- 松永史談会 -

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Repost版 『水野記』にいう今津浦の川東

2019年05月06日 | 断想および雑談
『水野記』にいう今津浦の川東
15, 2015 06:05
中世における本郷川の旧河道が現在の安毛川に在ったという話は第四紀学的や地形学的な根拠を基にしていわれていることではないが、沖田地区に関して長波と矢捨分に分かれ、集落として矢捨(安毛)は神村八幡の氏子、長波は本郷八幡(剣大明神)の氏子圏内、また農業水路「安毛川」が「大明神」と「宮下」との字堺に当たり、宮下地区の水田には神村住人の所有地もある。
ところで、『水野記』に「今津浦川東は神村の内」という記述がある。
この古記録は扱いの難しい代物だが、削平された字田中の「大明神」社の立地する小丘が今津分で、その丘に建立された大明神は今津への帰属を明示するマーカーだから、当然そこまでは<川西>。<川東>とは河川Aを念頭に置いたものではなく、大明神以東を流れていた川の東のことのようだ。
どうも河川Aの中世後期段階での旧河道の一つを捉え、その川東は神村分だという領域認識を『水野記』は表現していたようだ。
明治26年今津村測量図中の字「宮下」はその付近の宮前などの地名から考えて明らかに神村八幡宮を念頭に置いた地名。字「宮下」は神村にもあり、今津分との境は八幡さんの参道だ。近世の村切りの段階にこのようなことになったのだろ。同様の措置がとられたため、中世の沼隈郡神村内に属した安毛集落は村切りの結果今日では行政的には今津村分だが、祭祀面ではなお神村八幡の氏子。こうしたことを勘案すると川東は現在の農業用水路「安毛川」あたりに中世後期段階の河川Aの流路があり、その東にあたる字「宮下」あたりは『水野記』にいう今津浦の川東だったのかも。 
今回取り上げた『水野記』のこの文節の重要なところは河川Aの河道は、羽原川ー町裏川同様、どうも後代に瀬替えされ、中世後期段階には大明神より東方にあったらしいというという点を史料面で示唆しているところだ。


安毛川はJR松永駅の南端部から松永町の長和島西側の竪入川に接続する水路だが・・・・一度、中世後期における本郷川の旧河道が現在の安毛川に在ったか否か、第四紀学的や地形学的調査をやってみる必要がありそうだ。


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