個人主義の「淋しさ」を夏目漱石は次のように語る。
「我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです」
最近の統一教会問題の底流にあるのは、「個人の淋しさ」を癒すために宗教に求めたのだが、それがとんでもない宗教だった。
信じた本人だけが破綻するのであればいわゆる「自業自得」だが、周りを巻き込むからややこしくなる。
薔薇(ローゼンホルン)
植物との対話の方がよほど癒されると思うが。
幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく 若山牧水
自歌自釈として牧水は次のように語る。
人間の心には、真実に自分が生きていると感じている人間の心には、取り去ることの出来ない寂寥が棲んでいるものである。行けど行けど尽きない道のように、自分の生きている限りは続き続いているその寂寥に打ち向うての心を詠んだものである。
どうだろうか、寂しさを感じつつも前へ前へと進む意気込みが感じられないだろうか?
薔薇(メルヘンツァウバー)
宗教の目的は、単純である。
親鸞は次のように語る。
親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、よき人の(法然)仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり。
やたら現世利益を説く宗教は注意したほうが良いのだろう。
そしてお布施や寄付を強要する宗教も同様だ。
薔薇(チャイコフスキー)
ロシアといえば「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とばかりに、何でもかんでも貶めることには反対だ。
この爽やかなクリーム色の薔薇は好きだし、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲は良く聴く。