和10年 東京帝大を退官する前年の肖像(医学部長)


昭和6年会の面々の卒業記念写真(銀座有賀写真館製)、中央の学長の隣に生理学教室の橋田邦彦(後年文部大臣、この世界的な生理学者は1940年代東条内閣の閣僚として早稲田大学の実証主義派の古代思想史家津田左右吉らを弾圧するとか、キリスト教博愛主義者とか自由主義的な学者を取り締まった、その大元締めの役割を演じさせられた)、その右隣が学部長の永井。


永井の科学的生命論・・・・・永井は実のところ当時わが国最高の哲学者の一人でもあったことが判る。永井は優生学の我が国における喧伝者として今日ではすっかり忘れられた存在。


橋田の贐の言葉は西田風で禅問答の文句そのもの・・・・意味不明。東条内閣では文部大臣を務めた実験生理学の権威。


永井の教え子の一人に小野田寛郎の兄貴:敏郎がいた。かれは卒業アルバム制作委員会のメンバーであり、第一高等学校出身の指導力抜群の医学生だったようだ。ポジショニングで前列中央に小野田敏郎(1911-2012)



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