撮影は△マーク地点より
南側の風景(浦崎半島 正面に尾道市浦崎町青木)⇒撮影地点(△)から青木
北側の風景⇒撮影地点(△)より本郷町旧本郷温泉峡・府中方面
北側風景の解説
追加解説@本郷奥山
参考までに本郷城山東方~北東方の眼下に見える風景
城山の眼下には旧沼隈郡本郷村の諸寺が(寺d=東蔵坊)立地した。
北側の風景とは山側、南側とは海側のことで宮本常一世代の福山市内に居住した地域史研究者村上正名はその接触点をテーマ化しそこでの研究テーマ(地理学的にいえば「生活様式」/ mode of life or lifestyle)をやや文芸的だが「渚の営み」にあると規定していた。そこでのポイントは農山村と漁村との交流(例えば物流)という側面と共に,無論そのこととも関連していくことではあるが干潟の発達した瀬戸内の風土に根座した議論(環境史/開発史)に繋がってくるのだろうと思う。『瀬戸内海の研究』において宮本は地域/海域としての瀬戸内海島嶼部の「環境・歴史・文化」にスポットを当てた訳だが、わたしの本日訪れた福大通り/山陽本線高架橋上で懐いた感情はこういった先人達の視座を俯瞰できる論理的な枠組みを新たに構想・提案・準備していくことの必要性についてのものだった。
数年前までわたしがよく訪れていた№10高圧鉄塔からの松永湾の眺め。↓ 遠山は四国山脈、右端の方のピークが石鎚信仰で知られる愛媛県の石鎚山。参考までに言及しておくとこの地方の住民は鳥取県の大山を石鎚山と同様に信仰対象の「遠山」(大山信仰の聖地)として認識してきた。
宮本常一の地域史研究は島嶼性という切口から瀬戸内海の中近世史(正確に言えば「風土」の歴史)に関し宮本流のやり方での俯瞰形を提示したもの。
№10高圧鉄塔からの松永湾の眺めは一つのやり方として四国までを含めた遠近法的思考の可能性に気づかせてくれる。
なお、高圧鉄塔№9-№10の間に小田谷があり、その谷頭には江戸初期には小田(こだ)と呼ばれる銅鉱採掘を生業とした山師たちがつくった小集落があった。そこを通過したのが東蔵坊方面から府中・新市方面に抜ける近世の小田越道だった。
元禄13(1700)年段階における屋敷持ちとして金右衛門と五郎右衛門の二名の記載、そのうち前者は7反程度の山畑保有。
広島県年表
元和5年(1619) 水野氏,福山城下町建設のため安那郡神辺より大念寺を,沼隈郡神村洞林寺(本科一部4年・橘高忠・・・昭和3年6月『広島県福山師範学校校友会会員名簿』19頁・・・機会があれば場所を特定////遺称地は神村一区、調査済、寺跡は不明。道林寺池があるが、そこは字洞林寺ではない。墓地が立地するところが寺跡かも知れないが不明。グリーンハイツの猪原さんが佐藤久夫さんの屋敷脇に金属製の看板を便宜的に立てていた)より洞林寺(境内墓地内に森鴎外の歴史小説『北条霞亭』の主人公の後継者北条悔堂(1808-1865)墓あり、隣に賢忠寺水野勝成墓など)を城下に移転させる。この頃から,領内より城下に移転の寺院増加〔近世 1・福山市史〕。
寛永10年 4 尾道町,宗旨人別帳を作製する〔尾道・渋谷文書〕。
寛永15年(1638) 沼隈郡本郷銅山の金山寺,品治郡宮内村へ移転する〔近世 1〕⇒旧本郷温泉峡の一角に伝「寺屋敷」という比較的狭い地片があるが、ここが金山寺跡(なお、品治郡宮内村へ移転した金山寺についてはその真偽/存否について『備陽六郡志』『西備名区』などの史料で要確認)。
寛永20年(1643) 水野勝重,領内各地で銀山探鉱調査を命じる〔小場家文書〕
前述の小田集落(江戸中期に廃村)はこの時代に形成されたものだろうか。一帯は江戸時代を通じて藩有林だった。
廃村小田に残るむかしの間歩(まぶ)の出入り口
南側の風景(浦崎半島 正面に尾道市浦崎町青木)⇒撮影地点(△)から青木
北側の風景⇒撮影地点(△)より本郷町旧本郷温泉峡・府中方面
北側風景の解説
追加解説@本郷奥山
参考までに本郷城山東方~北東方の眼下に見える風景
城山の眼下には旧沼隈郡本郷村の諸寺が(寺d=東蔵坊)立地した。
北側の風景とは山側、南側とは海側のことで宮本常一世代の福山市内に居住した地域史研究者村上正名はその接触点をテーマ化しそこでの研究テーマ(地理学的にいえば「生活様式」/ mode of life or lifestyle)をやや文芸的だが「渚の営み」にあると規定していた。そこでのポイントは農山村と漁村との交流(例えば物流)という側面と共に,無論そのこととも関連していくことではあるが干潟の発達した瀬戸内の風土に根座した議論(環境史/開発史)に繋がってくるのだろうと思う。『瀬戸内海の研究』において宮本は地域/海域としての瀬戸内海島嶼部の「環境・歴史・文化」にスポットを当てた訳だが、わたしの本日訪れた福大通り/山陽本線高架橋上で懐いた感情はこういった先人達の視座を俯瞰できる論理的な枠組みを新たに構想・提案・準備していくことの必要性についてのものだった。
数年前までわたしがよく訪れていた№10高圧鉄塔からの松永湾の眺め。↓ 遠山は四国山脈、右端の方のピークが石鎚信仰で知られる愛媛県の石鎚山。参考までに言及しておくとこの地方の住民は鳥取県の大山を石鎚山と同様に信仰対象の「遠山」(大山信仰の聖地)として認識してきた。
宮本常一の地域史研究は島嶼性という切口から瀬戸内海の中近世史(正確に言えば「風土」の歴史)に関し宮本流のやり方での俯瞰形を提示したもの。
№10高圧鉄塔からの松永湾の眺めは一つのやり方として四国までを含めた遠近法的思考の可能性に気づかせてくれる。
なお、高圧鉄塔№9-№10の間に小田谷があり、その谷頭には江戸初期には小田(こだ)と呼ばれる銅鉱採掘を生業とした山師たちがつくった小集落があった。そこを通過したのが東蔵坊方面から府中・新市方面に抜ける近世の小田越道だった。
元禄13(1700)年段階における屋敷持ちとして金右衛門と五郎右衛門の二名の記載、そのうち前者は7反程度の山畑保有。
広島県年表
元和5年(1619) 水野氏,福山城下町建設のため安那郡神辺より大念寺を,沼隈郡神村洞林寺(本科一部4年・橘高忠・・・昭和3年6月『広島県福山師範学校校友会会員名簿』19頁・・・機会があれば場所を特定////遺称地は神村一区、調査済、寺跡は不明。道林寺池があるが、そこは字洞林寺ではない。墓地が立地するところが寺跡かも知れないが不明。グリーンハイツの猪原さんが佐藤久夫さんの屋敷脇に金属製の看板を便宜的に立てていた)より洞林寺(境内墓地内に森鴎外の歴史小説『北条霞亭』の主人公の後継者北条悔堂(1808-1865)墓あり、隣に賢忠寺水野勝成墓など)を城下に移転させる。この頃から,領内より城下に移転の寺院増加〔近世 1・福山市史〕。
寛永10年 4 尾道町,宗旨人別帳を作製する〔尾道・渋谷文書〕。
寛永15年(1638) 沼隈郡本郷銅山の金山寺,品治郡宮内村へ移転する〔近世 1〕⇒旧本郷温泉峡の一角に伝「寺屋敷」という比較的狭い地片があるが、ここが金山寺跡(なお、品治郡宮内村へ移転した金山寺についてはその真偽/存否について『備陽六郡志』『西備名区』などの史料で要確認)。
寛永20年(1643) 水野勝重,領内各地で銀山探鉱調査を命じる〔小場家文書〕
前述の小田集落(江戸中期に廃村)はこの時代に形成されたものだろうか。一帯は江戸時代を通じて藩有林だった。
廃村小田に残るむかしの間歩(まぶ)の出入り口