引き続き自然教育園について思い出した事柄を、、、、
写真にあるように、中世はこの場所には「白金長者」と呼ばれる豪族が住んでいたと伝えられています。日本史での中世とは平安から室町なんでしょうか?当時盗賊や野火も多くあり、これらを防ぐために作られた土塁の跡が園内の外周部や館跡の周囲に残されています。
その後、江戸時代には高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となり、明治になって陸・海軍の火薬庫とか。これは知らなかったなぁ。でも何故に火薬庫??そして大正時代以降は宮内省の白金御料地(皇室財産)として、長く一般人は踏み入ることができない場所だったということです。戦後まもなく史跡に指定され、現在までこのような形で開発の手から守られているのです。
かつては目黒の自然教育園と呼んでいたが最近は白金の、あるいは白金台の自然教育園。そして周辺もいつのまにか「プラチナ通り」だって???
これはやだね!!!
ひがみ??かな??