浦崎には堀と称する灌漑用の溜池が沢山ある。
これに類するものが『松永湾岸図屏風』にも記載されていた。
共同井戸といえば尾道・天寧寺のジャンボな共同井戸とか松永・「上之町」の「鍛冶屋川」だが、こちらは同類の共同井戸、柳津・市場組の共同井戸:通称「磐井」(中世史料に登場する「柳井津」(元禄検地帳上は柳津と表記)の柳井に当たる井戸だろうか)。神武天皇ゆかりの高島宮に引きつけ同天皇の上陸地の石碑及び貴船神社(水神さん)など井戸脇に立っているので、比較的最近、そういう文脈の中で付された呼称(つまり磐井という名称)だろう。類語に石井(松永・入江屋石井家一族の屋号は松井・吉井・安井・丸井とか井戸起源)。松永・字内小代ノ上の荒川。
長波・下條(下組)の共同井戸・・明治初年の野取図中に山畑脇の「井」(面積は1間6尺×1間8尺・・面積2坪程度)
野取帳記載の安毛の共同井戸
実物がこれ・・・いまは上水道の整備によって使われていない。
長波・先牧組の共同井戸
山路機谷のいた藤江の各家庭の井戸・・・・りっぱな井筒だ。各家庭がこのような状況なので恐れ入る。この井戸のことはいざ知らず、近所の岡田さん(金江境)宅のものは塩分がひどく飲用できないとのことだった。
安毛の天水(屋根に降った雨水)を貯める形での井戸
佐藤孫吉所有内の灌漑用溜池
高垣助七の所有地脇の灌漑井戸。野取り図にある「助七池」というのは高垣さん個人の灌漑用ため池のことだろうか。
2384番地の畑内に「掘」
現在は宅地(佐藤姓)
長庵・村上藤七所有地内の「坪」は井戸ではなく耕作地の隅に掘られていた屎尿をいれる野ツボを指すのだろうと思う。
水の利用形態はところかわればかくも変化に富んでいる。松永湾岸一帯のその問題は製塩業(鹹水=海水)と農業(真水=淡水)との相克だけではない。井戸の問題を丁寧に調べ上げれば研究になるがそれが誰もが注目する面白い研究になるか否かはその人の能力次第。井戸端をめぐる路地裏(尾道久保の水尾井など3つが集中し、傍らに熊野神社)などのフォークロアまで行きつけばすばらしいが・・・・そうなると文学的センスも必要になってくる。
この史料には現在松永駅の構内に当る場所に,明治8年当時、岡田新三郎所有畑に付属する形で存在した「私有井戸」(面積2坪)があったことが分かる。面積から想像するに、この「私有井戸」とはおそらく冒頭で紹介した『松永湾風景図屛風』中の浦崎あたりでは「堀」と呼ばれている灌漑用の小溜池あるいは井戸ではなかったろうか(以上2016/11/18 08:15:36投稿記事) 。雨水を含め陸水(淡水)の用途と貯留方法にはその土地の風土性なり、風俗(folklore=民俗の知恵)なりの有り様が反映される。
いろいろあれこれ隣地調査の結果を紹介してみたが、あくまでもわたしの基本的立場は史料面からその中にfolkloreを探るというもの。例えば、中世文書の中に登場するいわゆる「ズーズー弁」風の言葉で表記したものとか絵巻物/絵図に登場する犬追物原のようなものだ。
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福山市柳津町中組(「中世地名の「風呂の木」の故地)の場合共同井戸を介在させる形で「薬師堂」と「中組クラブ」(集会場)が立地。文字通り井戸端会議の場が形成されていた事が判る。
柳津・西組字つるぎ下(鞆往還脇)の井戸(塩分を含み、牛馬の飲料水用に使われた井戸・・・地元の人の話では明治4年の農民騒乱時に焼討ちされた旧西久井屋柳田栄助屋敷にあった3つの井戸の一つ)