悲しい哉 秋の気為るや 簫瑟(しょうしつ)として、草木揺落(ようらく)変衰す。
憭慄(りょうりつ)たり 遠行に在り、登山臨水、将に帰らんとするを送るが若し。 宋玉
なんと悲しいかな 秋の気というものは、ものさびしくも、草や木は揺すり落ち、いろが変わって衰える。
こころいたむこと、まるで遠い旅にあって、山に登り水に臨んで,ふるさとに帰ろうとするひとを送る気分だ。
宋玉は屈原の弟子と言われる。
2300年ほど前の詩だが、ここに流れる詩情は今も変わることはないと思う。
つりばなの紅葉が始まる
最近苦々しく思っていることは、日本語を使えば意味が通じるときでも英語を使うことだ。
英語を使うことで優越感を持ちたいのだろうか?
日本語はやわらかい言葉だ。
そこに漢語が入ることによって強さが加わり抽象思考が出来るようになる。
たとえば「美」という漢字がある。この字を分解すると羊と大になる。
羊の肉は柔らかく古代中国人の好みに合った。
肥えた羊の肉を食べることは至福であるのみならず安心を意味したのだ。
「美」は美味の意味をあらわし、それが拡張されて美しいものに対する感動をあらわすようになった。
どうだろう。こんな風に考え方が発展していくことは楽しいと思うのだが。
薔薇(マチルダ)
このバラの優しい感じは「美味」だと思う。