- 松永史談会 -

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高島平三郎・松本孝次郎共訳のフレデリック・トレシイ 『児童心理学』、明治32年

2017年10月28日 | 高島平三郎研究
高島と松本の共訳の『児童心理学』、明治32年

二人は嫁さん同士が姉妹(大垣藩士黒田某の息子で陸軍大学教授[外国語]黒田太久馬の妹たち)である。


寿子の夫が高島平三郎。雑誌「児童研究」の編集など仲良くやっていたが、松本が東京高等師範教授の職を捨てて中国の師範学校の幹部教師になり、直後に辛亥革命。失意のうちに帰国したが、失職後のご両人の関係は疎遠になっていたようだ。しかし、高島はいまではすっかり忘れられた存在(といっても著作集が最近出された、明治・大正期に我が国の児童研究を先導した"大先生")だが、東京帝大出の松本孝次郎の方は早稲田大学で心理学の種を蒔いた人として記憶されているようだ。高島はああいう性格だったから、「木枯し紋次郎」化していく松本とはうまくやっていけなかったかな~。松本は黒田繁子とは離縁したのか、子供はすべて黒田姓。この子供たちは高島からもいろんな形で支援を受けたはずだ。


その10年後、明治44年に東京帝大の心理学教室が中心となり学会誌「心理研究」が発刊された。これはその創刊号。当時の心理学は実験心理学(京都帝大→東京帝大教授松本亦太郎)の方にシフトしつつあり、富士川游は生理学+心理学の蜜月時代を象徴するように本誌に執筆している。文豪ゲーテが好んで使ったphysiognomy(骨相術、人相学あるいは観相学)=前科学的思考批判を行っている。催眠術師の名前が出てくるのはその前科学的部分を肯定的にとらえた福来つながりのことか。
翌年には高島平三郎ー富士川游が中心となって日本児童学会「児童学綱要」 大正1年 洛陽堂が上梓されているが、当時、心理学者としての高島は相当に学閥の壁に苦悩させられ、結果的に自分を生かす方途として内務省嘱託の講師(御用学者)として全国を講演して回ったり、日蓮宗+日蓮研究にのめりこんでいく道を選択。こういう行動は高島側の心情としてはある種の防衛機制が働いた結果ではあったが、かえって心理学者の仲間からはますます白眼視される結果に。その点富士川游(医学史)は終始在野の学者として自らの道を歩み続け(大家の域に達するという意味において)大きな成果を得ている。

『心理研究』創刊号には元良勇次郎による発刊の辞が巻頭を飾っているが、とくにどってことはない内容で、創刊に際しての熱気とかは皆無。そういう意味では・・・・・


東京女子高等師範の倉橋惣三は幼児教育のパイオニアだが樋口一葉の名作「たけくらべ」を素材に児童研究
高島による小林一茶の俳句を使った児童研究の二番煎じ。ぽんち画の分析をした久保良英は広島高等師範の教授になるが、子供の落書き画の研究をした高島の影響は歴然。いまいうところの図像学研究の端緒は彼らが作った。方法論的にまとめあげたのはなんと関寛之・関敬吾の兄貴関衛だった。


関衛
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